第十二話 閉館時間
暴君出尾は上司たちに頼んでいた。
それは、例の二人のためであり、自分のためでもあった。
「今日、閉館時間以降も残って作業していてもいいですか?」
「うーん、それは難しいかな。上層部からなるべく早く帰ることが求められているからね」
筋骨隆々の先輩図書館司書に申し出るも、敢え無く断られてしまう。普段の彼女であればここで引くはずだった。しかし、今日は違う。
「お願いです。残業代が欲しいとかそういうのじゃないんです」
「そうは言われてもなあ」
「できるだけ早く帰ります。勿論今日中に。だからお願いします。上の方々に許可を」
「うーん、出尾さんがそこまで言うとはね。上層部に連絡したらまず駄目って言われるだろうな」
「そんな…………」
彼女は流石に上層部から目を付けられるのは避けたかった。もはやここまでかと思った彼女だったが、先輩司書の返答は彼女が思っていたものとは違った。
「まあ上に言わなければいいだろう。その代わり施錠は任せるから、ちゃんとやっておいてくれよ」
「えっ…………は、はい!」
暴君の胸は高鳴っていた。久方ぶりにルールから外れた行動を自ら、大好きな本に囲まれるこの場所で行う。それは、昨日までの彼女とは変わるきっかけだったのかもしれない。
思わずスキップしてしまいそうな気分で、勿論そんなことはせず、静かに歩いて、例の大学生の元へ戻る。彼は、本を開くことなく、ただ棚に並んだ本を見ていた。
「先ほどの件だけど…………上司からの許可も得たから認めてあげるわ」
「え…………いいんですか?」
「当然よ、私が直々に頼んだのだから」
「ありがとうございます、暴く…………じゃなくて図書館の神!」
「か、神とかそんなんじゃないしっ、適当におだてるなら柱に縛って口にガムテープ付けるわよ!」
「いや、もうなんでも大丈夫です。それで済むのなら進んで縛られましょう」
芹川は自らそんなことを言いだす人間ではなかった。しかし既に何時間も図書館にいる。その間におかしくなってしまったに違いない。それとも、元々そんな人間だったのだろうか。
物理的に縛られることはなく、再び図書館を歩き始めた彼は、雨の降りだした窓の外を見て思う。
「頼むぞクリス…………さっさと本を返しに来い…………」
クリスはびしょ濡れだった。それでも、まだ足は一歩ずつ図書館へ向かうために動いている。二度の乗り換えを済ませる頃には雨は弱まり、図書館の最寄り駅に到着したときには止んでいた。太陽は沈みかけている。閉館時間は過ぎていた。
「あ、クリスさん」
「誰だ?」
「芹川トラトスです。あなたの友達、芹川テウスの弟ですよ」
「ああ、弟君か。久々に見たから誰かわからなかったよ」
友人の弟が何故ここに居るかは置いておいて、彼は走り出そうとした。しかし、芹川の弟は彼を止めた。
「もう無駄ですよ。走るのは、やめてください。もう兄を助けることはできません」
「いや、まだ今日は終わっていない」
「もう図書館は閉館時間です。あーあ、ほんの少し、もうちょっとでも、早かったならなー!」
彼はニヤリと笑った。その様子を見たクリスは重要なことを思い出した。それは恐ろしくも、見過ごせない真実だ。
「芹川に、弟はいない」
だが、彼の弟を名乗る男をどこかで見た覚えがある気がする。
「お前は、誰だ?」
クリスが問うと男はスマホの画面を見せつけた。
「お前はこの女を知っているか」
そこに映っていた人物を、彼は知っていた。詳しくは知らないが、存在としては認知していた。何せ、今日出会った人物なのだから。
「…………ツインテじゃないか」
「髪型は聞いてない。名前を聞いている」
「それはわからない」
「じゃあ何故お前が彼女とカフェに寄ったり、ケーキ買ったりしているんだ。どう説明する」
トラトスと名乗る男は鼻息荒く、今にもクリスに飛びかかりそうな様子だった。対応を間違えれば、本当にかかってくるだろう。クリスは雨に濡れたままの姿、朦朧とした意識の中で正直に答えた。
「…………声をかけられたんだ。一緒に並んでほしいと言われたから並んだ」
「嘘をつくな! この顔だけ良いクズめ! お前みたいなやつがいるから俺らに彼女ができねーんだ!」
見当違いな意見を向けられ、クリスは困惑した。しかし、それ以上に気になることがあった。
「どうして君は俺が図書館へ急いでいると知っているんだ? それにツインテとケーキショップに並んでいることも知っている。どういうことなんだ?」
クリスの言葉を聞いたトラトスは、手で目元を隠すと「ククククッ」と不気味な笑い声をあげた。
そして、指と指の間から片目を見せて言った。
「ハハハ、俺は全てを知っている。お前の家に盗聴器を仕掛けているからな。いつボロを出すかと見ていたんだ。そしてお前は今日、ついにやってくれた」
「盗聴器? 趣味悪いな君。それに盗聴器を仕掛けているのなら、君の怒りがお門違いだということくらいわかりそうだが」
「…………どういうことだ?」
クリスを睨みつけるようにして言う。その顔を見ながら、ようやくクリスは彼が誰なのかを思い出す。彼は、友人ではないが、クリスや芹川と同じクラスになったこともある男だった。名を虎虎と言った。
それに気づいたクリスは妙に爽やかに答えた。
「君は俺のせいで君に彼女ができないと言った」
「そうだ! そうに決まっている。お前がそんな顔をしているからだ! 俺は一度しかできたことがない!」
「そうか、でも俺は一度もない」
クリスから告げられた事実を虎虎は受け入れられなかった。彼は半年前からクリスのボロ探しに明け暮れていた。それはちょうど彼が彼女と別れた頃だった。
それなのに、当の盗聴対象が彼にとって全くの無害だったのだ。
費やした時間を思い出し、苛立ちが爆発する。
虎虎はポケットから何かを取り出し、クリス目掛けて体ごと突撃してきた。
「ふざけるな! 俺の時間を、返せ!」
クリスの視界に、虎虎の手元が映った。そこには鋭利な刃物が見える。彼は焦った。今日はなんてツイてない日だ。
まともに相手して良いことなどない。クリスは彼から逃れるために走り出した。図書館へ向けて走るのではない。駅の交番に向けて走るのだ。
クリスは服が雨のせいで水浸しになり、既に全身が透けて見える状態だった。
だが、何よりも命は惜しい。
命なくして、友人の前に顔を出すことは許されない。
狂気に満ちた男から逃れるため、全力で走った。
刺されて口から血を吐くなど絶対避けねばならなかった。