76 隼介、小田原へ
夕餉の席で伊勢松は思い詰めた顔を上げ、両手の拳を握りしめて父に向かい、
「父上のことを戦下手の卑怯者、所詮百姓よ、と申すものがおります。悔しくて悔しくて・・自分は強い武将になろうとだけ思ってきました。でも、今日の名主共を観ていると何か違う様に思いました。父上を見る領民の目は自分が見たこと感じた事のないもので自分までも熱くなる何かを感じました。自分が強くなりたいとだけ思っていたことは間違っていたのではないかと思いました。自分はどうしたらいいのでしょう?」
ほう、船の教育の見事さよ。
「伊勢松、よく自分でそこまで思い至ったな。嬉しいぞ。」
隼介は箸を置くと伊勢松の目を見つめ、
「お前が聞いたその話は間違ってはおらん。儂は戦に勝つためには卑怯と云われる手を使って来たし、これからも使うだろう。それに戦下手は悔しいがほんとじゃ。だがな、伊勢松。戦とはなんだと思う?」
ちょっと考えると、
「敵を倒しその領地を我が物にします。」
「そうだな、その結果どうなる?」
「我が方の領地が増え、兵が増え国が強くなります。」
隼介は笑顔になりながら、
「まあ、半分じゃな。戦をすると敵も味方も多くの兵が死ぬ。だけでなく耕地は荒らされ、領民は、奴隷にされ売り飛ばされる。増える土地もいい土地ばかりではない、増えてもお荷物になる土地もある。戦には金がかかる、勝っても損することもある。ましてや負けると悲惨なことになる。」
こんな話がある。と続けた。
「昔、甲斐国は貧しかった。貧しさから抜け出すために信濃の土地を欲した、甲斐の国主である武田は貧しさゆえに戦を繰り返し信濃を掌中に入れた。甲斐の領民は信濃での戦で乱取りをするなど良い思いをした。だが、攻められた信濃はどうであろう?今は同じ武田の領国となっているが武田に荒らされ、乱取りされ、果ては奴隷として売られた。」
一呼吸おき、続けて
「弱いのが悪いと言うのは簡単だ、だがやがて自国となるのに何かおかしいと思わぬか?」
複雑な表情を浮かべる伊勢松を笑顔で見つめながら、
「戦とは色々な側面を持っている、ただ攻めて勝てば良いというものではない。我が国主三郎様と儂は戦のない日ノ本を作るために日ノ本を一つにしようと誓った。」
そして静かに、
「戦は始まる前に9割方勝負がついているものだ、儂はこれを10割にするために策を立てている、最も良い戦い方、勝ち方は戦をせずに勝つことなのだ。」
「父が関東から帰るまでに戦をせずに勝つとはどういう事か考えてみよ。」
父の目を見つめながら、考え込む伊勢松がそこにいた。
戦をせずに勝つ・・
隼介は2日間与板で過ごし、伊勢松と別れて関東へ向かった。
三国峠へ向かう道々で見る越後国内はどこも緑の稲が一面に植えられて見事な様子である。
良く頑張ったな・・運も良かった・・
三国峠にたどり着くと流石の隼介でも感傷に浸らずには居られなかった。そこから観る関東は変わらず美しかった。
帰ってきた・・
ではない。越後に入る時は小鳥遊隼介であった。
今は上杉家家臣の直江大和守長綱である。
里帰りではなく仕事に来たのだ。
感傷を振り払い小田原へ急いだ。
その道すがら見る景色はまだまだ荒地が多く、越後と対照的であった。それでも小田原までの道は穏やかな天気と安定した治安のおかげでのんびりとした道程であった。
小田原城に着くと本丸の対面の間に通され、「しばしお待ちを」と1刻ばかり待たされた。
「失礼いたします。」と腰の低い温厚そうな初老の武士が部屋の入口で片膝をつき、
「申し訳ございません。殿様は御不例につきご対面が叶いません。申し訳ございません。これより宿所にご案内致します。」
やっぱりな。元々、伊豆の百姓の子などと会う気はないということのようだな。
「それはいけません。御養生致してください。これは、主人三郎から相模守様に宛てた書簡でございます、お渡しください。」
さっさと帰るが吉のようだな。
「われらこのまま久野屋敷に伺います。何方か先導をお願いできませんか?」
露骨にほっとした表情の老武士は
「それは残念でございます。今宵は相模の海の幸で宴を用意致しておりましたものを・・では、先導をご用意致します。」
老武士が去ると側つきの一人が「ご馳走になつてからでも宜しかったのでは?」
隼介は笑いながら、
「相模湾の雑魚が2、3匹大皿に載っておろうか?久野屋敷の方が遥かに豪勢さ。」
さあ、行こうか!
海東青の旗標を掲げた1百の騎馬隊は郊外の久野屋敷を目指した。