43 謙信遠行
雪解けとともに隼介は防衛線の仕上げに走り回っていた。
正月にははつ様が坂井屋の英として、加賀にやって来た。
はつも二十歳を超え、この時代としては年増と言われてもおかしくないが、生き生きとした姿は年齢を重ねる度に魅力的になっていく。
隼介もはつに会うとドキッとする。
「三郎様は入れ違いで府中へ戻られました。」
あら、
「縁がないのかしら?それとも嫌われているのかしら?」
笑いながら応えている。
それから、
「お船さんのお陰で華様にお目通りできました。」
そうですか。
「奥方様はなんと?」
「ご苦労なさいましたね。このまま御城に住みませんか?」
と、私と三郎様の仲も許してくださったのだと思います。
「よろしかったですね。それで御城に入られるのですか?」
「涙が出るほど嬉しかったのですがお断りいたしました。もう少し商いをしていたいと思うのです。」
奥方様は、
「驚いておられましたが、その内笑いだされ、羨ましいと。」
それから
「何時でもおいで下さい。この次は商いの話やら旅の話も聞かせて下さい。」とおっしゃって下さいました。
「良かったです。私も二人をお会いさせたほうが良いのか分かりませんでした。妻の言葉に従って良かったと思います。」
それで、
「商いの方はどうですか?」
「坂井屋さんからある程度の事は任していただけるようになりました。面白くもあり難しくありと言った感じです。」
3月になると3千に近い捕虜の後送が始まった。又太郎が佐渡で整備していた水軍の船で、佐渡、直江津、新潟に送り届けられた。佐渡で降ろされたものは鉱夫として、その他の湊で降ろされたものは村毎に分配され各村で農夫として働くことになる。
ここに至って、佐渡ヶ島での鉱夫が人気になっている。きついが飯が良い上に賃金も出て、夜の街に遊びに行くこともできるとの噂が広まったためだ。誰が流した噂か分からないが。
少し寒さが戻ったその朝は、気持ち良いほどの晴空であった。
三郎からの短い文を忍びが急ぎ届けてきた。
その文には『御実城様遠行』とあった。
その文字から目が離れなかった。
何かの冗談か?
次の日、段蔵からの報告があった。
不識庵で景勝始め上田衆との宴の途中、突然倒れ意識が戻らないまま、数日後亡くなったというのである。
御実城様は未だ50歳に届いていない。早すぎる。
密室か、疑えばいくらでも疑える。しかし、いくら何でもこの危機的な時期に御実城様の生命を縮めようと思うものはいないと思うが・・
そう思いながら、大聖寺城の河田長親を訪ねた。
「どう思われます?」
「迂闊な事は言えんが、いかにもと言った感じだなぁ。」
「これからどうなりましょう?」
「儂もお主も余所者よな。上田衆が上に立つ越後に居場所は無いかも知れんな。」
二ノ曲輪では、「華、どう思う?」
「喜平次は素直な子でした。あの子が陰湿な計り事をするとは思えません。」
では、
「常に側にいる与六(樋口)なら?」
そうですね、
「与六は未だ18になったばかりです。まだまだ若い、もし与六がやったとしたなら・・」後は言葉にならなかった。
「儂も自然な死であったように思う、しかし、これから上田衆がどう動くか心配だな。」
戻ってきていて良かった。加賀にいる時であれば蚊帳の外に置かれ、後のことに関われぬところであった。
4月は何もなく過ぎた。まるで互いを見ながら射竦んでいるようにも見える4月であった。
織田軍は播磨三木城の別所が毛利、本願寺と結んで離反した。この対処のため、手筒山城の羽柴隊を交代させるなど越前侵攻どころではなかった。
5月の葬儀には、近隣の国から弔問の使者が次々に来訪した。
林泉寺での葬儀は厳かに行われた。
使者たちの目的は謙信亡き後の越後である。誰が国主として立つのか、家中、国衆は従うのか。これから上杉は強くなるのか、弱くなるのかを探りに来ていた。
葬儀では景虎、景勝が並んで挨拶を受けた。
葬儀終わりに三郎は、
「中城殿(景勝)、たまには遊びに来ませんか?華が会いたがっております。」
こちらを向いた景勝の目が憎しみに満ちているように見えた。
景勝は無言で会釈を返すとそのまま立ち去った。
ほう、受けて立つ準備が必要なようだな。
葬儀が終わると直ぐに問題が起きた。
三条を領する神余親綱からの手紙を持って来た家老は、助けて欲しいと縋り付いて来た。