82 美濃、風雲急を告げる。
油坂峠に向かう街道は軍が通るには狭く、急坂で整備されていなかった。上杉軍は先遣隊として工兵部隊を出し、それに続く形で本隊が進んでいく。
しかし、こいつまで押し付けられるとは思わなかった。
「喜兵衛?」
聴いているのか聴いていないのか頭を右に左にキョロキョロさせている。
「喜兵衛、聴いているのか!」
「あっ、これはこれは喜兵衛とは某のことでござるか?某は真田安房守昌幸と申す。」
こいつ、おちょくりやがって。
「真田どの。」
「何でござろうか?」
「忘れたわい。」
ハハハッ、と笑いながらの行軍ではあった。
太陽が中天を過ぎて暫くすると、先鋒からの使番が、
「先鋒が峠を越えました。」
「我らに先行する一団がありましたが、見失いました。」
うむ。間もなく峠だな、先行する一団は気にはなるが・・
「先鋒に伝えよ!適当な場所を選び、夜営の準備をせよ!」
今日は少し早めに休ませよう、明日は早くから走り続けることになりそうだからな。
その夜は峠を越えたところでの夜営となり、昌幸と明日以降のシミュレーションを繰り返しながら夜が更けるまで最も確実な方法を詰めた。
信長一行は後ろから急速に近づく上杉軍の先遣隊に追われるように急いでいた。
が、峠を越えたところで追い付かれそうになり、街道を外れて身を隠し、その一隊をやり過ごした。
それからは街道に戻らず和尚が知っているけもの道を通り郡上八幡を目指した。
夜明け前、軍は動き出した。
精兵が山を駆け下りて行く。速度を制御し軍としての規律を維持しながら進んでいく。
先導の工兵隊が最低限の整備をしつつあるところに追いつき追い越した。
先鋒は美濃郡上八幡城に向けて一気呵成に突き進む。
その日の夕刻、郡上八幡城の手前で軍列を整えると城主遠藤慶隆に向け降伏勧告を行なった。
使い番が敵将からの丁寧な拒絶の書簡を持って帰ると、
「城内は十分な準備はできておらんように見えました。士気も高いようには思えませんでした。」
横から昌幸が、
「乾坤一擲、夜襲でしょうね。」
敵が守備を諦めて攻勢に出るのではないかと言った。
「塹壕と柵で防御陣を張ろう。」
工兵部隊を中心に急ぎ作業を行った。元々敵地での夜営では、実施している作業である、皆てきぱきと陣地を構築した。
上杉軍の本陣に喚声と鉄砲の音が聞こえ始めた。
「隼介、行こうか。」
準備を整え終わっていた真田昌幸が甲冑姿で呼び掛けた。
隼介は、ニッと笑い
「よし、行こうぞ!押し出せ!」
采配を振るった。申し合わせ通り、夜襲に対処する部隊を残して城に向かって軍を進めた。
郡上八幡城はほぼ空になっていた。女子供に老人が守るに過ぎない。
そこに上杉軍が夜襲をかけた。
あっと言う間に虎口を破り城内へと侵入した。
明け方には本丸に追い上げられた城方は降伏の使者を出した。
上杉軍を夜襲した軍は上杉軍の防衛線を崩せず半数を失って撤退した。城が見える場所までたどり着くと帰るべき城が敵に囲まれ今にも落城しようとしていた。
「完全に裏を掻かれた、無念である。」と言うと岐阜を目指して落ちていった。
その日の午後、信長は岐阜城にたどり着いた。
大手門に着くと蘭丸が前に出て、
「森三左衛門(可成)が一子蘭丸である。開門!」
「森蘭丸様と言えば行方知れずの方」蘭丸の顔を知らない門番はオロオロとどうして良いか分からず、上司の詰める詰所に走ろうとしたところに騒ぎを聞きつけた門番の頭が出てきた。
「どうした?」と門番に声をかけ門の外に立つ一行を見て仰天した。
「う、上様。上様のご帰城である!門を開けよ!」
と土下座と同時に配下の門番に命じた。
「上様がお帰りになったぞ!」
「上様のご帰還じゃ!」
岐阜城は一気に沸き立った。
留守居役の安藤守就が慌ててやって来て、
「上様、上様、お待ち申し上げておりました!」
信長帰還の報は瞬く間に城内を駆け巡った。
御殿の大広間に入った信長は矢継ぎ早に指示を出した。
安土の信忠に対し、3万の兵を至急に岐阜に向かわせるように指示を出すとともに、尾張、伊勢に残った兵の召集をかけた。
また徳川に対して武田への牽制を指示した。
出来ることはやったが、間に合うか?
岩村城が武田の手に落ちたとの報が入ったのはその日の夜半であった。
「和尚の言う通りになってきたな。」
郡上八幡から岐阜まで普通なら2日間の距離だが、無理をして1日で来ることも考えられる。
武田軍が居る岩村からも3日間あればここまでやってくる。
今、この城の守りは1千5百、この2日間でどれほど集まるか?
一方で近江戦線は湖東では山本山城の攻防戦、湖西は大溝城の攻防戦が始まろうとしていた。
安土城の織田信忠は、父の帰還を喜ぶ間もなく手元にあった滝川一益軍を岐阜に進発させると湖西の佐久間信盛、湖東の丹羽長秀をも岐阜に派遣しようとしていた。