27.鋼鉄の巨人②
どれくらい経っただろうか、いつになっても拳は降ってこない。奇妙な空白の時間に、アリアナは恐る恐る目を開く。
アイアンゴーレムは停止していた。
「やれやれ、危ないところだった。好奇心は猫を殺す、なんて言葉を本で読んだがお前は猫なんかじゃないだろう? アリアナ」
正確にいえば、止められていた。氷の大蛇がアイアンゴーレムを絡めとり、その動きを止めていたのだ。
詠唱もなく瞬間的に放たれた属性魔法とともに、アリアナのよく知る声が響く。
「どうしてここに」
「あの巨大な魔法のおかげで、お前がここにいると分かった。一度はあれを批判するようなことを言ったが、今回ばかりはお前の大きさや威力を重視した魔法に感謝しなくてはならないな」
地下書庫から夜空までクジラが貫いた大穴を使って飛び降りてきたのは、灰色の外套をまとったリルクレイ。
「あなたはたしか、図書館の」
「縁というのは数奇なものだね、まさかこんなカタチで再会することになろうとは」
夕方に会ったばかりの顔だ。リルクレイもレイチェルも、まだ鮮明に覚えている。
ケラケラ笑って余裕を見せる小さな背中を見て少し安心したのか、体からすっと力が抜けていく。
もうアリアナの体が限界を迎えているのは、ひと目見たときから分かっていたリルクレイ。すぐに彼女は両腕を広げ、ゆっくり倒れるアリアナの体をぎゅっと抱きしめた。
「安心しろ、あとは私が引き受け――」
「まだです」
一度はバランスを崩して体重をリルクレイに預けたアリアナ。しかしすぐに立ちあがり、自分を抱く小さな手を振り切る。
「おいおい、これ以上は無茶だろう」
「まだなんです。たとえこの身が朽ちても、真意を問いたい」
アリアナが真っすぐに見つめる先で、レイチェルが顔意をひとつ変えず「真意?」と首を傾げた。
「あなたは、どうしてこの秘密を守ろうとするのですか」
「この研究は主にとって大切なもの。メイドが主の所有物を守ろうとするのは当然です」
「たとえそれが、あなたを苦しめた記録だとしてもですか」
「私を、苦しめる?」
「あなただって、実験の被害者なのでしょう? 一八六番」
その番号を聞くや否や、レイチェルはすぐに左の二の腕に彫られた数字のタトゥーを左手で隠した。アリアナが一瞬だけ見た数字は【36】だが、それは完全に破れていなかった服で数字の前半が隠れていただけ。
レイチェルの二の腕に刻まれていた本当の数字は、【186】である。
「鉄は魔導師のなかでも扱える者が限られた希少な属性魔法。血のつながりが魔力の質にも影響することはすでに実証されています」
時折ボーっとする頭や、揺れる視界。それでも自身の外套を握りしめてアリアナは正気を保った。
「十年前の征伐でヘド・ブラッドによって殺され、裏切り者と称された魔導師ガブリエラ・ゴートに刻まれていた数字は一八五。その数字が病原菌への抗体付与として村人に刻まれたものならば、家族間で連続した番号を刻まれているのは不思議じゃない。
ニックがガブリエラには一人娘がいたと教えてくれました。その娘こそあなたでしょう、レイチェル・ブルックス」
「ニック・ウォーカーはそこまで喋ったのですね。あなたがマクニコルの人間と知って、阻害されずに情報を拡散するいい機会だと思ったのでしょう」
「あなたのお母様は、裏切り者なんかではなかった。実験の被害者であり、真実を暴こうとしたが故に裏切り者のレッテルを貼られて始末された」
「知った風な口を……」
絵のように変化を見せなかったレイチェルの顔がはじめて曇る。
「きくなっ!」
感情を剥きだした怒号を合図に、アイアンゴーレムの巨大な拳が襲いかかった。
だが、鉄色の憤怒がアリアナを仕留めることはない。彼女の一歩後ろで杖を構えたリルクレイが地面を隆起させて拳を受け止めたのだ。
「続けてくれて構わないよアリアナ、その間の安全は私が必ず保証しよう」
「礼は言いませんよ」
「必要ないさ」
顔も見合わせず、ふたりの表情がまったく同じタイミングでまったく同じように綻ぶ。
「もしもあなたに母を想う気持ちがあるなら、この件を私に預けなさい。私ならば、この事実を公にできる。誰の圧力にも屈することなく、外道へ正義の鉄槌をくだすことができる」
「正義、ですか」
「はい」
「正義とはなんですか? それはあなたたち魔導師の正義に過ぎず、その正義で数えきれないほどの一般人を殺し続けたのが、魔法の時代の歴史そのものではないのですか?」
レイチェルの表情も、言葉も、息遣いすら、全てが冷たかった。今の彼女は誰にも期待をしていない。ひと筋の光だってその目には映っていない。
「それは違います!」
「違うわけがあるか! 私の母を殺したのはブラッド様ひとりか?」
鉄の杖を握るレイチェルの手が怒りで震えた。
「そうじゃない、母を殺したのはお前たち魔導師が築きあげてきた時代そのものだ!」
憎かった。
「魔法によって生まれた格差がマギサエンドの外でどんな猛威をふるっているか、お前は見たことがあるか? 魔導師は常に人の上に立ち、魔法によって無力な一般人は弾圧されていく」
ただただ、憎かった。
「だから母はマギサエンドの魔導師であることを拒み、故郷の村で父と結婚したんだ。魔法の意義を問い、自分なりの幸せを掴んだのに、魔法という無慈悲な力が母をどん底へ堕とした」
レイチェルは、魔導師という存在が憎くて憎くて仕方なかった。
「人の命を容易く奪った魔法を世に知らしめようとすることが、そんなに悪いことか? 殺されなければならないことか?」
だから彼女はその道を選んだ。
「なんとか言ってみろよ、マクニコル!」
人が変わったような口調で声を荒げはじめるレイチェル。
十年前、ブラッドに手を引かれた頃はレイチェル自身も彼が母を殺した張本人だなんて知らなかった。しかしレイチェルが魔法を教わっていくなかで、突然ブラッドはそのことをカミングアウトしたのだ。
「全部、お前たち魔導師の傲慢さが生み出したものだろうが!」
当然、殺したいほど憎かった。
「こんな時代になるのなら、魔法なんてものを人間に与えるべきじゃなかったんだ」
しかし殺したいほど憎い男の理想には、賛同せざるを得なかった。その日からレイチェルはどんな非道なことでも受け入れ、本心も素性も隠し、時代を変えるというブラッドの理想に従事した。
「落ち着きなさい、レイチェル」
熱くなるレイチェルの背後から、声が転がりこむ。
「ブラッド様」
くるりと首を振り向かせた先にいたのは、ゆっくりこちらへ歩み寄ってくるブラッド。
アリアナは実験の主犯格であるブラッドへ杖を向け、対するレイチェルはアリアナに杖を向ける。
魔導師が杖先を向けあい、いつなにが起こってもおかしくない状況。しかしブラッドは自身の手でレイチェルを制止し、杖をおろさせた。
「アリアナ・ヴィラ・マクニコル、今のレイチェルの話を聞いてどう感じましたか?」
「たしかに今の社会は魔法を手にした者とそうでない者の間に格差が生まれていますが、魔法は今や私たちの生活には欠かせない技術。過度な弾圧を避けるためにお父様方が尽力しておられます」
「優等生らしい良い答えだ、私もかつては同じだった。
しかし魔法の時代に生まれた人間の格差は、もう我々の手でどうにかできる問題ではない。統括局の手におえないテロリストが蔓延り、被害の原因を魔法に押しつける人々は年々増加し、反対運動は過激化する。負の循環はすでにはじまっているんだ。
だから私は先代が研究していた転生魔法を引き継ぎ、レイア様を復活させて世界を変える計画をたてた」
「レイア様を、復活?」
「始祖の魔導師レイア・ワーグナー。あの御方こそ我々人類に残された最後の希望」
想像していた以上の過大評価に、リルクレイが呆れ混じりのため息をついたのも束の間、
「ふざけないで!」
アリアナの怒号が響く。
「レイア様は悲惨な運命に遭いながら、魔法というカタチで希望を未来へ繋げてくれた人。私たちには、レイア様が遺してくれた今という瞬間を守り続ける義務がある」
額から溢れる血を腕でぬぐったアリアナがさらに続けた。
「確かにあなたたちの言うよう、魔法の時代は不完全なのかもしれない。ですが、それを築いたのも間違いなく私たち。
手に負えなくなったからといってレイア様に頼るなんてことは、あの御方が与えてくださった希望への冒涜でしょう!」
一発、魔力弾でもかましてやりたかっただろうが、アリアナの手元には杖がない。滅鯨の起こした爆風で書庫の隅へ飛ばされてしまったのだ。
ぶつけられない苛立ちを腹のなかに積もらせ、眉間にぐっとシワを寄せていたアリアナの横顔を見上げたリルクレイが嬉々として微笑んだ。
「だから、私は……こんなカタチでレイア様を裏切るあなたたちを……」
刹那、アリアナの体が左右にふらつく。
「許さ……ない……」
朦朧とする意識のなかでも必死に前へ向かおうとする精神に、体はもう追いつかなかった。アリアナの体は再び前へ傾き、ゆっくり倒れはじめる。
「なんだか、むずがゆい気分だ」
そんな彼女の懐に入って自分よりも大きな体を支えていやると、リルクレイは優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう、アリアナ。私が託した未来にお前のような娘が存在したこと、本当に誇らしいよ」
「レイ……ア……様?」
とうに限界を迎えていたのだろう。力は抜け、意識は薄れ、倒れる瞬間にアリアナが見たのは、両腕を広げて自分を受けとめてくれる赤髪の魔導師レイアの姿だった。




