27 謙信、三郎、越山
7月の終わり近江姉川において、織田信長、徳川家康の連合軍が、浅井、朝倉の連合軍を破り、金ヶ崎の退き口の雪辱を果たした。
9月の吉日を選んで、隼介と船の祝言が行われた。
船は二人で折った青い折り鶴を玄関先に並べた。
隼介は一緒に折りながら、
「なぜ、青色なの?」
「春の桜色、秋の紅色も好きですけど、夏空の青色が一番好きなのです。」
祝いの客に
「記念にお持ち帰りください。」
宴が終わると全ての鶴が飛び立っていた。
祝言に先立ち、隼介は輝虎の仲立ちで高梨政頼の養子となった。高梨氏は北信濃の国人で輝虎の祖母の実家である。
武田の攻勢に耐えきれず、飯山城まで後退し、現在は輝虎の家臣同然になっている。
この時期、当主は政頼の嫡男頼親が継いでいる。
この夏、三郎と華の間に子供ができたことが分かった。
三郎は、単純に喜び、華は、少し神経質になった。
来年元亀2年には二人は父と母になる。
9月半ばから稲の刈り入れが始まると、隼介は船を府中の屋敷に残し与板城に入った。すぐに郡方を引き連れ、領内を廻った。
与板でも柿崎でも春に試した塩水選は1〜3割の増収をもたらし、領民の注目を集めている。
夏に漁師たちに干鰯の制作を頼んでおいたので、冬場に田に鋤き込む肥料も種々集まりつつあった。
刈り入れ後、乾田化を精力的に進めていた。
他の国人衆や家中の領主達から、田畝改良の問い合わせが少しずつ増えてきていた。
「何時でも教えますからおいで下さい。」と返事をしているが
誰もが新しい技術に半信半疑で腰が引けていた。
実際にやってきたのは山吉と新発田に竹俣くらいだった。
10月に入ると上野の沼田城から、武田が西上野に進出して来たとの一報が春日山城に届いた。
輝虎は直ぐに越山を決断し、陣触れを出した。
そして、突然、宣言した。
「出家する。以降不識庵謙信と名乗る。」
「越山は、景虎を総大将とする。」
全てがいきなりであった。
お待ち下さい、あまりにも急でございます。との声も聞こえないようであった。
驚かないのは三郎くらいである。
・・謙信、けんしん、とはもしや信玄、しんげん、をもじって信玄の逆を行くという意味だろうか?まさかね?
・・義父(謙信)から、関東管領職は譲ると言われているから、関東の事態に対処するのは私ということなんだろう。力を披露する場を作ってくれたということかな?
謙信は、本丸の中に不識庵を設けた。これ以降本丸や謙信のことを御実城と呼ぶことになった。
直江にも陣触れがなされ、景綱は輝虎、三郎と共に春日山城から、隼介は、与板の主力である騎乗35騎、総勢300を率いて与板城を出た。
城に三郎からの贈り物があった。
これを旗印にせよ。と贈られた布を開くと青地に白い隼が画かれていた。
『海東青』と呼ぶとあった。
伊豆で隼介の名を『隼』と選んでくれた宗哲が言っていた言葉であった。
隼介の乗馬は相変わらずクモであるが、名がカッコよく『叢雲』となっていた。
藤助も騎乗し、隼介の旗印を持った。
寒くなり始めていた。
・・雪が降る前に帰って来られるか?それとも上野で越冬か?
ちょっと焦るなぁ、仕掛けが空振りするかもしれない。
直江の本隊は先陣として三国峠を越えた。冷え込む三国峠から半年ぶりに見る関東は、半年前に見たものと違い、山々は色付いて艶やかであったが、寒々しく何処か白々しかった。
与板勢は沼田を過ぎ厩橋城に入った。
三郎の本隊も強行軍で三国峠を越え、間を置かずに沼田城に到着した。
利根川に確保してある渡河点に、上杉軍が集結した。
箕輪城に入っていた信玄はそれを確認すると、信濃方面へ撤退を始めた。
・・今回、やる気は無さそうだね。
武将たちの中には、追い討ちをかけましょう。との声が挙がったが、三郎は、放った物見の情報により否と判断した。
信玄の撤退を確認すると沼田城へと引き揚げ、やがて越後へ帰還した。
既に、雪が降り始めていた。
・・間に合ったか。
与板城に帰還した隼介を段蔵が待っていた。
段蔵は一言
「上手くいきました。すでに疑心暗鬼になっており、明日にも噛みつき合うでしょうよ。」
さすがだな、
「三郎様へはお伝えしたか?」
「これからでございます。」
頼む。