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その女、武田の軍師の娘なり

作者: 橋本洋一

「お前か。ここいらで悪さをしている餓鬼共の大将は」


 初めて父上と出会ったのは駿河国だった。

 当時の私は十才くらいの孤児で、同じ境遇の子らと一緒に、盗みを働いていた。


 生きるためには仕方がなかった。

 食い物を盗むのは食べるため。

 着物を盗むのは寒さを凌ぐため。

 金目の物を盗むのは盗めない物を買うため。


 私たちの集団は二十に満たさなかったけど、それでもだいぶ被害があったようだ。

 武士と呼ばれる大人が動いていたのは知っていた。

 けれど、私たちは捕まらなかった。

 何故なら、首謀者である私に人一倍、悪知恵があったからだ。


 大人の仕業に見せかけるために、大きな草鞋の跡を地面に残した。

 人に見つからないように、盗みの時刻を複雑にした。

 子供たちが調子に乗らないように幾度も注意した。


 だけど、目の前にその人はいた。

 怒ったものか、それとも呆れたものか。それが己でも判然しないと言った顔をしていた。


「て、手前は、何者だ!」


 私以外の子供たちはこの場にはいない。

 根城となっている、町から離れた廃屋に一対一で向かい合っていた。

 帰りが遅いと内心、不安に思っていた――


「しがない牢人だよ、俺は」


 そう語る男は古傷が多かった。

 片目も無く、片足も引きずっていた。

 だけど、野性味溢れるその顔つきからは知性が漲っていた。

 恐ろしいほど私を見抜いているような――


「ああそうそう。子供たちは帰ってこないぞ。盗みを働いているときに捕まえた」

「な、なんだって……?」


 今日の盗みには自信があった。

 念入りに下準備をして、精巧な計画も立てたのだ。

 どうして――


「子供たちは全員、口を揃えて言ったぞ。お前に唆されたと」

「…………」

「お前は大将のつもりだったらしいが、他の者からすれば扇動者に過ぎない」


 それは覚悟の上だった。

 自分一人では盗みなどできない。

 だから子供たちを使って盗みを行なっていた。


「安心しろ。子供たちは各々引き取らされる。運が良ければいい暮らしができるかも――」


 男がそこまで言ったとき、後ろから「姉ちゃんから離れろ!」と怒鳴る声――与作だ。

 全身を震わせて、手には木の棒を持って、男と戦おうとしている。

 僅か八才の子供が――


「与作、やめろ!」

「だ、だって、姉ちゃんが――」

「ふうむ。案外慕われていたようだな」


 男は与作の腕を捻り上げ――悲鳴が上がった――私に問いかける。


「なあお前。俺の――娘にならないか」


 男が何を言っているのか、まるで分からなかった。

 牢人のくせに、何を言っているんだと考えた。


「俺はお前たちを捕まえた報酬で甲斐国へ行こうと思う。そこなら仕官できるかもしれない」

「……私を娘にして、何の得がある?」

「俺はこんな身だ。老いれば身の回りの世話をしてくれる者が必要となる。それだけではない。お前の賢さを認めたのだ。俺でなければ捕らえることができない知恵深さに惚れ惚れとした」


 偽りではない。

 空言でもない。

 ありのままの真実を言っているかのよう。


「お前だって、こんな暮らしは嫌だろう」

「…………」

「仲間ですらない者どもと盗みを働いたところで、待っているのは晒し首だ」


 男は与作から手を放して、私に手を差し伸べた。

 その手は傷だらけで醜いものだったけど。

 何故か輝いていた。


「俺と一緒に来い。お前に何かができるようにしてやる」


 何かができるようになる。

 盗み以外で考えたことはなかったけど。

 その言葉に惹かれたのは事実だ。

 こんな私にも、できることがあるなら――


「姉ちゃん、行かないで!」


 与作の声が遠くに聞こえたけど。

 私は男――父上の手を取った。



◆◇◆◇



「今川殿が織田家を攻めるらしい」


 夕餉の最中に、武田家の軍師であり、私の父上である山本勘助が喋り出した。

 私は口を馬鹿みたいに開けている兵蔵――私の義理の兄だ――の飯茶碗に雑穀交じりの米をよそいながら「どういうことです?」と訊ねた。


「そのままの意味だ。義元公自ら織田家を攻めるらしい」

「ということは、武田家から援軍を送る、のですか?」


 兵蔵の問いに父上が答える前に「それはないでしょう」と私は遮った。


「陽菜。どうして言い切れるんだ?」


 陽菜とは私の名である。父上が名付けてくれた。


「陣触れが行なわれておりません。加えて父上は『らしい』とおっしゃっていました。つまり、武田家には尾張国への進攻を伝えていないからです」

「あ……なるほど。援軍を要請したなら不明瞭な言い方はしないか」


 兵蔵が納得すると父上は「良い視点だ」と誉めてくれた。


「義元公は大軍で攻めるそうだが、些か気がかりがあってな」

「まさか、負けるとおっしゃるのですか?」

「兵蔵。どんな優秀な将でも負けるときは負ける。だが、負けるならそれでいいのだが」


 私は「義元公が討たれると?」と信じられない思いで訊ねる。

 父上は「あり得ないことではない」と頷いた。


「油断大敵という言葉があるように、本陣を奇襲されたら……考えすぎかもしれんが」

「もし、義元公が討たれたとすれば、武田家はどうしますか?」


 私の問いに父上は眉間に皺を寄せて「困ったことになる」と言う。


「三国同盟を結んでいる……その均衡が破れるかもしれん」

「馬鹿な……若君はどうなりますか?」


 若君、武田義信様は今川義元公の娘を嫁にしている。

 父上は「万が一、義元公が討ち取られれば」と続けた。


「家中を揺るがす、大事になるだろう。二人とも、肝に銘じておくがいい」



◆◇◆◇



 僧となった与作への返書を書き終えて、私は大事な話があると父上に言われていたので、屋敷の居間へと足を運んだ。


 そこには平常より暗い顔をした父上と、些か顔色が優れない兵蔵がいた。


「父上、いかがなされましたか?」

「上杉と戦になる」


 短い返答。しかし受ける衝撃は凄まじかった。川中島で三度戦ったが決着は着かなかった。おそらく、武田家と比肩するほどの強敵である。


「またですか。しかし、今度もにらみ合いになるのでは?」

「そうはならん。御屋形様は上杉に二度と信濃国を狙わせぬように徹底的に叩くつもりだ」


 その言葉を聞いて、不安になったのは私だけではなく、兵蔵も同じだった。


「父上。御屋形様は焦られております。上杉と戦ったところで、労はあっても功なしとお考えに」

「俺もそう思う。しかし、今度の戦にはどうしても勝たねばならんのだ」


 私は先んじて「若君のことですね」と言う。


「義元公亡き今、あの方の立場は危うくなっております。その若君のために、上杉に打撃を与え、越後国の海を取るおつもりですね」

「ふふ。女にしておくのがもったいないな」


 父上は久方ぶりに愉快に笑った。

 兵蔵は「父上はいかにお考えですか?」と作戦を問う。


「十三ほど考えているが、未だ定まらぬ。川中島にて決める」

「父上。奇襲をかけるときは慎重になさってください」


 私は忠告したつもりはなかった。

 ただ用心してほしかった。

 嫌な予感がしたから。


「分かっておる。それより、陽菜。飯を作ってくれ。いつもより豪勢にな」


 珍しくおどけた言い方だったので、私はくすりと笑った。


「はい。炊事の煙がいつもより多くなるようにいたします」


 それが父上との最後の食事となった。



◆◇◆◇



「兄上。出陣なさるのですか」


 兵蔵――否、二代目『山本勘助』となった兄上。

 私の不安そうな顔に兄上は苦笑した。


「お前がそんな顔をするとはな」


 仲が良い兄妹ではなかった。

 けれど特別仲が悪いわけでもなかった。


「何か、嫌な予感がするのです。川中島のときと同じで――」

「ならば、俺も死ぬな。父と同じように」


 言葉がなかった。

 戦の前に言ってはならぬことを言ってしまった。


「しかし、徳川家と織田家の連合軍を叩かねば――武田家には未来がない」

「分かっております。継がれた勝頼様は偉大なる信玄公を超えて、家中の信望を得ようと焦っています」


 しかし、その焦りこそが負けにつながる。

 今川義元公も、父上も、武田信玄公も。

 油断からではなく、慢心からでもなく、焦燥から負けた。


「俺も焦りがあると見えるか?」

「いえ……しかし……」

「正直に言え。軍法ならばお前のほうが上なのだから」


 兄上は父上に似てきた。

 中身はともかく、外見は出会った頃の父上に似ている。

 盗みしかしてこなかった、どうしようもない私に、生きる道を示してくれた父上に。


 しかし、兄上には才が無かった。

 そこそこの戦働きはできる。

 凡将というほど劣っていない。

 けれど、皆が望むほど――父上と比べて、才は無かった。


 女でなければ、二代目を私は継げただろう。

 そのほうが兄上にとって幸せだったのか、それとも不幸せだったのか。

 判然としない。


「信長が直々に出陣するとのこと。それが恐ろしいのです」

「大将自らの出陣で、士気をあげるためではないのか?」

「確実に勝てると思うからこそ、出陣したと考えます」


 勝機があるからこそ、信長は徳川家の援軍に出向いた。

 桶狭間のときもそうだった。

 あの男は――勝つために策を巡らす。

 なんて――いやらしい男なんだろうか。


「なあ、陽菜。もし俺が死んだら武田家から離れろ」

「…………」

「この戦に負ければ、武田家は滅びる」


 兄上は悲しげに笑った。


「父上と俺が生きた証である、武田家が滅びるのは残念だ。だけどな、お前まで死ぬ必要はない」


 最後に、兄上は私に託すかのように、肩に手を置いた。


「生きろ。そして何かを遺せ。お前の才ならできる」



◆◇◆◇



「た、大変だ! 姉さん! 信長が、本能寺で討たれた!」


 与作――今は全念と出家している――が大慌てで私の元へやってきた。

 寺の近くでひっそりと庵を立てて暮らしていた私。

 その知らせを聞いた私は筆を置いて「そう……」と答えた。


「お、驚かないんですか!? あの信長が死んだのですよ!?」

「人は死ぬものです。だけど、もう少し早ければ、武田家の命数が保たれたでしょうに」

「のんきに言っている場合ですか! これからどうなるんですか!?」


 喚く全念に私は「どうもなりません」とだけ言う。


「あなた、僧でしょう。諸行無常という言葉、聞いたことありませんか?」

「う。ま、まあ。聞いたことはありますけど」

「取り乱すだなんて。長年の修行は無意味だったんですか?」


 全念は何か言いたげに口をもごもごさせていた。

 そして気を取り直したのか「姉さん。何を書いているのですか?」と私の手元を見た。


「これは――書き物です。武田家の戦について、私なりの視点から綴ったものです」

「へえ。そうなんですか」

「武田家時代の知人に頼んで、預かってもらうようにしております」


 全念は「姉さんは何でもできるのですね」と笑った。


「いえ。私も書き物は初めてですから。ところどころ不明な点も多いです」

「なるほど。それで題名はなんとしますか?」


 私は老いた自分の手を見つめる。

 幼いときは盗みをしていた手。

 若いときは料理をしていた手。

 そして今は、書物を書いている。


『お前に何かができるようにしてやる』


 父上の言葉が聞こえる。


『生きろ。そして何かを遺せ。お前の才ならできる』


 亡くなった兄上の言葉が響く。


「そうですね。甲斐国で生きた私、陽菜が軍師の娘として鑑みた書物――」


 自分の名の一文字くらいは残してもいいだろう。

 それくらいの贅沢は許されるはず。


「――甲陽軍鑑、とします」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 肚の据わった、切れ味の良い短編ですね。情報を最小限に抑えて読み手のストレスをなくしています。 お見事! [一言] 人の生きる意味に焦点を絞っているあたりが好ましいです。 勇気を読み手に…
2022/06/16 02:55 退会済み
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