51 家康、信康に悩む
浜松城の家康の居間で、燭台の灯りがぼんやりと辺りを照らしている。本多正信は家康と膝を突き合わせていた。
「不味かったのう、まさか岡崎の動向を織田様が把握しているとはな。」
暗い眼をした側近は、
「岡崎の三郎様に織田の姫が嫁いで来られる時に奥方様をこちらに引き取っておくべきでした。殿様が嫌がりさえしなければ。」
ふん、
「今さら言ったとてせんないこと。」
思い起こせば、織田の徳姫が輿入れしてきて10年、徳姫は女子を2人産んだ。信康と徳姫は特に仲が悪いわけではなかった。2人はむしろ睦まじいと言っても良かったが、築山殿は嫡男が出来ないことに焦って信康に側室を勧めた。嫉妬した徳姫、それを厭うた信康にすきま風が吹いた。
家康はどうしても武田が怖ろしかった。信玄が死んだと確信した時は初めて眠れた気がした。
ところが跡を継いだ勝頼がまた強かった。また眠れない日が続いた。長篠で勝頼を破って、これでもう大丈夫だと思った。
だから高天神城を取り戻しに動いた。まさか勝頼が復活するとは。
その間も武田と連絡を取り続けた。要は二股をかけ続けた。家康は、弱者の仕方のない選択であったと思っている。
その窓口として築山殿の周辺に配した腹心を充て、取りまとめを三郎信康の家老石川数正が担当していた。
細心の注意が必要であった。間違っても織田にバレるわけにはいかなかった。
そのために築山曲輪を徳姫の住まいと離れた場所にわざわざ造った、そしてうるさい築山殿をそこに軟禁状態にした。
築山曲輪の出入りにも気を使ってきた。
その甲斐あって、これまで何事もなく過ぎていた。それが、10年も経って洩れるとは。いや、ずっと気付いていて、言わなかっただけか?だとすると何故今なのか?
三郎が成長し織田の手に余るとなったか?
それとも、徳川が不要になったか?
正信、どう思う?
「そう深刻ではないかもしれません。三郎様と徳姫様は最近不仲のようです。それを織田様が灸を据えるぐらいで言われたのかもしれません。」
「そのぐらいで、武田との関係を暴くか!」
「武田が勢いを取り戻し、北からは上杉が迫っております、徳川まで敵に回すのはさすがに織田様でも無理でございましょう。」
そうなんだが・・
はたと、正信が気づいたように、
「もしかしたら、岡崎だけで武田に寝返ると思われているかもしれませんな。」
なに、
「三郎が儂を敵にするというか?」
さよう、
「三郎様の武勇が優れておられるのは殿も承知でございましょう。」
あぁ、
「あの歳で殿を任せられるほどじゃ。」
それでございます。
「岡崎衆が三郎様を担いで武田と組んで殿を追い落としに懸かったとしたら。」
「岡崎衆は浜松衆に較べ二男、三男が多い。家を継げないというのは劣等感に繋がっております。浜松に居る長男を上目遣いに見てきた。浜松からは下に見られ、向けられる侮蔑の目に耐えられなくなった。この殿様ならば自分たちに日の目を見せてくれる。」そう思っても何の不思議もありません。
何故、今まで気付かなかった?数正は何をしておったのか。まさか数正も同心している?まさかな。
正信、
「織田への使者は誰がよい?」
そうですなぁ、
「小者では務まりませんし、才走った者では逆に追い込まれるかもしれません、ここは石川殿より酒井殿でございましょうか?」
そうよの。
「忠次に行かせよう。要らぬことを言わぬ武辺者の方がよい。」
で、
「岡崎の処置はどうする?」
岡崎の処置でございますか?
「殿様の考え通りで宜しいかと。」
「儂が何を考えておるのか分かるか?」
それはもう、
「まず、三郎様を岡崎衆から引き離し、その間に岡崎城を取り戻す。」でございましょう。
具体に申せ。
「そうですな、高天神城を攻めると触れて三郎様を引き出します。その間に織田様に岡崎城の留守居を頼むといったところでしょうか?」
それしかないな。
「三郎の事、生命はどうにかならんか?」
さようですな。
「あの武勇、如何にも惜しゅうございます。それに、武田とのことは三郎様は何もご存知ではない。」
無念でございます。
「他人の子と思うて冷たいではないか。」
一つだけ、
「石川殿に悪役を頼むことになりますが・・」
そうか、その手があるか?
「少なくとも徳川が滅ぶのは防げる訳じゃな。」
数正には、儂から話そう。