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楽園の守護者  作者: 神崎真
第二部2
55/82

第十四話 継承のとき 第四章

「越権行為ですぞこれは!」

 刺々しい言葉が会議室内に響きわたった。卓を拳で叩くようにして立ちあがった男が、上座についたフェシリアをにらみつけている。

「公爵が御不在のいま、貴女の一存で兵を動かすなど御勝手が過ぎましょう! まして町民を避難させた上、その生活の面倒まで見てやるなど、正気の沙汰とは思えません」

 コーナ公爵のもとで領内の治安を担当している官僚は、フェシリアに対する不満を隠そうともしていなかった。そして室内の数か所からも、彼の発言に同意する声があがる。

「そもそも、それにどれほどの費用がかかるのか、姫さまは判っておいでですか。子供のままごととは訳が違うのですよ。お優しいのは大変けっこうですが、そのようなきれい事を現実の公務に持ち込まれましても」

 別の、白い髭を蓄えた財務官がため息混じりにかぶりを振ってみせた。ひそやかな笑い声が、そこここから洩れ聞こえてくる。

「…………」

 巨大な円卓の上座についたフェシリアは、それらの嘲りを軽く目を細めただけで受け止めていた。

 ほとんどが年輩の男で占められる座の中で、彼女はひときわ異彩を放っている。室内ただ一人の女性であり、しかもその年齢は場にいる者達の半分にも達していない。繊細な刺繍の施された衣装を纏い、艶やかな黒髪を肩に広げたその姿は、精巧に作られた人形のようにも見えた。このような会議の場にはまるでそぐっていないと、誰もがそう思うだろう。

 事実、室内にいる大半の者が、フェシリアの存在を飾り以上のものだとは考えていなかった。コーナ公爵が王都におもむいているいま、彼らは彼らのみでこの領内を管理していかなければならない、そう思っていたのだ。

 しかし……

 沈黙していたフェシリアが、その口を開いた。

「ラスティ=ガーズ」

 淡く色づいた唇が動き、背後に立つ側近の名を呼ぶ。

 一礼した文官は、手にしていた書類を無駄のない動きで配っていった。

 気のない仕草で目を落とした数名が、ふと表情を動かす。

「どれほどの費用がかかるかとのご質問ですが、ご覧の通り既に試算は終えております」

 紙面に並んだ数値とその細目は、確かに文句のつけようがない。完璧な予算案だった。

「しかし、これは ―― 」

 予想通りかなりの金額に達しているそれに、誰かが発言しようとする。だがそれを押さえるようにフェシリアが先を続けた。

「それから、二枚目に書かれている内容ですが」

 その言葉に操られるように、紙をめくる音が室内に生じた。そして次の瞬間、数名の喉から引きつったような声が発せられる。中には耳障りな音を立て、椅子を引いた者もいた。

「……過去三年間にわたる領内の納税試算と、実際に納められた税額の比較。そして当時における皆さまの職務内容と、資産運用についての記録になりますわ」

 簡単にまとめたものですけれど、よろしければもっと詳しい報告書を作成させてもよろしゅうございましてよ。

 柔らかな微笑みをたたえたフェシリアを、何名かが愕然としたように眺めた。

「皆さまが有事の折りに使えるよう、こうして積み立てていて下さった蓄えを利用すれば、充分にまかなえる金額であること、納得していただけましたでしょうか」

 今ならば、私腹を肥やすために横領したのではなく、あくまで特別予算であったのだと認めてやるが、と。その言葉は言外にそう告げてくる。

 しばし、室内には重い沈黙がたれ込めた。

「ひめさ……いえ、フェシリア様」

 やがて官僚の一人が、挙手して発言を求めた。

 居並ぶ中では若い部類に入る ―― それでも三十過ぎの ―― 領内の土木整備を総括する男が、書類を示しながら問いかけてくる。

「失礼ですがこの報告書、情報の出所はいったいどちらなのでしょうか」

 フェシリアはわずかに首をかたむけた。そうすると、癖ひとつない黒髪がさらりと流れ落ちる。

「それは、一言では申し上げられませんわ。ひとつの箇所でもありませんし。ですが必要とあれば、もととなった資料や証人をお目にかけましょうか。よもやザイード様が、彼らに対してよからぬ働きかけをなさるはずもございませんし」

 そう言って、席上へと視線を流した。薄墨色の視線を受けて、書類上に名の上がっている数名が、ぐっと息を詰める。

「ではこれらは、フェシリア様が命じて作成させたものと言うわけですね」

「ええ」

 それはつまり、横領の事実がまだ公爵の元へは届いていないことを示している。あたりに安堵にも似た空気がただよった。

「でッ、でたらめだ! この報告が正しいものだなどとどうして言える!?」

 一人が急に声を荒げた。公爵の後ろ盾がある告発ではないと知って、まだ言い逃れがきくと計算したのだろう。相手はたかが小娘だ、勢いに任せて押し切ってしまえると思ったに違いない。だが、それに同調する者はわずかだった。場にいる人間はみな、フェシリアのまとう空気に威圧されつつあった。これまで、ただ領主の血を引くというだけの、飾り物の後継者としか考えていなかった相手が、実はただならぬ存在であったのだと、肌で感じ始めている。それはある意味、保身に敏感な官僚達の本能ともいえる部分だったろう。

 浴びせられる罵声にも動じることなく、微笑みすら浮かべたまま見つめ返すその態度。長い睫毛に彩られたその瞳には、いっそ冷たいとすら感じられる光が宿っていて。

 ―― 格が違う。

 何名かはそう感じ、ひそかに息を呑んでいた。

 これは、繊細でたおやかな、深窓の令嬢などでは断じてない。人の上に立ち、命令ひとつで人と物資と情報を動かす、冷徹な為政者の目だ。

 それまで信じていたことを覆される衝撃と、そして ―― 仕えるに足る主君を得たことに対する、快感。柔軟な思考を持つ数名は、そのとき確かにその二つを感じていた。……自覚しているにせよ、いなかったにせよ。

 そしてザイードは、いち早くそれを自覚した一人だった。

「正しいのか正しくないのか。不満があるというのであれば、公爵がお戻りになられた際、ご判断を仰がれてはいかがですか」

 立ちあがっている男へと、彼はそんなふうに提案する。

「フェシリア様が信頼できずとも、セクヴァール様ならば信頼できるのでしょう? あの方ならば、充分に調査を行った上で、公正な判断をして下さるでしょうから」

 もちろんそんなことをすれば、今度こそ言い逃れのできぬ形で不正が明るみに出ると、承知した上での提案だ。

 ぐっと詰まった男に冷たい笑いを向け、フェシリアの方をふり返る。フェシリアはそれを受けて鷹揚にうなずいてみせた。そうしてことりと音を立てて椅子を引く。

 立ちあがったその姿は、場にいる全員の目に不思議なほど大きく映った。

「王都におられる父の指示を待っていては、すべてが手遅れとなろう」

 凛とした良く通る声が、室内に響きわたった。

 いつしかその言葉は、目下の者へ向けるものとなっていたが、誰もそれを咎めようとはしなかった。

「危険な区画の避難は既にほぼ終えている。残る区画の監視と、必要であればさらなる避難の計画、実行はトワナ殿に任せるとしよう。避難先の仮住居整備はザイード殿、必要な物資の補給はヘインズ殿が。妖獣に関してはこれまで通り破邪騎士殿に一任するが、避難民の警護はウォルグ殿が担当せよ」

 矢継ぎ早に指示を出してゆく。名指しされた者は、ある者は慌てたように、またある者は静かに一礼して拝命した。

「 ―― 王都より救援が来るまでの間、なんとしてでも領地を守らねばならぬ。おのおの、怠るでないぞ!」

 その言葉に、全員が背筋を伸ばして姿勢を正した。その中には先程まで不服げに抵抗していた者も含まれている。無意識のうちにそうしたことを、己でも信じられぬよう目を見はる彼らに、フェシリアはただ無言で口元をほころばせてみせた。

 研ぎすまされた刃物を思わせるその笑みは、到底世間知らずの姫君が浮かべられるそれではありえなかった。



「……これは、後戻りのできぬ賭けよ」

 会議を終えたフェシリアは、廊下を執務室へと向かいながらそう呟いていた。一歩控えて続く文官が、は、と小さく聞き返す。ちらりとそちらをふり返ったフェシリアは、自嘲するような笑みを口元に刻んでいた。

「一度はずした仮面は、二度とつけ直すことができぬ。なれば今度こたびの件、片がつくまでに父を廃するか、そうでなくとも対抗できるだけの家臣を味方につけられれば良し。さもなくば ―― 」

 あの父親が、今さらフェシリアの価値を認め直すとは考えられなかった。ならば先に待つのは、もはや徹底した対立の光景しかない。そしてその時の為、味方を作ることができる、今は最大の、そして最初で最後の好機だった。

 ゆくゆくはフェシリアを廃嫡し、異母弟であるファリアドルを後継とするつもりでいるセクヴァール。しかしフェシリアはおとなしく身を退くつもりなどないと、今の会議で公言したも同然だった。

 セクヴァールに従いファリアドルを擁するか、それともフェシリアに味方するのか。どちらがより利益を生む結果になるのかを、フェシリアは家臣達に示さなければならない。その身をもって。

 勝算はある。そう信じたからこそ起こした行動ではあったが、それでも絶対の未来など存在していないと、そう知る程度にフェシリアは聡明な頭脳を持ち合わせていた。



*  *  *



 カルセストらがコーナ公爵領に着いて三日も過ぎる頃になると、妖獣の出現は目に見えて少なくなってきていた。最初の日のように全員で休む間もなく駆けまわるような事態はほとんどなくなり、交代で公爵の屋敷へと戻り、柔らかい寝台で横になることもできるようになる。

 あるいはそれで、油断が生じていたのかもしれなかった。

 緊張が緩み、蓄積していた疲れが表面化しつつあったその時、ある種、慣れのようなものが生まれていなかったと誰が言えるだろう。



 その日は昼も過ぎた頃になって、カルセストは与えられた客室から起き出してきていた。そうして厨房近くの食堂で、彼にとっては朝、屋敷の人間にとっては遅い昼にあたる食事をとる。

 本来そこは屋敷で働く使用人達の利用する食堂だったが、今回の来訪では不規則な生活が続いているカルセストは、すっかりここで食事するのに馴染んでしまっていた。いちいち部屋に運ばせたりしていては時間も掛かるし、それだけ休憩時間が削られてしまう。なんでもいいから腹に入れられるものを大至急、という欲求が勝った結果、そういうことになったのだった。幸いにもロッドという前例があったために、使用人達もあっさりそれを受け入れてくれている。

 そのロッドは、ついさっき食事を終えたばかりだそうだった。夕メシ時になったら起こせと言いおいて、客室へと引き上げたらしい。明け方に戻って今まで寝ていたカルセストは、それまでアーティルトと二人でことに当たるわけだ。

 食事を終えて席を立つと、すぐに使用人の一人が食器を下げに来た。

「ごちそうさま。美味しかった」

 そう告げると、愛想良く笑って頭を下げてくる。

 では出かけるかときびすを返したカルセストは、ふと腰に当てた手が寂しいのに気がついた。目を落とせば、いつも下げているはずの短剣が見あたらない。

「あ、あれ?」

 今朝がた眠る前に、長剣といっしょにはずして卓へ置いたはずだ。それをそのまま身につけてきたのだから ――

 そう記憶をたどってみて、そういえばと思い出す。

 確か剣帯に留める金具が歪んでいることに、屋敷に戻ってから気づいたのだった。普段ならば気に止めない程度の緩みだったが、今の状況ではそんなことでも、なにかの場合に重大な支障となり兼ねない。しかし今から鍛冶屋を探すのは……と迷っていたところで、使用人の一人が修理に出すのを引き受けてくれたのである。

「警備兵の装備を扱う鍛冶場が、敷地内にあるからって言ってたな」

 手近な人間を捕まえて聞くと、厩舎や兵の宿舎がある一角に、その類のものが集まっているらしい。

 ここからなら、館の中を突っ切った方が早いですよと説明されて、言われたとおりの方向を目指した。しばらくは使用人が使う飾り気のない通路を行き、途中で扉をくぐって通常の廊下へと出る。

「ええと、あっちかな?」

 左右を見わたして方角の見当をつけると、廊下の先にある重厚な扉を開き、別棟へと足を踏み入れた。

 と、そこでカルセストは思わず歩みを止めていた。

「これは……」

 無意識のうちに感嘆の声が洩れる。

 そこは、これまで歩いてきた廊下と異なり、かなり薄暗い空間だった。だが使用人用の明かりを惜しんだ通路というわけではなさそうだ。床に敷かれた毛足の長い絨毯も、精緻な模様の壁紙も、華美でこそないが手のかかった逸品である。天井近く、高い位置に明かり取りがあるそこは、壁にずらりと並んだ絵画を鑑賞するための場所らしかった。薄暗いのは、陽光で絵の具が褪色するのを防ぐためだろう。

 足早に通り過ぎるのがなんとなくためらわれて、カルセストは静かに歩を進めた。

 並ぶ絵はどれも人物を描いたものだった。額の下にある文字によれば、代々の公爵の肖像画らしい。

 コーナ公爵家は、セイヴァンでももっとも古い血筋を誇る名門である。その系図をひもとけば、はるか建国の時までもさかのぼることができる。初代公爵は、祖なる王エルギリウス=ウィリアムの娘、ミルトナーシャ。それより三百有余年、王の血を受け継ぐ公爵の血筋は、途切れることなく続いてきている。

 並ぶ肖像画には、老いもあり若きもあり、男もあり女もある。継承に男女の区別を持たないのがこの国の習慣だが、それもエルギリウスから王位を継承した、二代目の王が女王であったことと、その妹であるミルトナーシャが公爵家の初代であることが大きく影響しているのだろう。

 そして次代のコーナ公もまた、女性であることが既に決まっている。

 年代順に並ぶ肖像画の、最後のものを前にカルセストは足を止める。

「あれ、これって ―― ?」

 そこに描かれているのは、フェシリアの姿ではなかった。一枚前に現在の公爵であるセクヴァールの肖像がかかっているのだから、この絵は次代公爵のものでなければおかしいはずなのだが。

 十になるかならずといった年頃の、まだ子供と呼んでいいだろう少年の絵姿。隣に並ぶ公爵の絵と見比べてみれば、どことなく面影がある。

 額の下に書かれた名は、カルセストにも覚えのあるものだった。直接面識があったわけではないが、それでも本来であれば、エドウィネルに代わり立太子していたであろう人物だ。宮廷貴族の一員として、当然記憶しているべき名前である。

「そっ、か。まだこんなに小さかったんだ……」

 思わずそう呟いていた。

 エドウィネルが王位継承者として王家に迎えられたのは、もう十五年も前のことだ。そしてこの少年が行方知れずとなったのは、そのさらに二年前にあたる。しかも彼はエドウィネルより二つか三つ、年若だったというから、その頃せいぜい七つか八つというところだろう。

 その年で、名門コーナ公爵家の跡継ぎとして認められていたのだ、この少年は。

 無事だったならば、もう二十四、五にはなっていただろう。今ごろセフィアール騎士団を率い、破邪の現場で采配を振るっていたのは、青年となった彼だったかもしれなかったのだ。

 なんとなく、この少年が成長し、妖獣を前に命を下しているところを想像してみる。

 コーナ公爵を若くしたような感じだろうか。いや、もう少し線が細いかもしれない。このあたりの血が濃いようだから、手足が長く、すらりとした体格になるのではないか。強い陽差しによくはえる褐色の肌に、わずかに癖のある焦茶色の髪をなびかせて、瞳の色だけは、国王陛下によく似た深い、蒼色の……

 そこまで思い描いて、ふとなにか既視感のようなものを覚える。

 いま脳裏に浮かんだその姿が、何故か妙になじんだもののように感じられた。

「え ―― ?」

 なんだか、ひどくおかしなことを考えてしまった気がする。それがなんなのか、とっさには自分でも理解できないほどに、ありえない思いつきが脳裏をよぎった気がした。

 しかしそれをはっきりと思い返すよりも早く、騒々しい邪魔がその場に入る。

「カルセスト様!!」

 廊下の終わりを閉ざしていた扉が、慌ただしい動きで開かれた。

「た、大変ですッ」

 つい数日前、同じこの場所へロッドを呼びに来たその召使いが、またも息せき切って飛び込んでくる。

「どうした!?」

 カルセストの返答はロッドほど落ち着いたものとはならなかった。

 ただならぬ召使いの様子に引きずられ、無意識のうちに剣に手をやっている。

「よ、妖獣が……巨大な妖獣が現れて、アーティルト様お一人では……ッ」

「場所は!」

 叫んだ次の瞬間には、カルセストは駆け出していた。召使いもすぐにその後を追ってくる。

 廊下を走りながら現在判っている状況を聞き、そのまま玄関先で用意されていた馬へと飛び乗る。素早く拍車をあて、案内の兵士と共に現場へと向かった。

 その脳裏からは、既に先刻まで考えていたことなど、欠片も残さず消え去っている。



 現場は、本部となっている兵屯所にもほど近い、港町の一角であった。

 妖獣の上陸を許し、すでにかなり内部にまで入り込まれてしまったのには、それなりの理由がある。

 駆けつけたカルセストは、手綱を引いて馬を止めたまま、一瞬状況も忘れて目を奪われていた。

 石畳の広場で暴れているのは、三つの頭を持つ巨大な蜥蜴だった。まるで岩を思わせるごつごつとした表皮に、ところどころに散在する奇妙に長い尖った鱗。爛々と光る三対の目玉があたりを睥睨し、威嚇するように大口を開いている。人間など軽くひと呑みにできるだろうその顎には、牙こそ生えていなかったが、それでも捕らえられたならば、人の脆弱な骨などひとたまりもないと想像できた。

「ば、化けも……」

 遠巻きにしている兵達の間から、呆然としたような呟きが漏れ聞こえる。

 四つ足で這っているのにも関わらず、巨大な頭は馬上のカルセストらと変わらない高さに存在していた。長く強靱な尾がうち振られると、それだけで数名の兵が吹き飛ばされる。そいつが一歩を踏み出すたびに、地響きがしているような錯覚を覚えた。

 しゃぁ、という空気の抜ける音と共に、長い舌が吐き出される。鞭のようなそれに絡め取られ、一人の兵が大顎の中へと消えた。耳を覆う絶叫があたりに響く。そしてそれは骨の砕ける鈍い音と共にぶつりと途切れた。蜥蜴の喉が動き口の中のものを嚥下すると、むくりと、またひとまわり胴体が大きくなった気がする。

 今度は左にある頭が口を開けた。赤い舌がおどるように揺れ、次の瞬間長く伸びる。

 続いてあがったのは、飛び散る血飛沫と聞き苦しい金切り声だった。

 素早く駆け込んできたアーティルトが、細剣を一閃させたのだ。淡く光る刃に切り落とされた舌が、地面に落ちてびちびちと跳ねまわる。残った側の切り口から血をまき散らしながら、大蜥蜴は狂ったように頭を振りまわした。おのおの好き勝手に動いていた三つの頭が、示し合わせたように己を傷つけた破邪騎士の方を向く。濁った黄色の目がアーティルトの姿を捉えた。


 しゃぁぁああああっ


 激しい威嚇音と共に、大蜥蜴が襲いかかる。

 その巨体に押しつぶされたかと見えた瞬間、アーティルトは石畳を蹴ってさらに前へと飛び込んでいっていた。太い足が支える胴体の下、わずかなその空間へと彼は恐れげもなく身を運ぶ。そして一度深く身を沈め、振り向きざま渾身の力で細剣を振り抜いた。

 蜥蜴の身体がびくりと跳ね上がった。上半身を高く持ち上げたかと思うと、次の瞬間、叩きつけるように地へと墜ちる。三つある首のうち、真ん中のそれが半ば近くまで切断されていた。狂乱する二つの頭に挟まれて、目を剥きだらりと舌をはみ出させた首が、力なく振りまわされる。

「す、すげえ……」

 アーティルトの雄姿に、及び腰だった兵達が活気を取り戻した。

 カルセストもまた、己のやるべき事を思い出すと、素早くあたりの状況を確認する。

「誰か馬を頼む。暴れると危険だから他のも全部下がらせてくれ。あとやつの鱗はかなり固さがある。腹か腋の下を槍で狙え!」

 そう指示を出し、馬から下りて細剣レピアを抜く。

 連日の行使に、残された術力は少なかった。だが今このとき、ただの鉄の刃で対抗できる相手ではない。確かめるように、彫刻の施された柄を握りしめる。中指の指輪が、柄に当たって固い音をたてた。

 目をしっかりと開き、妖獣の動きに集中する。

 二つの頭が両側からアーティルトを狙った。その瞬間を逃さず飛び込んでゆく。

「 ―― っ!」

 喉の奥から気合いがほとばしった。振りかざした細剣が、淡い銀の光を帯びてきらめく。狙いは巨大な目。縦に長い瞳孔を持つその真ん中へと、まっこうから細剣を叩きつける。

 ずぶりという嫌な感触と共に刃が埋まった。すかさず引き抜くと、白濁した粘液があふれ出してくる。反撃を避けるため、石畳に身を投げだした。かばって伏せた頭のすぐ上を、振りまわされた蜥蜴の顎が通り過ぎてゆく。数度転がって間合いを取り、立ちあがった。片目を失った蜥蜴は、死角に入ったカルセストを見つけられず、しきりに頭を動かしている。続いてアーティルトも、もう一方の頭から片目を奪った。

「ヤツは外側が見えなくなってるぞ! 横から回りこめ」

 バージェスが兵達へと指示を飛ばしていた。自らも間合いの長い槍を構え、離れた場所から大蜥蜴の隙を狙っている。

「油断するな、尻尾に気をつけろっ」

 叫びざま、カルセストは細剣をふるった。カルセストを捉えようと伸びてきた舌が、その先端を切り飛ばされる。これで三本全てが失われた。あとは尾にさえ気を配れば、離れた位置にいる限り大丈夫だ。

 ひとつ息をついたカルセストは、状況を確認するべく、後ずさってある程度の間合いをとった。蜥蜴の死角に入るように、斜めになる位置へと回りこんでゆく。

 と、そんなカルセストの動きに気がついて、アーティルトは驚いたように目をみはっていた。蜥蜴の真正面、相手が首を伸ばせばすぐ届くだろう危険な位置にいるのにも関わらず、顔ごとふり返ってカルセストを凝視してくる。

「……ッ」

 その唇が、なにかを告げるように動かされた。だが喉を潰されている彼の口から、肉声が発せられることはない。え? とそちらに注意を引かれたカルセストの前で、妖獣が突然その身を伏せた。前足を折り、背中を前方に向けるような形に突き出してくる。ごつごつとしたその背の表面には、通常の鱗に混じって奇妙に長いものが散在していた。それが、乾いた音をたてていっせいに起きあがる。

 一瞬、蜥蜴の背に針山が現れたように見えた。

「全員、伏せろッ!!」

 バージェスの怒号が響きわたる。

 事前にそうと知らされていたのだろう。兵達はその命令と同時に躊躇なく身を投げ出す。

 目の前に現れた立ち並ぶ切っ先に、カルセストは妙にゆっくりと思考していた。その脳裏に、公爵領へ向かう途中、船上で読んだ祖王の活躍譚がよみがえる。

 ―― そうだ。確かハミアは追いつめられると、背中の棘を飛ばしてくるんだった。だから、頭部が邪魔になって棘の飛ばない真正面か、そうでなかったら棘の間に入れるごく間近か、充分避けられる遠くかの、どちらかにいるようにしろって……

 妖獣の特徴を知るべく、学んだ内容が思い出される。

 いまカルセストがいるこの距離は、逃れようのない、格好の的となる位置だった。

 棘の山がわずかに沈んだかと思うと、次の瞬間いっせいに放たれる。細い槍ほどもある鋭い鱗が、八方へとすさまじい勢いでまき散らされた。

 突き飛ばされるように石畳へと転がったカルセストは、反射的に受け身をとったものの、肩口を強くうって呻いた。が、間近からあの棘を受けたなら、こんなものですむはずがない。慌てて身体を起こし、あたりを見まわす。

 すべての棘を失った大蜥蜴がいた。通りのそこここに発射された棘が散らばっている。建物の壁に突き刺さっているものもあったが、幸い兵達の被害はないようだった。

 伏せていた者達が、次々と起きあがってくる。彼らは槍や剣といったそれぞれの得物を手に、再び大蜥蜴に対して身がまえていった。しかし……カルセストの目の前に、ひとつだけ起きあがってこない身体がある。

「あ、アート……さん?」

 あの一瞬に、どうやってたどり着いたのか。

 カルセストを押し倒し自らも地に転がったアーティルトは、石畳に膝と片腕を突き、どうにか立ち上がろうとしていた。

 丸められた、その、背中。

 肩胛骨の下あたりから、鈍く光る長い棘がゆるい弧を描いて伸びている。

「……ッ、……」

 胸元を押さえて激しく咳き込む、その口元と手の下から、ぼたぼたと赤いものが落ち、地面に染みを広げていった。

 至近距離から打ち込まれたハミアの棘が、背中から胸へと、その身体を貫いているのだ。

「あ……」

 いったいどうすればいいのか。

 衝撃で真っ白になった頭で、カルセストはなにも判断できぬまま、ただ無意識に手を伸ばしていた。

 震える指がアーティルトの肩へと触れる。と、血に汚れた手が、痛いほどの力でカルセストの手首を掴んだ。

「…………」

 咳の合間に挟まる、あえぐような呼吸。乱れた髪の間から見えるのは、血の気を失い蒼白になった顔色だ。

 手首を掴んだ腕が、突き放すような動きをする。濡れたように光る目が一瞬のぞき、カルセストを射抜いた。

 それに促されるように、カルセストはふらりと立ち上がった。手の中から細剣がこぼれ落ちそうになったのを、無意識の動きで握り直す。

 崩れ落ちるアーティルトへと、バージェスが走り寄ってくる。それを視界の端に収めながら、カルセストは数歩後ずさった。そうして背後にいる妖獣へと向き直る。

 今度こそすべての攻撃手段を失った妖獣は、もはや為すすべもないのだろう。足を踏みかえるようにしながら、じりじりと後ずさりしつつあった。

 一歩、カルセストは踏み出した。二歩、三歩目からは走り出す。


「……あ……ぁぁぁあああッ!」


 悲鳴にも似た雄叫びと共に、振り上げた細剣の先に光が凝縮してゆく。それは瞬く間に精緻な魔法陣を作り上げた。まばゆい光を放つそれを、叩きつけるようにして振り下ろす。


 妖獣の血肉を引き裂くその瞬間、カルセストの脳裏を占めていたのは、

 未熟な己に対する激しい憎悪と、

 そして、

 わき上がる喪失の予感への、拭いようのない恐怖であった。

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