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楽園の守護者  作者: 神崎真
番外編3
71/82

雪景色

 大陸でも南方に位置するセイヴァンの王都には、例年さほど多くの雪が積もることはない。

 標高の高い北部の山脈などは例外だが、平地に位置する王都近辺は、せいぜい一冬に二三度、数日で溶ける程度の軽い積雪があるぐらいだ。

 が ――

 カルセストが十八を迎え、破邪騎士としての責務にもようやく慣れ始めたその年、王都は近年稀に見る大雪に見舞われた。踵の高い、膝丈の乗馬靴をも埋めかねないほどのその雪は、見慣れたはずの王都の景色を一変させ、目に映るものすべてを白く染め上げていた。

 もっともさすがに、王宮内の各通路や中庭などは、きれいに雪掻きが為されている。それでも凍りついた石畳は足元を危うくさせ、鍛錬の剣を振るう破邪騎士達も、いつもとは勝手の違う様子に苦心を隠せないでいる。

 寒さに白く煙る息を吐きながら、交わす言葉はみな雪に関することばかりだ。

 幸いなのは、この寒さで妖獣の動きも鈍っているのか、ここ数日は出没の声を聞かないことだろうか。それはそれで、ありがたいことではある。

「どうだ、今日は早めに切り上げて、いっそ雪見の宴と洒落込まないか?」

「そういえば鵞鳥亭の庭が、雪化粧でなかなか趣深くなっているらしいぞ。そちらに席を用意させようか」

 冷えた身体を酒で温めようと、そんな会話がそこここで繰り広げられている。実際、妖獣の被害も起きていないのだし、それぐらい楽しんでも罰は当たらないだろう。

 自分もどこかの集まりに混ぜてもらおうかと声を上げかけたカルセストだったが、つい先刻まで剣を交わしていたアーティルトの様子に、ふと心を惹かれた。

 仮面にも似た眼帯で半ばを覆い隠したその顔に、いつも穏和な笑みを浮かべている青年が、今日は妙に屈託ありげな表情を見せている。

 鯉口の音をたて細剣を収めた彼は、なにかを探すように視線をさまよわせた。そうしてすぐに目的のものを見つけたらしい。軽く手を上げると、そこへ足早に近づいてきたのは、珍しく訓練に参加していたロッド=ラグレーだった。雪とはまるで相容れない、濃い褐色の肌を持つ青年は、やはり固く張りつめた面差しでアーティルトに応えた。身ぶりで促すようにしてカルセストの傍らを通り過ぎる。

 いったいどうしたのか。

 どちらかというと楽しげな雰囲気を漂わせる周囲をよそに、真剣な眼差しを交わす二人を、カルセストは訝しげな目で眺めた。

 と、その視線がたまたま、きびすを返しかけたアーティルトと合う。

「…………」

 一瞬、考えるように足を止めたアーティルトは、しばしのためらいののち、カルセストを手招いた。それはけして強い仕草ではなかったが、関心を覚えたカルセストは、酒宴の誘いに乗るよりも彼らの後を追うほうを、なんとなく選択したのである。



 足早に歩むロッドと、その後をわずかに遅れて続くアーティルト。そしてそのすぐ脇に並ぶカルセスト。いったいどこへ何の目的で向かうのか尋ねたいのはやまやまだったが、ロッドにはとりつく島もないし、アーティルトとの指文字の会話は、急いで歩きながらするにはむいていない。まして凍りついた足元は危うく、うかつに気を逸らそうものなら、足を滑らせ転倒しかねない。

 それでもいくつかの石段をなんとか無事に降り、たどりついたのは厩舎だった。さすがに火を入れて温められたその中に、破邪騎士達の馬が何頭も繋がれて、出番が訪れるのを待ち構えている。

 それぞれの愛馬を引き出していると、馬丁がこんな日に出かけるのかと、呆れた声で聞いてきた。それにはロッドが鼻を鳴らすに留め、勢いよく鞍にまたがる。

 城の大手門をくぐると、途端に道の状態が悪くなっていた。いまはかろうじて空からの降雪は止んでいるが、雪掻きの手が足りない街路には、多くの雪が残されている。おのおのが自分の家の前だけを処理し、のけた雪は適当に道ばたに積み上げてあったりする。かろうじて一筋、人の足跡でつけられた通り道が、細く長く伸びていた。馬車で出かける剛の者も何人かはいたらしく、道の真ん中と思しきあたりに、馬の足跡とわだちの深い溝が刻まれている。あたりをゆく人影は、ほとんど見あたらない。

「道も何もあったもんじゃねえな」

 それまで無言で馬を進めていたロッドが、ようやくぼそりと呟いた。その吐息は濃く白い。

 こんな状況では、馬を走らせることなどとうていできない。ざくりざくりと、残された足跡を追うように、馬蹄がゆっくりと雪をかき分けてゆく。

 向かう先に迷いはないようだ。まっすぐに進んでゆく二人の後ろを、カルセストも手綱さばきに苦労しながら追ってゆく。馬の茶色い脚が、あっという間に白く染まった。鍛錬でかいた汗が冷え始め、冬用の厚い外套をしっかりと身体に巻きつける。

 やがて……半刻ほども経っただろうか。

 人が歩むのと変わらぬほど、ゆっくりとした道行きは、徐々に郊外の方へと向かっていった。郊外 ―― というよりも、下町。下町と言うよりもむしろ、貧民街とでも表現するべき、低所得者層が住まうあたりだ。

 たとえ王都であっても、どうしても生じてきてしまうそういった地域にも、ここしばらくのカルセストはじょじょに慣れつつあった。それは無論、ロッドに関連して足を踏み入れることが増えたせいであったのだが。

 どうしても薄汚れた感の拭えぬその町並みも、今日ばかりは雪化粧に彩られ、心なしか明るく、美しく見えるような気がした。舗装もろくにされていない道ばたに、吹き寄せられた塵芥もきれいに隠され、道には馬車のあとなどまるでなく、目に映るのはほとんどが新雪に近い。

人の足で刻まれた道筋はいささか太いようだが、それでもいつもの猥雑さが嘘のようだ。

 思わず周囲を見まわしてため息をついたカルセストだったが、他の二人はそういった感慨は持たないようだ。ますます重くなった馬の足に舌を打ち、手綱を当てている。

 進むにつれ、前方に人の影が見えてきた。どうやら列を作って並んでいるらしく、その向こうに人だかりがある。

 どうも目的地はそこらしい。

 並ぶ人々の注目を浴びながら、彼らは人だかりの中心へと駒を進めていった。

 だんだん近づいてゆくにつれ、人だかりの中心から、暖かそうな湯気が上がっているのに気がつく。けして人いきれなどではない。空腹を刺激する、良い匂いも漂ってきた。

 その近辺だけ、人の足でならされただけではなく、広場のように大きく雪がのけられている。中央に置かれているのは、一抱えもある大鍋が三つ。そしてたたんだ毛布の山が五つ。その周囲をかこんで、防寒着に身を包んだ人々が、もっと粗末な身なりの人々を相手に声を枯らして叫んでいる。

「順番を守って下さい! 割り込まないで!!」

 列を作って鍋を目指している人々は、みな防寒機能などほとんどないような、薄い衣服を身にまとい、中には裸足同然の人間まで混じっていた。

 貧しい人々への炊き出しだ、と。

 ようやくカルセストはそれに気が付いた。

 順番がまわってきた人々は、それぞれ持ってきた碗に粥を盛ってもらい、また毛布を一枚ずつ受けとっている。

 露出した地面にたどり着いたロッドは、馬から下りると手綱を引いて炊き出しの係員に近づいていった。

「どうだ、数は足りてるか?」

 挨拶もなく声をかけた相手は、どうやら顔見知りらしい。振り返った男は、戸惑う様子も見せず、こちらも率直に答えを返した。

「いえ……やはり半分にもなりません。王宮からも支給をいただきましたが、どうにも人数が多くて」

 居並ぶ人々を数えるまでもなく、用意された物資が足りないのは目に見えて明らかだった。

 鋭く舌を打ったロッドは、忌々しげに懐を探る。取り出したのは小さな革袋だった。

 大鍋の傍らに置かれた粗末な木箱 ―― 上部の板に丸い穴が開けられている ―― の上で紐を緩め、無造作に振る。と、ちゃりんちゃりんと金貨銀貨を含めた何枚もの貨幣が箱の中へ落ちていった。続いてアーティルトもまた同じように財布を出し、中から何枚もの硬貨を取り出して木箱の中に落とし込む。ほとんど中身の入っていなかったらしい箱の中で、金が澄んだ音をたてて跳ね回った。

 これは、篤志箱だ。

 貧しい人々に対しわずかでも援助を行ってほしいと、裕福な人間に寄付を募る為の代物だ。

 カルセストはそれらの光景を眺めながら、頬が熱くなるのを感じていた。

 いや、頬だけではない。全身が、周囲の寒さとは裏腹に熱く火照っている。それはけして、ここにたどり着くまでの馬術によるものではなくて。

 飢えることも、凍えることも知らない自分達は、珍しい雪景色を見て、美しいとただ賛嘆するばかりだった。寒い寒いとうそぶきながら、そんな情景を酒の肴にしようかと、そんなふうに笑っていた。

 けれど ――

 この美しさは、一方で確実に多くの命を危険にさらす、恐ろしい寒波の結果なのだった。

 ほんの一杯の粥、一枚の毛布にも事欠く人々にとって、この寒さは文字通り生命の危機をもたらすものに他ならないのである。

 そんなことなど、カルセストは思いもしなかった。温かな ―― うまやにすら火の入る王宮でぬくぬくと過ごし、雪がきれいだとはしゃいでいた。眼下の街で、まさに今どれほどの人々が凍えているかなど、考えもせず。

 そのことが、ひどく、ひどく恥ずかしい。

 そんな現実を知る、平民出身の二人の騎士。そして配布物資を手配したのであろう、国王とその後継たる王太子は。

 あるいは……そんなふうに人々の暮らしを思いやれる人物の下であるからこそ、ロッドとアーティルトの二人は、平民出身の騎士という異色の存在であることを、そのある種厳しい道を選択したのではないだろうか ――



 あたりを覆う新雪を、もはや美しいとは感じられなくなってしまった己を、カルセストは喜ぶべきか、悲しむべきか判らなかった。

 判るのはただ、またひとつ、己の視野が広がったことだけで。



 複雑な思いに身を任せながら、カルセストは己もまた隠しを探ると、取り出した財布から幾ばくかの貨幣を、篤志箱へと投じたのだった。

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