85 河田長親、大溝城に至る
若狭小浜を発した河田軍は、近江国境を越え高島郡に入ると朽木城を無血で開城させ、廃城となった清水谷城を横目に大溝城に迫った。
大溝城は琵琶湖に面して建てられた琵琶湖を織田家の内海とするための城の一つである。織田信長は安土、坂本、長浜そして大溝の各城を琵琶湖を制するように配し最も信頼する者に任した。
そして各城間の連絡は船を利用することで各城が孤立することを防いでいた。
この度の上杉軍の南下に対応し織田軍は大溝城を中心に防衛線を構築していた。大溝城の守りは津田信澄がそして西側の山上にある打下城を改築し明智光秀が守っている。
打下城は津田信澄が大溝城に入るまで居城にしていた城でそれなりの規模があった。
ここを明智光秀が改築し大溝城と連携して対応できるようにしていた。
その防衛線に上杉軍が迫ってきた。
しかし、河田長親は打下城を無視するかの如く一直線に大溝城を目指した。
上杉軍も織田軍も一発の発砲もない中、河田長親は静かに大溝城大手門前に旗標を据えた。
大手門が開くと平服姿の津田信澄が供廻りを連れて現れた。
戦わないという意思の現れであろうその姿は堂々としていた。
そして、そこにいたのは信長に従順な甥ではなく兄信長に叛旗を翻して誅殺された織田信勝の嫡男信澄であった。
開戦前の交渉で津田信澄は心を決めた。上杉三郎と共に新しい日ノ本を創るために行動することを。
父は信長の他人の心を解さない性格を嫌い反乱を起こしたのではないか、信澄は最近になって息の詰まるような奉公の中でそう思うようになってきていた。
隼介が段蔵を使って成したこの寝返りを軸に今回の上洛戦は構想されていた。
「津田殿、よく決断をなさいました。我が御屋形様もこれで戦の世を終わらせることができると嘉みなされております。」
深く頭を下げた信澄は、
「お約束は守って頂けるのでしょうな?」
信澄の妻は光秀の娘である。信澄は岳父である光秀を説得し共に上杉に味方することを条件としていた。
現状、光秀は上杉からの連絡を拒否していないが、かといって同心している訳でもない。
「これから共に明智様に会いに参りましょう。明智様のお考えは我が御屋形様と通じるところがあります。必ずや御味方頂けると信じています。」
隼介と光秀は何度も書簡のやり取りをしていて、感触としては上杉に近いと見ていた。
なんと言っても信長を襲ったのは光秀と見ており、信長の復活で光秀が上杉側に付くと確信していた。
長親と信澄は打下城の光秀と交渉すべく使者を出していて、
今日の午後、打下城で交渉の席が持たれることになっている。
まず、信澄が供回りだけで先行し、長親が兵3百を護衛に後続して打下城へ向かった。
上杉の使者として光秀を説得できるのは三郎、隼介の他には河田長親ぐらいである。長親はその頭脳の明晰さで三郎、隼介の日ノ本平定構想を正確に理解していた。
2人は打下城の大広間に通され、明智軍の幹部に囲まれながら、光秀に対面した。
「河田殿か?我等は上様の大恩によりここまでの身代を任せて頂いている、今更宗旨変えして上杉に仕えられるものではない、早々に立ち返り弓矢の準備をされよ!」
光秀は目付の目を気にしてか杓子定規な挨拶をした。
「義父上!義父上が話してくれた生命の重さは誰であろうと同じである。との言葉を実践しているのが上杉様です。必ずや戦のない、誰も泣くことのない世を作られます。我等も共に参りましょう!」
光秀は戦死した者の見舞いに米を贈ることがあった、生命に高い安いは無いと考えていた光秀は身分に関係なく小者まで同じ量の米を送ってたりしていた。
「明智様、間もなくわが主上杉三郎がこの地に至ります。会われてからでも遅くはないと思います。いくら信長様が岐阜城に戻られたからといってそんなに急ぐ事はないと存じます。」
信長様が戻られた・・場が凍りついた。
「信長様が生きておられたのか?それは確かか?」
周辺から喧しい程言葉が行き交った。
長親のこの一言がトドメであった。
光秀は、一瞬で腋から汗が噴き出た。
腹心の斉藤利三は静かに席を立つと織田家の目付の後ろに座り脇差を抜くと左肩を左手で押さえると目付は何?と振り向こうとしたが、その瞬間斉藤利三の脇差が背中から心の臓に向けて刺し込まれた。うっという声を発して目付は突っ伏した。斉藤利三は返り血を浴びながら平然とその場に座り、光秀に目で合図を送ったように見えた。
光秀は、
「致し方ない。上杉殿にお会いしましょう。」