最終話 走れクリス
クリスは目を開いた。読んでいたはずの本は閉じて目の前に置かれている。どうやら寝落ちしてしまったらしい。スマホで時間を確認すると、深夜三時。
彼はもう一度本を手に取り、途中から読み直す。
そして、最後のページを捲る頃には窓から火の光が差していた。テーブルに伏せて眠っていた友人も目を擦りながら意識を取り戻す。
「芹川…………!」
クリスは眼に涙を浮べて言った。
「俺を殴れ。力一杯に頬を殴れ。俺は、途中で何度か諦めかけた。芹川がもし俺を殴ってくれなかったら、俺は君と抱擁する資格さえ無い。殴れ」
突然殴れと言われた芹川は戸惑った。だが、彼自身もこの一日の出来事を思い出して言う。
「おいおいどうした。君は何か勘違いしていないか? 殴られるべきはこの僕だよ。クリスのことは確かに友人だと思っているのに、それなのに僕を見捨てても仕方ないなと思ってしまったし、君が居なくても僕の日常は恙なく進み続けるなとも思ってしまった。もし僕が殴るなら君も僕を殴れ。でもできれば痛いのは避けたいから握手で仲直りって感じでいいんじゃないか?」
「それもそうだな。あまりにも色々あって気が動転していたよ。これからもよろしくな、芹川」
「ああクリス、こちらこそ今後も仲良くしてほしい」
二人が平和的に再会を果たしている中、一人の影が近づく。
「…………今日中に図書館に来るという約束、ちゃんと守ったようね」
いつの間にか傍に立っていた司書にクリスは目を向ける。彼女があの暴君と恐れられていた人物だとは彼には思えなかった。
「出尾さん」
彼女の名を呼ぶ。暴君ではなく、本当の苗字で。暴君以外の呼ばれ方をしたことに少し頬を赤らめながら、彼女は髪を弄った。
クリスは席を立ちあがると、たった今読み終わった本を直接彼女に渡した。
「半年間も返し忘れてしまい、本当に…………本当に申し訳ありませんでした!」
深々と頭を下げた。出尾はその本を受け取り、表紙を撫でた。
「君たちは約束を守った。それに、私にとって大切なことも思い出させてくれた。出禁になんかしないわ…………好きなだけ来て…………というか、コホン。またのお越しをお待ちしております」
クリスはこのまま本当のことを言わずに済ませることもできた。しかし、何一つ嘘を残しておきたくなかった彼は、正直に彼女に伝える。
「出尾さん、実は…………その本借りただけで読んでいなかったです。でも」
「知ってる。さっきまで読んでたの、知ってるよ。面白かった?」
「まあ、はい…………あの、怒らないんですか?」
「何? 怒ってほしいの?」
「あわわわ」
動揺するクリスの様子を見て、かつて暴君と呼ばれていた図書館司書は「ふふふっ」と笑った。今の彼女は知っている。ゆっくりとタイミングを待つことも大切だということを。それから自分たちのペースで進んでいけばいいのだということを。
決して後ろには戻らない。進み続けている。それはごく僅かであっても、関わりがある限り、絶えることのない縁。
それは、彼らの関係を見ていて彼女が理解したことだ。
「もうすぐ始発の電車が出るでしょ? 君たちはお家に帰って大丈夫よ」
「もう少し居ても…………?」
芹川の提案に対し、出尾木乃香は笑顔で言った。
「だーめ。そもそも今ここに人が居ること自体アウトなんだから。ほら、早く出てー」
大学生の二人は何度か彼女の方へ振り返って「ありがとうございました」と言いながら、図書館の入口を出ていった。ドアが開いて、鳥の鳴き声と道路を通る車のエンジン音が澄んだ空気によく聞こえた。
二人を見送って図書館に一人になった彼女は、カウンターに戻って腰を下ろした。
スマホを取り出し、今日の出勤時間をチェックする。どうやら午後からの勤務らしい。確認し終えて、次はメールなどを確認する。こちらも問題ない。
そして、いつまで待っても新たなメッセージの来ることがない相手とのトーク画面を見た。相変わらず、何も来ていない。
最後のメッセージは木乃香から送ったものだった。
『またいつか連絡して!』
このメッセージを見返し、彼女は今更ながらではあるが、「なんと他人任せなんだろう」と思った。相手に全て委ねていたからこんなにも時間が経ってしまった。
メッセージを消したところで、時間が経ちすぎていて相手のトーク画面から消えることはない。しかし、相手は相手。自分の中で少しでも気持ちが変わればそれでいい。
彼女はそのメッセージを自分の端末から削除した。
代わりに別の言葉を置いておこう。
『久しぶり!元気?』
『今度、久々に会わない?』
『変な勧誘とかじゃないから安心してね』
時間は経っても、機会が減っても。それでも私は一人じゃなかった。
もしかしたら、何も返って来ないかも。
それでも。
私はまだ君との縁を信じている。
確信はできないけど、上手く行きそう。
雨がすっかり止んで晴れた日の朝、木乃香の中に居た暴君は消えかかっていた。そして、彼女がメッセージを送ってから数分後、早朝にもかかわらず通知がピコンと現れ、暴君の息の根は完全に止まる。彼女の目が本以外に対して輝いたのは相当久々であった。
「そういえばあの子、何の本借りてたのかなー」
本の表紙を撫でておきながら、題名を見ていなかった。改めて、手渡された本を見て、また彼女は笑顔になった。
本編完結です。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。今後、後日談を三つほど載せる予定なので、お時間あればそのときに。何かしら思うところがございましたら、コメント等で残していってくださると幸いです。ではまた。