つまるところの物語
五百グラムの春キャベツを使ってクソうまドデカお好み焼きを食べたためか、俺んちが親子二代にわたって代々のものを快適に流し続けてきた便器が、ついに詰まった。一度も詰まらなかったために、かえって我々親子はいつか詰まるに違いないと信じていたのが、とうとう訪れた。
便器に水が流れ込むと、一度目いっぱい水を湛えてから、それでも便座を越えてあふれずに、少しずつ水量を減らしていき、正常に戻るかと思われたところをさらに枯渇して、すっからかんになってしまう。気持ちよくジャーと流れないで、きっと、ちょろちょろ通り抜けるだけの隙間を残して、奥の方で塊になっているのだろう。
ついぞ詰まったことのない我が家の便器だから、俺たちが例のスッポンを買い求める判断にいたったのは二三時間苦心したあとだった。あれならやってくれるに違いない、なぜなら映画でもドラマでも、また漫画でも、トイレというトイレの描写に必ず描き加えられる「お定まり」で、トイレや詰まりグソと、いわば猪鹿蝶の関係であろうか。こういうことから親子は無根拠にスッポンを信頼した。
俺んちにはスッポンがなかった。先に述べた通り、我が便器は三十年近くのときを見事に流麗と流れて、詰まることを知らなかった。だから、気遣ってやることもそれほどなく、驚くべきことに、トイレ掃除など二か月に一度くらいであるのに、見事に仕事をこなし続けた。俺たちはもっと彼のことを労ってやるべきだったであろうか。が、人が後悔するときは、いつも引き返せなくなってからなのである。
ローソンにも置いてあるスッポンというやつは、はたしてそれほど人々が買い求め、毎日誰かが使うほどの道具なのであろうか。みな、それほどまでに巨大なクソを詰まらせるのであろうか。
いずれにしても、五百円も出せば手に入る半円の突端が特徴のスッポンは、本当はラバーカップというのである。初めてのことだから、間違いがあってはいけないので、半径の大きめなのを買った。店を出る前に、ローソンの正常なトイレを使ったのであるが、普段なら考えることがなかったいくつかの不義理を思わずにはいられない。一つに、いつまでも詰まったままで役割を果たせないで悔しいであろう我が便器の忸怩、これをいち早く解決してやれるところまで来ているのに、こうやって一息入れているということ。また、使えなくなったから他所を使う不倫に似た後ろめたさ。詰まりさえしなければ考えもしなかった悔恨は、このよそのトイレが俺の大便を流すのに手伝って、つとめて思考の外に押し流した……。
ようよう帰ってきた俺を待ちかねてパパが、それからママが喜び勇んで出迎えた。むき出しのスッポンの半円のところに紙のパッケージがつけてあるのを、ふたりの目の前で破きとって見せて、俺は、これを勇ましく肩に担ぎ、アルマゲドンの面持ちで、向かうべきあの場所へ向かった。
トイレは懐かしく思われ、匂いも嫌な感じがない。堪えかねたパパなりママなりが、一、二度小便ぐらいしているだろうが、それでも嫌な感じがなかったのは不思議である。
俺はトイレに水を与えた。レバーを小の方へ回して、便器をなみなみにした。水の供給が一段落すると、いよいよあふれそうな水面から奥へ、スッポンの突端を押し入れた。
ボコボコとラバーの内側の空気が水圧に圧されて浮き上がった。俺は丁寧にカップの中の空気を逃がしてやり、ついに最奥の水が流れ落ちる口へ、カップを押し当てた。
ぐっとやる。勢いよく引く。水の奥が「ぐぅ」と鳴った。が、俺にしてみれば、全然だ、という手ごたえだった。再び力強くカップを押し入れた。カップはまるいふちを便器に密着させて、棒とつながる中心だけを深く沈めた。俺の手にゴムの抵抗が感じられた。あたかも、便器は、便秘のときの固いお腹のようである。もっとぐいぐいすれば、きっと奥の方でなにかが和らぐに違いない。俺は確信して、勢いよく引き抜く。水がグボボと叫んだ。
それからの俺は無心で差し入れ、抜き出した。二頭筋と大胸筋の連携、それから引くときの筋肉は力強かった。五度も六度も続けてぐいぐいやり、確実な成果を期待して、途中観察などせずに、また三度ぐいぐいした。
ごぽん、そして……じゃアァァァ……。まるで爽やかな喉ごしに思われた。
俺が固く排泄した大便が、いまようやっと流れ去った。トイレの水は正常な水位でとどまった。
この出来事は、きっと、春キャベツが恵みを与えた、トイレの成長物語なのだ。詰まってこそトイレは一人前だ、そう感じた春である。