65 天正9年、始まる
前話から1年半後、天正9年になりました。
この間、織田は失地回復を図り、上杉は内政を重視しました。
束の間の平和が終わろうとしています。
御館で天正9年の正月の祝宴が始まった。
次から次に料理が運ばれて来ていた。
料亭胡蝶から料理人が派遣され自慢の海鮮料理が振る舞われていた。
家中の武将たちも大広間で満足げに盛り上がっている。
三郎も加わり、車座の宴会になっていた。
ここのところ外征がなく物成りも良かったため、ほとんどの者たちの顔は明るかった。
真田源次郎は台所と大広間を行き来しながら、何故か、宴会に参加している親父の海鮮をつまみ食いしていた。
「源次郎、儂の料理少なくはないか?」
とぼけた表情で、口をモグモグしながら、
「ここは上杉家の宴会の場です。父上は余所者なのですから元々人数に入っておりません。」
「お前、口の中の物は何じゃ!」
と頭をピシリと扇子で叩いた。
周りのものは、親子喧嘩を笑いながら酒のつまみにしている。
三郎は昨年、国の基は民だと言って年貢を4公6民に引き下げた。
領民は大喜びでその決定を、そして三郎を讃えた。領民は年貢を納めた後に手許に残った収穫に満足し笑顔が溢れていた。
隼介からの4公6民に税率を下げても税収は増えるだろうし、何よりも領民がやる気になればさらに税収は増えるだろうとの建言を採用した。そして佐渡の金山も毎年順調に収入を増やしていた。
この2年の間に内政では、大々的に検地を行い各自の支配領域の石高が明確になった。明確になることで各自の夫役の人数等が平等になった。
隼介は、引き続き田畝改善の努力をしながら、一方で干拓に着手した。特に越後は潟が多く干拓をすれば耕地が劇的に増える可能性があった。
また、作事(建築)面では建物の壁中に筋交いを床下、屋根裏に火打ちを入れるよう定め耐震性を大いに高めた。
さらに、火事の対策として火除け地を一定間隔で設け屋根も瓦を用いることで延焼の一定の歯止めとした。
外征といえば、関東に北条の手伝い戦があったぐらいで、それも上野にいる北条高広が名代として出陣していた。
隼介は加賀金沢城を預かっていた。
「隼介、金沢城は儂の居城にするために建てた城じゃ。わかっておろうが大切にせよ。」
三郎の言葉に、
「まぁ、壊さぬ程度には」
城など所詮消耗品だ、壊れれば造り直せば良い・・
「あのなぁ、あの城は『はつ』のために儂が精魂込めて造ったんじゃ。壊すと承知せんぞ!」
ほう、はつ様のために?
「では、奥方様は宜しいので?」
アワワ、
「うるさい!さっさと行け!壊すなよ!」
確かに美しい城である。
船も連れて来てやりたい・・
粉雪の降る中を金沢に出向く途中、能登七尾城に立ち寄った。
昨年の秋、能登でガレオン船が座礁し動けなくなった。
船長からの救援要請に垪和又太郎と共に現地に見聞に行ったが、既に波に洗われ半壊の状況であった。
「船は諦めるしかあるまい、仲間の船が一番入る堺まで送ろう。」ということになった。船長以外の乗組員は越前の門徒により堺に送られた。
船長の、「ここに残りたい。」という希望を聞いた三郎は船長を御館に招き扶持を与えることにした。船を失った責任を感じているんだろう、というのが三郎の言い分であった。
隼介は又太郎と相談し、難破した船の復元とその船を参考にした新たなガレオン船を造ってみようとしていた。
まず、難破した船を調査をすると底部の損傷が激しく現地での修理は不可能であった。
又太郎は、安宅船2艘の上部構造物を取り除き、2艘を横に繋いで台船を造った。
この台船を難破したがレオン船に横付けして調査、解体を行った。
解体された船体は台船に載せられ数回に分けて佐渡へ送られた。
佐渡では羽茂に近い琴浦に船台を造って、ここでガレオン船の復元を行うこととなっている。
「乾ドックが欲しいなぁ、排水が何とかなればなぁ・・」
頭をグルグルと回転させて隼介は、はたと、
「出来るかも知れん、やってみるか。」
とりあえず、ガレオン船の復元まで、まだ1年以上は必要であろう。
越後から加賀に至るまでの上杉領では平穏な時が過ぎていった。
ただ、若狭だけは臨戦態勢を崩さずにいた。特に冬場は本国からの支援が期待できないから尚更であった。
後瀬山城の河田長親は、若狭衆を併せて1万6千の軍を擁している。近江を睨みながら、丹波、丹後にも手を入れつつあった。
筋交い 建物の柱と柱の間に斜めに設置する補強材
火打ち 梁、桁、土台でコーナー部に斜めに設置する補強材