52 三郎出陣する
三郎は直江津で1万5千の軍を編成し、真田昌幸を道案内に上杉軍は進発した。
川中島で待っていた真田軍2千を加え信濃を南下していく。
粛々と進む飛龍の馬標を恐る恐る怖いもの見たさに民衆が遠巻きに見物している。
上杉軍だ。大丈夫か?
そう言いながら見物している民衆は意外に明るかった。
武田は今年の年貢を無しにした。田畑で働く農民は収穫を楽しみに待っている。自然、笑顔があふれていた。
隼介の側に寄ってきた昌幸は
「三郎様のおかげだ。」
ほう、少しは感謝しているんだな。よし、よし。
「まっ、三郎様と違い軍師は酒も囲碁もへぼのようだがな。」
囲碁も、『も』っとはなんだ、この野郎、いつか絞め殺してやる。
ゆっくりと進軍する上杉軍は信濃の塩尻に達した時、三郎の命で軍を止めた。
「ここで様子見だな?」
だろうな、
ここから、長篠へ出るか、岡崎城を伺うか、あるいは美濃岩村城という手もある、信長を牽制するためにここで様子を見るということなのだろう。
三郎は傍に控えていた藤助に
「物見をもう1編成出せ。」
勝頼は2万の兵で高天神城を目指していた。高天神城は信玄でも落とせなかった。その高天神城を勝頼が落とした。勝頼としては父を超えた証拠のような城である。
先年の長篠の戦いの傷が癒えないうちに徳川が高天神城の周囲に攻囲の砦を造った。主なものだけでも六砦あり、掛川城と諏訪原城を合わせて高天神城への補給路を断った。
高天神城は補給に苦しみ虫の息になった。
援軍の要請を受けた勝頼は先年の御館の乱で得た軍資金を使い援軍を発した。と同時に上杉、北条に対して援軍の要請を出した。今回も織田との総力戦になるとの判断であった。
武田軍はまず高天神城の東に位置する諏訪原城を囲った。
徳川軍の3千の兵が後詰めに出てきて諏訪原城と高天神城の間に位置する掛川城に入った。時折大物見を出してくるが、積極的に戦う訳ではなく織田の援軍を待っているのか、守りに徹していた。
北条は要請を受け2万の軍を編成した。大将は氏照、副将は氏規であった。
北条軍は掛川城の徳川軍に対して陣を敷いた。
「三郎は1万と言うたが兄上(氏政)は2万もの軍を出した。相手が徳川では多すぎたかな?」
兄上、
「三郎への引き出物と思いましょう。」
それにしても
「肝心の三郎は何処に居るんじゃ?」
勝頼は北条軍の展開を受けて後顧の憂いなく城攻めを開始した。
攻め口は、南側追手曲輪脇にある二ノ曲輪の虎口。丸馬出しが設えてあり、中々の防御力ではある。ただし、ここを突破すれば一気に本丸まで達することができる。
諏訪原城は山上に本丸、中腹に二ノ曲輪、平地に大手曲輪を持つが、戦いは二ノ曲輪が中心となるであろう。
攻め口を決めるのは攻撃側の権利である。僅か数百人で守る城の百数十人が配置された虎口へ、数千人が攻めかかった。
竹束で作った弾除けを前面に押し出し、鉄砲の距離まで近付くと、城からは撃ち下ろしの鉄砲が火を吹いた。撃ち下ろしの方が射撃距離が伸びるため、より高地を占めている城兵から先に発砲が始まった。必死の防御である。
武田軍は、昼夜間断なく攻め立てた。
1日目には馬出し、2日目には二ノ曲輪に突入した。
その日の日暮れ時、本丸から白旗を掲げた侍が出てきた。
城兵の命を救うために開城交渉が始まった。
その頃、浜松城の奥では家康が、
「佐渡守(本多正信)、織田殿はまだ来ぬのか?」
正信は庭をぼうっと見ながら、
「上杉軍の動向を見ておるのでしょう。織田殿も石山本願寺、荒木村重に三木城と退けぬ兵を多く張り付けております。さらには先年和解した松永久秀等の動きも心配でございましょう。」
だがのう、
「ここを破られれば、尾張まで一気だぞ。」
「だからこそ慎重なのでしょう。上杉軍の動きを確認せねば動けますまい。」
たったったと廊下を早足でやって来る足音がし、
「殿様、横須賀城から使者でございます。」
通せ、
庭に回った使者が片膝を尽き、
「横須賀城沖で我が水軍が敵水軍に完膚無きまでに敗れました。」
全滅したのか?
「ほぼ。帰ってきたのは小早が数隻でございます。」
横須賀城はどうなった?
「奮戦虚しく。」
これで、高天神城攻囲の六砦と浜松城の連絡が難しくなった。
目を閉じ、静かにしていた正信が、
「掛川城の信康様、どう動かれるでしょうか?」