第十一話 本と友達
出尾木乃香は、彼らに特例を出したことについて、自分が行った行動だったはずなのに、その選択の理由を見つけられず、モヤモヤしながら午後の仕事に取り掛かっていた。
「出尾さん、返却された本を戻しに行ってくれる?」
眼鏡をかけた先輩図書館司書の女性に、カウンターから声をかけられ、彼女はその指示に従った。
「折り紙の本…………懐かしいなー」
手に取った本を見て呟いた。ふと顔を上げると、例の馬鹿の哀れな友人と目が合った。独り言が聞かれたと思い、素早く目を逸らした彼女だったが、改めてその人の方を向いた。彼は、本棚から折り紙の本を取り出し、眺めている。
木乃香は本が好きだった。小説も絵本も、漫画も図鑑も。だから彼女は今の仕事に満足しているし、本を触っていると安心する。しかし、図書館で勤務していると、そんな彼女の思いとは裏腹に、雑な扱いをする人も多く見かけるのだ。
その度に彼女は、自分の好きなものを否定される思いになっていた。そしてある日を境に、キレてしまうようになった。そんな自分に対し、反省もするのだ。暴君と呼ばれることに心を痛めもする。しかし、それでもやはり何度でも怒っている。本当は、本を大切に扱ってくれるだけでいいのに。
彼女は、友人という存在も好きだった。しかし、別々の道に進んでいく中で別れていった人とはもう会う機会がない。思い返すと一方的な思いで友人だと思い込んでいただけで、相手からは時が経てば必要とされなくなる。そんな風に、特に就職してから毎日のように思うのだった。
彼女もわかっていたはずだ。相手も忙しいのだということは。
でも、彼女の中には不安な気持ちが蓄積されていくだけ。
暴君は、自身の置かれた状況を理解したいと思っていた。
ただ、彼女は否定されるのを恐れていた。
「ねぇ……本ってどう思う?」
折り紙の本を読んでいるふりをする大学生に勇気を出して彼女は尋ねた。本当に訊きたかったことは違う。だが、声をかけるための話題としては、彼女の職業柄、最適解だった。
それなのに、大学生は彼女を無視する。本来の彼女は利用者に進んで声をかけるタイプではない。勿論暴君として恐れられているのもある。だから、内心ドキドキしながら声をかけたのに無視されたことに怒りよりも恥ずかしさを覚えた。
彼女は今の彼女なりに丁寧に声をかけ直し、ようやく彼は顔を上げた。
「時々遊んでくれる友達みたいなもの、かな」
彼の答えはどれも、彼女にとって新しい考えだった。それは、本に対しても、友人に対しても。
出尾木乃香は、気づく。
私が本や友達を大切にするように、他者にも本や自分を大切にしてほしいと思っていたことを。
そんなこと、あるはずないのに。
「君にとっての彼は本と同じようなものなのね」
彼女は言った。これは彼女自身に向けた言葉でもあった。目の前に立つ大学生がどう捉えたかはわからない。
彼女には彼らの気軽でも信頼し合える関係を羨ましく思えた。段々、自分が重い女であることを自覚しつつあった彼女だったが、結論に至る前に他のことに注意が向いた。
「なるほど、止まっているな」
大学生がスマホを見ながら呟いた。彼の額には汗が滲んでいる。彼女は何が起こったのだろうかと単純に疑問に思い、彼のスマホの画面をこっそり覗いた。
『事故の影響で運転見合わせ』
彼女は全てを悟った。どうやら、例の男は閉館時間までに本を返しに来ることは困難のようなのだ。彼らの友情が実を結び、無事に本を返却してハッピーエンドを迎えることを密かに期待しているところがあった彼女にとって、その事実は再び友情の存在を掻き消すようなものだった。
出尾木乃香は暗い顔をした。
それは彼女が彼らに「閉館時間までに本を返せ」と言ったと思っていたからだった。しかし、実際は「今日中に」と確かに言っている。
それを覚えていた大学生は彼女の顔を見て、真剣な表情で言った。
「今、電車が止まっている。運転再開予定時刻が図書館の閉館時間と同じだ。僕の友人は恐らくその時間には間に合わない」
「そうでしょうね…………」
「でも、出尾さんは今日中に図書館へ返しに来いと言った」
「うん。それがどうしたの?」
彼は暴君と恐れられている相手に対して、真っすぐ頭を下げた。…………友人のために。
「お願いします! 彼は今日中に必ず図書館に来ます! だから、閉館後も彼を待っていただけないでしょうか!」
図書館内に響かない程度に大きな声で彼は言う。出尾木乃香はその内容を理解した。閉館時間が来ても、それは今日が終わったとは言わない、と。
常識的に考えて、閉館時間までに間に合うようにするのが普通だろう。しかし、彼らにはその普通を破ってまで、示したいことがあるように彼女には思えた。
「お願いします…………」
頭を下げたまま、小さな声でもう一度言う彼を見て、彼女は言った。
「………館内で大声出さないでよ…………」
「すみません…………」
「…………もうっ、ちょっと上司に確認してくるから待っててよね」
返答を聞いた彼はすぐに顔を上げた。その顔は驚きと期待を隠せずにいる表情を浮かべていた。暴君は、誰かにそんな眼差しを向けられるのは久々だった。嬉しい、というよりも小恥ずかしさが勝って、頬が赤らむ。
すぐにくるりと背を向けると、本の入っていたカートを押してカウンターへと戻っていった。
後姿を見送って、芹川は折り紙の本を棚に戻した。