30 越相破談
元亀2年9月、畿内では、織田信長による叡山焼き討ちが起こった。信長は、足利義昭が企図した信長包囲網を破ろうと謙信と誼を通ずる。鷹のやり取りなどを通じて一歩一歩着実に手を打っていった。
その1月後の10月、小田原城で北条相模守氏康が身罷った。享年57、15歳で初陣し、祖父宗瑞、父氏綱の跡を継ぎ、その生涯を戦に捧げた一生であった。また、宗哲が評価する禄寿応穏を掲げ、村という単位を大切にした領主でもあった。
訃報が春日山城に届くと三郎は謙信に呼び出された。
「三郎、相模守殿が罷られた、一度、小田原に帰るか?」
いえ、
「それは、父も望まぬはずです。ここで冥福を祈ります。」
・・父よ、少し早すぎるぞ。もう少し、せめて後1年頑張って生きてくれねば予定が狂うではないか。
隼介は相変わらず、田畝改善のため走り回っていた。
・・身体がいくらあっても足りないなぁ。
隼介が指導した田からは他に比べ多くの米が取れた。それを聞き付けて上杉家中から引く手あまたであった。中には揚北衆からも問い合わせがきた。
その中から三郎の味方になるもの、味方にすべき者を選んで優先的に教授した。
鶴子銀山も好調で5割を謙信に上納し、三郎の手許に残った銀を家中の手元不如意の者に「御実城」様からと言って配った。
戦が続く上杉家中では遠征費用や軍備整備のための軍資金がいくらあっても足りない状況であった。
謙信の戦いは領土を拡げることが少なかったため、領土を褒賞として配ることができなかった。
そのため銀は褒賞として貴重だった。三郎の銀を受け取った者は実質三郎からとわかってはいたが、背に腹は代えられぬと喜んで受け取った。
上田衆にも三郎の銀が浸透し始めた頃、顕景の家老が謙信に三郎が家中に銀を配り、家中を乱そうとしている、と訴えた。
謙信は文箱から書き付けを出し、
「ここに名の有るもの、銀の量に間違いがあるか?」と突きつけた。
書き付けを確認した家老は、顔を真っ青にして平伏した。
三郎は、隼介の助言で全てを謙信に報告していた。
三郎の元に佐渡の垪和又太郎から、鶴子銀山近くの相川という場所で大きな金鉱脈を発見した、しかも露天で掘れると報告があった。段蔵が手配した山師が入って半月後のことであった。
隼介は田畝改善や稲作指導の傍ら、直江軍の強化に着手した。鉄砲20挺を100挺に増やそうとしていた。他にも物見の専門部隊を創ろうとしていた。
11月に入ると小田原に人質に行っていた柿崎晴家が戻ってきた。越相同盟の解消を北条が宣言したに等しかった。
謙信は、氏政という漢は大馬鹿者であると怒った。そして自分を罵り、関東の諸将との関係が越相同盟を締結したことによって切れたことを嘆いた。
三郎は、謙信に呼ばれた。
「どうする?小田原に帰るか?」
三郎はまっすぐに
「いいえ、私は関東管領になるためにここに来て、御実城様の養子にしていただきました。御実城様が、お前など必要ないから出ていけ、と言われぬ限り上杉の者としてここに留まる覚悟です。」
「良いのか?辛いかも知れぬぞ。儂はお主を我が子と思うておる。儂の心を真に引き継げるのは三郎、お主だけよ。」
しかし、
「周りはお主を北条の者として見るかもしれぬ。」
それも、
「承知の上でございます。」
ならば、
「ここに居れ。儂も気をつけよう。」
これからは
「越中へ出張る事が多くなる、頼むぞ。」
「ご期待に添えるよう成果を出してご覧に入れます。」
隼介は、義父景綱の前にあった。
「隼介、やはりこうなってしまった。婿殿はどうする?」
「私の気持ちは変わっておりません、義父上や船、それに家中の者共が許してくれるなら直江の家に居りとうございます。」
義父の横にいた船が隼介の横に座り直し、
「父上、私からもお願いします。このまま夫をここに置いてください。さもないとお腹のややが悲しみます。」
船、
「ややが出来たか?目出度い!」
と、襖が断りもなしに開き、家臣共の
「おめでとうございます。」の大合唱になった。
景綱は苦笑しながら、良い方に転んだか、孫か・・万々歳だ。