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楽園の守護者  作者: 神崎真
番外編2
49/82

希望

 女の下で働くのが、馬鹿馬鹿しく思えたことはねえかって?

 ―― そりゃあまた、あけすけに訊きなさいますね、旦那。

 え? 旦那はよせって。じゃあ様づけいたしましょうか。それもガラじゃねえ? そんなこと言われたって、しょうがないでしょうが。あっしみたいなのが旦那を呼び捨てにしてるとあっちゃぁ、まわりがうるさくてかないませんや。

 そんで、あれだ。レジィ様のことでしたか。

 まあ、そうですな……そりゃ確かに、最初は思いましたさね。冗談じゃねえって。

 ちっとばかり剣をたしなんだぐらいで思い上がった貴族のお嬢さまなんざ、どう考えたところで邪魔にしかなりゃしない。それが知ったふうな口きいて、めちゃめちゃな命令でも出された日には、従わされる方は命が幾つあったって足りゃしませんからね。

 まあ、どうせ型にはまった手合わせしかしてこなかっただろうおひいさまじゃ、実際に血のひとつも見ればひっくり返るだろう。問題はそうなったとき、どうすりゃ邪魔にならねえか。傷物にせず連れ帰ってやれるか。最初の頃は、そんなことばかり考えてましたっけねえ……



 ◆  ◇  ◆



 南国の焼けつくような陽射しは、容赦なくあたりへと降りそそいでいた。

 じりじりと温度を上げつつある潮風が、妖獣の体液の臭いと燃え尽きた篝火の油染みた煙とを混ぜあわせ、胸の悪くなるような生臭さを呈している。

「南階段で一人やられました!」

「そこの! お前が代わりに行け。それからそっちとそっち、怪我人を運ぶんだ。急げ!」

 良く通る声が、報告に間をおかず指示をとばした。

「はいッ」

「あ、あのっ、こっちの堤防から一匹よじ登ってきてます」

「そちらは私が行く! 案内しろ」

 手早く周囲の状況を確認し、それ以上手の空いている人間がいないことを知ったレジナーラは、迷うことなく兵士を促し該当する場所へと向かう。

 港町と海との間に横たわる堤防では、凄惨な戦いが果てしなく続けられていた。

 半ば人間、半ば魚を思わせる不気味な姿を持つ妖獣が現れ始めたのは、夏の長い日も暮れつつあった、昨夕のことだった。遠浅の海からぽつり、ぽつりと上陸し始めたそれらは、動きも比較的鈍く、はじめのうちはそう苦戦することもなく退治することができていた。

 異様な見た目と鋭いかぎ爪に怯えを見せていた兵士達も、たまたま町を訪れていたレジィとバージェスの指揮を受け、落ち着いて相対することで着実に成果を上げていたのだ。

 だが一晩明けた現在、状況は変わってきていた。

 夜行性ではなかったのか、夜の間は動きを鈍くしていた妖獣達が、夜明けと共にその数を増やし始めたのだ。そちらに一匹こちらに二匹と、何匹もがまとめて堤防へとしがみつき、よじ登ろうとしてくる。

 はじめの内は交代しつつ冷静に対処していた兵達も、やがて手が足りなくなり、いつしか総出であたりを走りまわるようになっていた。

 あちこちからやってくる叫ぶような報告に、兵達のまとめ役であるハーンが、怒鳴り声と大差ない指示をとばしている。またもあえぎつつ駆けてきた兵士に、レジィが剣を持ったまま振り返った。

「今度はどこだ!?」

 問いかけるレジィも、案内しようときびすを返す兵士も、既に汗にまみれ、煤と砂埃とで真っ黒になっている。

 二人並んで走る先で悲鳴が発せられた。

 案内の兵が名らしきものを呼んで速度を上げる。

 行く手で男の倒れ伏す様が見えた。その傍らに、堤防を乗り越えてきた妖獣がうっそりと立ち、背中を丸めた身体を不安定に揺らしている。

 どす黒い濃紫の鱗が、陽光を浴びてぬらりと光った。水掻きを備えた四本指の腕が、高々と持ち上げられる。長い爪からしたたり落ちる、生臭い水滴。目蓋のない真円の瞳が、焦点の定まらない虚ろさで倒れた男を見下ろしていた。

「やめろぉッ!」

 兵士の叫びも虚しく、かぎ爪が振り下ろされる。

 のしかかるようにかがんだ妖獣の下で、背中を突き破られた男がびくんとのけぞった。大きく見開かれた鳶色の瞳。悲鳴を上げようとしたのか、開いた口から、ごぼりと血の塊が吐き出される。

 先を走る兵士が言葉にならないわめき声を放った。

 末期の痙攣に震える肉体から、引きずるように腕を抜く妖獣。強い陽射しの中、白く光を反射する石組みの上に、黒くさえ見える血だまりが広がってゆく。

 上体を起こした妖獣へと、銛を構えた兵士がつっこんでいった。

 鋭く研ぎ澄まされた刃が妖獣の胸を深く貫いた。逆向きになった棘が肉を裂き、傷口を広げる。妖獣はきしるような叫び声を上げ、身体をよじった。その勢いで銛を握った兵士が振りまわされ、石畳へと投げ出される。肘をついて上体を起こしたその瞳に、かぎ爪を振りかざす妖獣の姿が映った。

「 ―― ッ」

 息を呑み硬直する兵士の眼前を、銀の閃光が横切る。

 妖獣の右腕が、肘から切り飛ばされた。

 勢い良く噴出する体液にも怯むことなく、レジィが両者の間へと割って入る。気合いと共に振り下ろした刃を、妖獣は残る片手でつかみ止めた。レジィは渾身の力をこめて押し込もうとするが、妖獣の身体は少しも揺らがない。歯を食いしばる彼女の目前で、妖獣がその口を開いた。唇のないあぎとに直接並ぶ、細い針のような牙。間近で目にするそれに、ぞくりと背筋があわ立つ。

 とっさに片足を上げ、鱗に覆われた腹を蹴っていた。妖獣はわずかによろめいたにすぎなかったが、比較して体重の軽い彼女は、その反動で大きく後ろへ跳びずさる。

「無事か!?」

 這いずるようにして場からのがれようとしていた兵士を振り向き、問いかける。

 がくがくとうなずく男へと、ようやく駆けつけてきた仲間達が手を差し伸べた。

「相手は手負いだ。残った腕に注意して弱るのを待て! 攻撃する時は関節の内側を狙うんだ。少しは鱗が薄い」

 指示しながら、彼女は手を挙げて顔を拭った。髪も服も、妖獣の体液でずっぷりと染まっている。鼻をつく臭気に舌打ちするが、洗いに行く余裕などとてもなかった。ぬめる手のひらを、苛立たしげに太腿へとこすりつける。

「……ッ」

 死んだ男のそばで、うなだれる兵士がいた。

 歯を食いしばり、まだ温かい身体へと触れる。だがその手に応じて返される声は、もう二度と存在していないのだ。嗚咽するその兵士もまた、肩のあたりに手傷を負っている。彼だけではない、既に半数以上のものがどこかしら負傷していた。死亡者もこれが最初ではない。

 セフィアールは、まだか。

 その場にいる誰もが焦りを感じていた。

 既に陽は天高く昇り、長い夏の昼の半ばを迎えようとしている。急を知らせる早馬は、夜のうちに公爵家へとたどり着いているはずだった。それから丸半日。武装した兵が差し向けられるには、それなりの時間が必要だと判ってはいる。判ってはいるが ――

「レジィ様!」

 血相を変えた兵の一人が、息を切らせて駆け寄ってきた。

「か、階段が……」

 そこまで言って、激しく咳き込む。

「どうした、落ち着け」

 近くにいた一人が、近づいて背をさすってやる。だが相手はその手を振り払った。それどころではないのだと、必死の形相で訴える。

「落とし戸、が……破られました。あ、あいつら、次々と……ッ」

 波打ち際から町へと上る階段は、すべて鋼を仕込んだ落とし戸で封鎖されていた。素早くおこなったその処置のおかげで、彼らはどうにか群がる妖獣達を相手できていたのだ。堤防を這い登ってくる数が制限されていたからこそ、なんとか持ちこたえていられたというのに。

 その、落とし戸が。

 兵士達の表情が絶望に染まる。

 既に限界が近い今の状態で、これ以上の妖獣を相手にするなど、とてもではないが……

 レジィはぎりっと奥歯を噛みしめた。ぶらさげていた長剣を高く掲げ、鋭く振り下ろす。

 風切り音とともに、刃を汚していた肉片が飛び散った。石畳にびちゃりと染みを残し、刀身が輝きを取り戻す。既に粘液と脂で大きく切れ味を鈍らせた刃は、それでもなお、きらめきを失ってはいなかった。

土嚢どのうはあるか」

「は……?」

「土嚢だ。時化しけに備えて、それぐらい用意しているだろう」

「え、あ、はい」

「すぐに出せ。落とし戸の前に積み重ねるんだ」

「し、しかし妖獣が」

「私が行く。いま妖獣を相手取っている者以外は全員集まれ。一刻でも早く再封鎖するんだ」

「そんな、無茶で……っ」

「わめいてる暇があるなら動け!」

 兵士はびくりと言葉を呑んだ。

「行くぞ」

 短く言って、レジィは体を返した。

 走り出すその後ろ姿を、兵達はしばし呆然と見送る。

 だが、やがて……ばらばらと幾人かが、やがて動くことのできる全ての者が、彼女の後を追って走り始める ――



 ◆  ◇  ◆



 ―― ええ、最初の話でさ。最初のね。

 今ですかい?

 そりゃあ言いっこなしでさ。

 確かにね、一対一で手合わせすりゃあ、あっしの方がまだ強いでしょうよ。いくら剣の達人だとは言っても、しょせん男と女じゃあ体力が違いやすからね。それにあのお人はまっすぐですから、ちょっとこっちが小狡い手のひとつも使えば、それで終わりだ。

 けどね、旦那。

 そういうところは、逆にあっしが目ェ光らせときゃそれですむんです。

 だけどあっしには、あの人の真似ぁできませんや。

 だって旦那、はじめて顔を合わせた兵士どもを使ってですよ、あんなふうに指揮とれる隊長がそうそうおりますかい?

 旦那達ぁセフィアールでいらっしゃるから、妖獣どもの相手なんざ慣れたもんでしょうよ。けどあっしらは違う。そりゃ人間が相手ならそうそう怖じ気づきもしやしませんがね、あんな化け物どもを目の当たりにしちゃあ、逃げ出したって誰も責めやしませんでしょうよ。

 なのにここの兵士達は、一人として逃げやしなかった。

 怪我した奴まで身体ぁ引きずって、救援が来るまで戦い抜いたんです。

 ……あっしが指揮を執ってちゃあ、とてもあんなふうにはいかなかったはずでさ。

 だから、それがあっしの答えなんですわ。



 それにねえ、旦那。

 あっしは思うんですが……男になろうなろうって努力し続けてるあの人の方が、そんじょそこらにいる当たり前の男どもよりも、よっぽどずっと、男らしくなってるんじゃねえですかねえ。

 それが良いことなのか悪いことなのか、そんなことまでは判りませんがね……



 おっと、船の準備ができたようですな。

 そんじゃあっしは、レジィ様といっしょに王都に向かいやすが、そのあいだ公女さまのこと、どうかよろしくお願いしやす。

 へ?

 気が向いたらですかい?

 こりゃまた旦那も素直じゃ……っと、いやなんでもねえです。

 そいじゃ失礼して、あっしはこれで ――

第十話 予兆 の終盤あたり。

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