75 隼介、与板にて
直江屋敷は祝いの喧騒に包まれていた。
船が産んだのは女子であった。
「でかした、元気な子じゃ。」と横になっている船の手を取った。
船は嬉しそうに隼介を見つめ、
「やっと、やっとでした。次は男子を産みます。」
船の手をギュッと握り、
「我が子に男も女もない、船が元気ならばどちらでも構わない。かわいらしい顔をしておるぞ。」
手を握り返して、
「旦那様、ありがとうございます。この子の名前をお願いしますね。」
懐から2枚の紙を出して、
「このどちらかと考えておる。」
一方の紙には『葉』、もう一方には『奈津』と書かれていた。
「どちらも良いですが、私は『葉』が好きです。葉月ですよね。」
葉と書かれた紙を取り、宣言した。
「我が家のお姫様は『葉』と決まった。」
『葉』と書かれた紙をすやすやと寝ている赤子の側に置き、その上に折り鶴を一羽置いた。
それから10日後、隼介は小田原に向けて旅立った。供廻りと1百ほどの兵を連れていた。今回は嫡男伊勢松を与板の領地まで伴って行く。
隼介にとり、越後領内を視るのも久しぶりであったし、自領である与板に寄るのも久しぶりであった。
隼介が三郎の供をして越山した時は、低湿地が多く荒れ地も多かったが、その多くは田となった。今では民が仕事を楽しそうに中には歌を歌いながらする姿も見られるようになった。
荒れ地も無くなってきている。
三郎と二人、領民が笑って暮らせるようにしようと誓ったが、少しは良くなってきたかなぁ。と感慨深く見ていた。
この光景を伊勢松に見せたかった。
「伊勢松、ここが与板じゃ。お前がやがて支配する処ぞ。」
感慨深げに聞いていた伊勢松は、
「この様な豊穣の地であれば、何れ程の米が採れましょうか?」
そうか、伊勢松は昔を知らんからここが豊穣の地に見えるのか?
「ここも10年前は荒れ地ばかりであった。皆の努力でここまでなったのじゃ。」
府に落ちぬ様子で
「皆の努力でございますか?父上のお陰ではありませんか?皆そう申しております。」
与板城の城下に新たに建てた政庁には支配下にある名主があらかた集まっていた。
隼介が馬を降りると、膝をついたまま、
「殿様、お帰りなさいまし!」
「お待ち申し上げておりました!」
「うちの村の田んぼを視てください!」
皆が待ち兼ねたようにしゃべり出した。
「皆集まってくれたのか?嬉しいのう。」
つい、破顔してしまった。
玄関前に控えた家老に、
「皆を大広間に上げよ!」というと自ら皆を導いた。
そのへり下リように伊勢松は釈然とせず、思わず首をひねった。
隼介が大広間に着くと、名主たちは大広間前の廊下に所狭しとひしめいていた。
隼介が、
「その様な所に居っては話も出来んではないか!中に入れ!」
小姓たちが案内を始めてやっと中に入ってきた。
「皆の努力、しかとこの目で確かめた。ようやってくれた!」
名主たちが隼介を見つめ、感極まったように嗚咽し始めた。前に座っていた年かさの名主が、
「全て殿様のお陰です。明日の食べ物にも困っていた我等に、慈悲と新しい米の作り方を教えて頂きました。最近は捕虜となって村に来た者も村に馴染み始めております。10年前が嘘のようでございます。」
隼介の横で聴いていた伊勢松は、何故か身体が気持ちが高揚するのを感じていた。
「その方らが頑張ったからである。儂としては年貢が増えて嬉しいぞ。」
「納める年貢も増えましたが、それ以上に私たちの取り分が増えました。子を間引くことも無くなり、娘を売るものも減りました。みなみな殿様のお陰です。」
皆の視線が痛いほどだ。
隼介は頷き返し、
「これからも頼むぞ!」
は、はぁ。一斉に頭が下がった。
「皆に紹介しておこう、嫡男の伊勢松じゃ。」
その瞬間、皆の視線が一斉に伊勢松に向いた。
伊勢松はその視線から目を逸らすことが出来なかった。
「伊勢松、皆が言葉を待っておる。」
えっ、はい。
「直江伊勢松である。よろしく頼む。」
若様、若様と声が伝播する。
それが心地良い高揚感となって伊勢松を包む
これが、信頼されるという事なのか・・