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楽園の守護者  作者: 神崎真
第一部
4/82

第三話 絆の行方

 王宮の大図書室の中は、黴じみた埃臭い空気に満ちていた。

 堅牢な石造りの部屋は、貴重な書物を守るため、明かり取りの窓ひとつ作られてはいない。

 どういう仕組みか、湿気がこもらぬよう、換気だけは為されているようだったが、それでも居心地の良い場所ではなかった。

 やはり求める人物は見あたらないようだ。念のため開けてみた両扉をそっと戻し、エドウィネルは暗い廊下を先へと向かった。

 ぴんと背筋を伸ばし、姿勢良く足を運ぶその姿は、いかにも武人然としている。動作の端々に、しっかりとした師について、正式な訓練を受けた武術の心得が垣間見えた。長身と評して差し支えない背丈に、過不足無く配された筋肉。生来は白色系の肌を持つ人種だったが、野外で鍛錬を繰り返すうちに、健康的な小麦色に焼けている。金茶の髪は邪魔にならぬよう、短くまとめられ、上にあげた前髪が数本だけ、額に落ちかかっていた。まっすぐに前を見つめる瞳は翠緑。萌える若葉の色。その持つ強固な意思と責任感とを、見る者にうかがわせる目だ。

 エドウィネル=ゲダリウス。24才。

 破邪国家セイヴァンにおいて、セフィアール騎士団を率い、妖獣を狩ることを義務付けられた王太子。その証たる銀の腕環をかせられた、第一王位継承者(アル・デ=セイヴァン)である。



 二度ほど角を曲がると、壁にずらりと扉の並ぶ一角が現れた。扉の間隔からして、部屋はごく狭いものだ。防音効果の高い分厚い扉を、ひとつひとつ確認していく。

 一箇所だけ、使用中の札が出ていた。ここだ。

 扉を軽く叩いてから開ける。室内をぐるりと見まわしたが、中央に置かれた卓には誰もいなかった。

「……お前達、一体どこで読んでるんだ」

 やはり分厚い壁に穿たれた窓。開かれた鎧戸から、没しようとする太陽の放つ、最後の光が射し込んできている。その蜂蜜色の斜光に切り取られた床の上で、二人の青年が頭をつき合わせるようにして書物を開いていた。あたりには開いたままの書物が数冊と、乱雑に走り書きされた紙が散らばっている。

 夕暮れと共に暗くなってゆく室内で、刻々と位置を変える陽だまりを頼りに、彼らは文字を追っているのだ。

 呆れを含んだエドウィネルの問いかけに、二人は顔を上げてそちらを見た。アーティルトは表情を和らげて会釈をし、ロッドの方は軽く鼻を鳴らしただけで視線を戻す。

「窓を開けていると冷えるだろう。そら、明かりを持ってきた」

 手に提げていた角灯を持ち上げてみせる。まだ火は入れていない。図書室内では管理人以外、一切の火気携帯を禁じられているからだ。管理人同伴で書物を選び、書架から離れたこの閲覧室まで来てから、初めて明かりを使うことが許される。

「気が利くじゃねぇか」

 ようやくロッドがまともに返事をした。がさがさとあたりの物をかき集め始める。

 二人が床にある物を卓へと運ぶ間に、発条ばね仕掛けの着火具で明かりを灯した。鎧戸を閉めると、室内が暖かな色の光で浮かび上がる。

 閲覧室には椅子が二つしかない。もともと個人で使うための部屋だから、予備があるだけましだろう。だが悩む必要などなく、ロッドが当たり前のような顔で卓に腰を乗せた。行儀悪く足など組み、半身をひねるようにして卓上を見下ろす。

「ここを見な」

 何の前触れもなく、開いた書物の一点を指さした。

「……破邪の記録だな。百年ほど前のものか」

 いきなりの指示に、それでもエドウィネルは素直に文字を追った。しばらく室内には沈黙が落ちる。とりあえず示された位置から頁の最後までを読んだところで顔を上げた。

「で ―― ?」

 問いかけると、今度はアーティルトが一葉の紙を差し出してきた。彼の几帳面な字でびっしりと埋まっている。受け取って目を落とした。

「ふむ」

 渡されたのは、ある種の妖獣の出没についてまとめたものだった。ちょうどいま読まされた記録の時期から昨年までの、出没回数、時期、被害と破邪の規模などが書かれている。

「明らかに増えてきているな」

 つぶやく。回数ももちろんだが、一度に現れる数がじょじょに増加してきている。百年前と比べると共に倍だ。個体数に換算すればそれどころではすまない。

『個体それぞれ、は、弱い。でも、集まる、やっかい』

 アーティルトが指文字で告げた。そしてさらにもう一枚の紙を取り出す。

『多分、畑、焼く、原因』

 手書きの地図に、妖獣の出没位置と焼畑の行われた地域とが記されている。

  ―― 焼畑とは、雨の少ない時期に森林や原野を焼き払い、その灰を肥料として作物の栽培を行う耕法だ。数年して地力が落ちてくると、また場所を移動して行われる。そして移動を続けるうちに最初の土地が自然を回復すれば、そこへ戻り、再び同じことを繰り返す。数年、数十年という長い周期サイクルで営まれる農作方法だ。

 二種類の印の分布、それに妖獣の発生時期と焼畑の行われる季節を合わせて考えれば、因果関係は明らかだった。

「奴らの卵はいちど強い熱を与えられないと孵化しねぇからな。これまでは日照りの夏に発生してやがったのが、焼畑のせいでどかどか孵ってるんだろうよ」

 この妖獣の卵は、孵化の条件が整うまで、何年でも土中で眠り続ける。年ごとに移動を続ける焼畑を行う場所が、卵の眠る地域へと重なりはじめたのか。

「まずいな。そろそろ時期だぞ」

 有効な農作物の生産方法である以上、農民達にそれをやめさせることは出来ない。だがみすみす妖獣を発生させる要因を見過ごす訳にもまたゆかなかった。

 エドウィネルはしばし真剣に考え込んだ。が、性急にこの場で、しかも己の一存で対処して良いような問題ではなかった。

「陛下と騎士団長に相談しよう。資料をまとめてくれ」

「へいへい」

「…………」

 二人はそれぞれにうなずくと、手早く卓上の書類をあさり始めた。無言でアーティルトがつきだした紙束を、ロッドは礼も言わず受け取り、代わりに栞を挟んだ書物の山を押しつける。互いに言葉どころか視線を交わしさえもしない。だが、既にきちんと役割分担ができているらしく、滞りなく進む作業は、おのおの相手のやっていることをきっちりと把握した、無駄のないものだった。

 そんな二人を見守りながら、エドウィネルは内心でひそかにため息をついていた。感嘆とも安堵とも呆れともとれる、複雑な感情の入り混じったため息だ。

 よくぞここまで ――

 しみじみとそんなふうに思う。

 彼らは、セフィアール騎士団の中でももっとも癖の強い二人だった。特に、対人関係の構築ということに関して、共に大きな問題点を抱えこんでいる人物だ。

 その二人が、よもやここまで息が合うようになるとは。

 エドウィネル自身、そうなって欲しいと望んでいたことは事実だったが、同時に無理だろうと諦めてもいた期待だったのだ。

 ……実際、彼らの初顔合わせは、最悪に近いものだった。



 ロッド=ラグレー。当時20才。

 日に灼けた焦茶の髪を短く刈り込み、真夏の深い海の色の瞳を持つ、褐色の肌の青年。エドウィネルを上まわる長身だがひどく痩せた肉体は、しかし鍛え抜いた筋肉で構成されている。

 常に皮肉な笑みと毒舌をもって他人に対するこの男は、その出自の低さもあって、騎士団内での鼻つまみ者であった。もっとも当人はそれを気にする様子などまるでなく、やりたいことをやりたい時にやりたいようにやる、という姿勢を貫いている。何故このような男が騎士団に籍を置けているのかと、疑問の声も多かったが、公にはできぬ特別な事情と、そして実際にはひどく真摯な、守るべきものを心得たその努めぶりとで、王太子たるエドウィネルと国王、両者の深い信頼を得ていた。



 アーティルト=ナギ=セルヴィム。同じく20才。

 象牙色の肌に、黒に近いが陽に透けると判る、濃い茶の瞳。目と同じ色の髪は少し伸び、首の後ろで結ばれている。顔立ちは明らかに異国の出と判るそれだったが、額から頬にかけてを妖獣によって抉られており、常に右半面を黒革の眼帯で覆っていた。他にも数多い傷跡は声帯をも傷つけ、彼が肉声を発することはない。温厚で節度ある物腰と、常に努力を怠らないその姿勢から、騎士団内での彼に対する評価は高かった。同じ平民階級からの特例入団者とはいえ、ロッドとは正反対の立場にある。

  ―― しかし、彼自身は他の団員達との間に距離を感じていることに、エドウィネルは気が付いていた。そしてそれは無理のないことでもある。己を深く語ることのできぬ彼が、集団の中に溶け込みきれないのは当然だ。みなと同じ場にあり、同じものを見、聞き、感じたとしても、それを表現する手段が筆談とあっては、どうしても最低限の限られた言葉のみを伝えるしかできない。

 勢い聞き手にまわるしかないアーティルトは、団員達の良き話し相手でありながら、同時に自らの理解者は持たぬという、矛盾した状態にあった。



 あの時。

 初対面のその瞬間から、揶揄を含んだ口汚い罵りを浴びせたロッドに、言い返すすべを持たないアーティルトは、ただ困惑したような笑みを浮かべるだけであった。

 その様を見ていたエドウィネルは、むしろこの二人は引き離しておくべきだと感じたものだ。ロッドの暴言は、けして相手を傷つけることを目的とするとは限らない。エドウィネルはそれを知っていたが、同時に言い返すことのできない人間にとって、彼の物言いが単なる暴力でしかないことも、また事実だった。

 互いに貴族階級の者達とは馴染めぬ部分を持っている。そういったところから、多少なりとも親しくなれるかも知れないと思っていたのだが。そんなふうに失望もさせられた。

 しかし、エドウィネルが実際に何らかの手を打つよりも早く、彼らの関係は改善されていた。

 いったいどんなやり取りがそこにあったのか。彼はそれを知らない。知っているのはただ、結果だけだった。いま、目の前にある。

 そう。あれからもう、二年もたつのだ……



*  *  *



 当時、既に彼らは数年間を騎士団員として過ごしてきていた。ロッドの入団は十七才、アーティルトは十八。ほぼ同い年の彼らの入団は、一年ほどの時差がある。本来ならば同じ平民階級出身として、入団したてのアーティルトの面倒はロッドが見ることになったはずだった。しかし……この男は他人を世話できるような人間ではなかった。

 右も左も判らぬであろう入団当時から、彼の振る舞いは現在とほとんど変わりがなかった。いや、むしろわずかながらも理解者を得た今の方が、まだしもましと言えるかも知れない。

 王宮内でのしきたりや決まり事などどこ吹く風。礼儀知らずで場をわきまえず、口を開けば、不遜な罵りか嘲りの暴言を撒き散らす。教養がないならつけさせようと、設定された講義は聴かない、寝る、すっぽかす。

 あまりにも目に余る態度に、短期間で問題が頻発した。あげく決闘騒ぎまで引き起こし、何ら反省する様子もない彼に、ついに国王もかばいきれなくなった。

 このままロッドを王宮に置いていては、騎士団内の不和の種となる。王としての管理能力も問われることになってしまう。

 騎士団の仕事には、開発中の土地に駐在し、移民達を護衛するという任務もあった。人の手の入らぬ森林や水場などは、どこから妖獣が現れるか判らぬ未知の領域である。王都を離れ、長期間にわたって充分な文化設備のない土地に滞在する任務は、術力の回復すらままならぬこともあって、団内では敬遠されがちだった。数月の割で人員交代こそあったが、それでも行きたがる者は少ない。

 とりあえず冷却期間をおこうと、ロッドは山間の村へ送られた。新たに発見された鉱山を効率よく活用するため、採掘と精製を行う施設及び、技術者の居住区を建設中だったのだ。明かりのほとんどない地中の坑道や、重金属を含む湧水などは、妖獣を引き寄せる格好の材料で。その地での団員の努めは、かなり厳しいものだった。術力を使い果たす者が続出し、交代の周期はかなり早くなっていた。

 しかし、そこでの生活はロッドにむいていたらしい。

 三名いる駐在員の残り二人が次々と入れ替わるなか、彼は回復に戻ることすらほとんどせず、二年あまりをその地で過ごした。もしも施設の建設が終わらなければ、ずっと留まり続けていたかも知れない。土地の開拓や鉱石の採掘という、社会的底辺の労働に従事する人夫、職人達。いわゆる荒くれどもを多く含む人種とは、相性も良かったようだ。

 ともあれ、そう言った訳で久しぶりに王都へと戻ってきたロッドは、そこで初めて、同じ平民階級からの特例入団者、アーティルトに出会ったのだ。

 いっぽう、言葉を話せぬと言うハンデから、文盲も多い下層階級の人間と生活する駐在の仕事を免除されたアーティルトだったが、ロッドの存在については噂で聞きかじった程度であった。周囲の団員があまり多くを語りたがらぬ ―― 彼らはロッドについて口にするのすら嫌だったらしい ―― こともあり、多少荒っぽい人間であるらしい、と言う程度の認識しか持ってはいなかった。

「ンだ、手前ぇ出来損ないかよ!」

 アーティルトが声を出せぬと知った時の、ロッドの第一声がそれだった。

「信じらんねぇ! 書くもんが無かったらどうする気だよ、ぁあ?」

 語尾を不自然に上げる、すべてを否定するような言い方だった。まるで下町のチンピラか何かが因縁をつける時の物言いだ。

「…………」

 アーティルトはうっすらと笑って目を伏せた。直接言い返すことのできない彼には、ことを荒立てぬよう、笑って受け流すしかできなかったからだ。その仕草にロッドの目が細くなった。嘲りの色を浮かべていた口元が、すっと表情を消す。

「貴様、その言い方はなんだ!」

「身体的欠陥をあげつらうなど、無礼にもほどがあるぞ」

「アートに謝罪しろッ」

 激高したのは周囲にいた騎士団員達だった。大切な仲間を侮辱された彼らは、アーティルトに代わって棘のある言葉を投げ返す。口々に浴びせられる非難に、ロッドは再び蔑むような笑みを取り戻した。

「あげつらう? 馬鹿か。俺は事実を言っただけだぜ」

 顎を突き出し、見下すように一同をねめつける。

「どんだけそいつが優秀だろうが、状況判断ができようが、いざって時にしゃべれねぇようじゃ役に立たねぇだろうが」

 戦闘時にいちいち筆記具を取り出し、書いて見せてしていた日には、あっという間に手遅れだ。

 つい今しがた、同じ平民出身でも知性といい教養といい、お前とは大違いだと評された、そのお返しとばかりに酷評しまくる。

「まぁ、そう言うな」

 見かねたエドウィネルが割って入った。

「彼は指文字も使える。これはなかなか便利だぞ」

 言いながら、胸の前で手を動かしてみせる。指文字とは耳や言葉の不自由な者が使う、手指の動きで表現される言語だ。表音二十四文字に加え、動作や形態、観念を模写した単語が数多く存在する。日常会話は無論のこと、かなり専門的なやり取りも可能だ。

「ああ、そういやあんたの妹も『つんぼ』だったな」

 エドウィネルの腹違いの妹、ユーフェミアは、生まれながらに聴力を失った聾唖者である。それはかなり有名な話だったし、隠す気も恥じるつもりもないエドウィネルだったが、ロッドの遠慮ない言い方には、さすがに苦笑した。周囲の者はそれどころではすまない。

「き、きさ、貴様、よりにもよって公女に対し……ッ」

 真っ赤になって声を詰まらせる一同を、ロッドはきれいに無視してのけた。

「言語なんてのは通じてこそだろ。あんたとそいつしか理解できない指文字なんざ、おおっぴらに内緒話できるってだけの話じゃねぇの」

 馬鹿馬鹿しい。

 そう断じる。

 そのまま立ち去ろうとするロッドに、団員の一人が叩きつけるように怒鳴った。

「まともに話しもしない、貴様などよりはるかにましだ!」

 蔑みに満ちた罵りに、ロッドは一度足を止めて振り返った。

「手前ぇらと話さなきゃなんねぇことなんざあるかよ、ボケ」

 お互いに接点など何もないと、鼻を鳴らして言い切る。コミュニケーションなどとりたくもなければ、必要もない。あっさりと切り捨ててゆくその背中は、孤独だとか寂しさといったものとは無縁な、揺るぎなく力強いそれであった。



  ―― それに気が付いた時、アーティルトはきびすを返して走り出していた。

 仲間達はみな、屋敷内に入り込もうとする妖獣を、庭でくい止めるのにかかりきりになっている。

 よりにもよって王都内の貴族の館に突如現れた妖獣は、遊覧用の船を浮かべる人工の池のため、湖から引き込んだ水路を伝ってやって来たようだった。足の長いサンショウウオを思わせる巨大なそいつは、太い尾を支えに直立するという技を見せた。やはり長大な首と意外に器用な動きをする前足、建物の二階に達する巨体と重量を武器にして、騎士達を近くに寄せつけようとしない。軽いひと払いで二三人が苦もなく吹っ飛ばされた。柔らかそうな腹はすぐそこに見えているのに、彼らは間合い内に入ることも、周囲を取り囲んで魔法陣内に封ずることもできず、手をこまねいている。

 アーティルトもまた、仲間達と共に細剣を構え、隙をうかがっていた。頭の中ではこの手の妖獣の習性、弱点などを思い出そうと、かつて目にした様々な書物を思い出している。そして、気が付いた。この妖獣は牝だと。そして今の季節は子育ての最中であり、常に一頭から二頭の子供を伴って行動しているはずだということに。

 ぎょっとして池の中を覗き込んだ。美しく澄んだ新鮮な水は、妖獣との攻防で激しく波立ってはいたが、充分底まで見通すことができる。もとよりさほど深く作られている訳でもない。水中にさらなる妖獣の姿は見つけられなかった。

 視線を上げて水路の流れを確認する。水の流れは、河から引き込んですぐ、二手に分かれていた。一方の太い水路は、この池に水を供給するものだ。そしてもう一方は屋敷内へと向かっている。上下水道の生活用水として使用されているのだろう。

 もしや。

 思った時、かすかな声が耳に届いた。蹴散らされる騎士達が上げたそれとは異なる。激しい水音や気勢にかき消されがちではあるが、確かに屋敷の方から、悲鳴と物の壊れる音とが聞こえてくる。

 誰かに知らせる余裕はなかった。誰もが妖獣を相手取るのに必死で、書いたものを読ませるどころか、注意を引くことすらできそうにない。

 一瞬どうするか迷った。一瞬だけだった。

 アーティルトは仲間達に背を向けると、屋敷内へと駆けだしていった。この場は仲間達に任せておけばいい。自分ひとりがいなくなったところで、戦力的にたいした差は生まれない。だが屋敷内で無力な人々が襲われているのなら、たとえひとりであっても、逃げる時間ぐらいは稼いでやれるはずだった。

 物音を頼りにたどり着いた先は、大広間だった。しばしばパーティーが催される豪華な造りのそこは、当然ながら厨房と隣接している。大量の水を必要とする厨房に、水路が繋がっているのもまた当たり前だ。

 妖獣の這った湿った痕が、厨房へと続く扉から、長く絨毯を汚している。

「なにしてやがる! さっさと逃げねぇかッ」

 最初に出迎えたのは怒鳴り声だった。聞き覚えのある、だがここで耳にするとは思わなかった声だ。意外なそれに、扉をくぐったところで足が止まる。

「腰なんざ抜かしてる場合か。このクソボケ!」

 いつもと変わらぬ罵詈雑言が、しかし今は余裕のない声音で発せられている。

 妖獣は幸い一匹だった。大きさも外にいるものの半分程度だ。それでも大人の男の倍近くはある。やはり直立して襲いかかってくるそいつに、ただひとりロッド=ラグレーが相対している。

 こんな重量級が相手では、下手に細剣などつき出したところで、折られるか弾き飛ばされるのが落ちである。ロッドが構えているのは太く武骨な両手剣だ。繊細で華奢な細剣を嫌い、彼は常にその実戦的な大剣を携帯している。他の騎士達には野蛮だの洗練されていないだのと揶揄されている段平だったが、この場では確かに役立っていた。ロッドの頭など容易くくわえ込んでしまえるであろう、大きな口を開いた妖獣の頭が、長い首を生かし不規則な方向から襲ってくる。ロッドは剣を振るってそれらを威嚇し、はじき返していた。

 もっとも、その動きは制約された不自由なものだった。

「いい加減にしやがれ!」

 盛大な舌打ちと共に、足元の人物を蹴りつける。

 彼の足にはひとりの男がしがみついていた。たいそうな口髭など生やした、壮年の男である。着ているものからしても相当に身分のある ―― もしかしたらこの館の主かも知れない。出る所に出ればそれなりの威厳を持って、尊大な振る舞いをするのだろうその男は、今はただ情けない悲鳴をあげ、ロッドにすがりつくだけであった。

 別に、襲い来た妖獣に怯え、庇護を求めるのは構わなかった。セフィアール騎士団は妖獣から民を守るためにこそ存在するのだから。しかし闇雲にまとわりつき、動きを拘束されるのはいただけなかった。それも年端のゆかぬ子供だの、身を守るすべを持たぬ非力な女性だのと言うのならともかく、腰に剣も携えた、一人前の成人貴族男子。せめて己の足で安全地帯に逃げるくらいはしてもらいたい。

 ロッドの蹴りはまったくもって容赦がなかったが、男の方も必死だった。ここで離せば命がないと言わんばかりに、ますます力を込めてくる。このままでは共倒れだ。

 そんな状況を見て取ったアーティルトは、はっと細剣を構え直した。ロッドの援護をするべく、一直線に妖獣へと向かう。ロッドが驚いたように視線を向けてきた。

「ば……ッ」

 呪文も唱えず突っ込んでゆくアーティルトに、制止の声を上げる。こんなでかぶつを相手に細剣一本では、いくら何でも無謀が過ぎる。

 しかし、アーティルトは闇雲に突進した訳ではなかった。

 呪文を唱えること自体は、術の完成において絶対ではない。必要なのは、術力をあるべき形にあるべき強さで形作ること。その為に思考を方向付けること。呪文はただ、手段のひとつであるだけだ。人は、日常において言語を用いて思考し、さらにそれを口に出すことで自らに確認する。それが考えというものを生み出し、まとめる、一番簡単で手慣れた手順だからだ。

 だが、アーティルトは言葉を話さない。口に出して、喋らない。だから時として、その思考すら音声語の形を取りはしない。

 そう、彼の思考は音声としての、言語としての枠に ―― 速度にとらわれない。

 距離を詰めるわずか数秒の間で、ひとつの術が完成していた。抜いた細剣の切っ先に、小ぶりな光の魔法陣が浮かび上がる。

 狙いは下半身。腰の下。

 脳容量の小さな妖獣が、巨体を動かすために持つ、もうひとつの脳とも言える神経の塊。その真上。

 肉の焼ける音と共に、嫌な臭いが立ちのぼる。鈍い妖獣は数秒おいてから反応した。獲物に食らいつこうと曲げていた首を、大きく反らして咆哮する。

 その隙を、ロッドはのがさなかった。足元で喚いている男の襟首を掴み、力任せに引きずって場を離れる。充分に間合いを稼いだところで、乱暴に突き放した。

「邪魔だ。失せろ!」

 言い捨てた。これ以上こんな奴にかかずらう必要はないと、もはや視線を向けることすらもしない。

 重い段平を構えなおし、攻撃の機会を探る。苦痛に振りまわされた妖獣の尾が、逃げ損ねたアーティルトの身体を打ちすえた。自らの胴ほどもある肉の塊に襲われて、彼はたまらず近くの壁へと叩きつけられる。かなり大きな音がした。

 だが、彼はすぐに立ち上がった。どうやらしっかりと受け身をとったらしい。尾を受け止めて痺れたのだろう、腕を何度か振っている。

「しぶてぇ奴だな。これだから両生類系は厄介なんだ」

 びたん、ばたんと不規則にのたうつ尾を避けながら、ロッドがそう毒づいた。アーティルトの放った術は、かなり強いものだ。いかに生命力の強い妖獣でも、神経節にあれを食らっては、普通まともに動けなくなる。だが神経の鈍いこの種の妖獣は、致命傷を食らってもなお、肉体が動かせる限りは暴れ続けた。複数ある神経節のひとつが傷つけられた程度では、まだ充分に活動可能だ。むしろ神経が分断されたことで下半身の秩序が失われた分、尾の攻撃が予測のつかないものになっていた。なかば痙攣するような、でたらめな動きで襲ってくる。

「クソッ、これじゃ近付けねぇ」

 間合いを詰めようとしては追い払われる。数度それを繰り返してロッドは切れた。

「やってられるか!」

 叫ぶなり、何を思ったか、持っていた段平を鞘に収めた。そうして左腕にはめた籠手に手をやる。手首の方から中に指を突っ込み、細い縄を引っぱり出した。

 砂漠に生える特殊な植物の繊維に人の髪の毛を編み込んだ、特注の細縄だ。細くしなやかだが、これ一本で大人数人の体重を軽く支えられる。先端についた錘を二三度まわし、目の前をよぎった尾に投げつけた。

 縄は見事にからみついた。力比べなどと無駄なことはせず、どんどん繰り出してゆく。妖獣は縄の存在になど気付いた様子もない。尾の動きに従い、縄は妖獣の周囲でもつれ、次第に複雑にからみあってゆく。

 長い四肢に、開いた口元にまとわりつくようになって、ようやく妖獣は何かがおかしいと思ったようだった。うっとおしい物を外そうと手足を動かす。それがまたいっそうもつれを激しくし、その動きを妨害していった。ロッドの狙い通りだ。

 もっとも、両手を広げた長さで、平均的な庶民の月収が飛んでゆく縄だ。長さには限りがある。自分からも妖獣の周囲を巡り、からめ取っていたロッドは、縄が尽きたところで籠手から引き抜こうとした。

 と、横から手が伸びてそれを押さえ込んだ。気配を感じなかったロッドは、ぎくりとして相手を見た。

「…………」

 その視線を受け止めて、アーティルトがかぶりを振った。

「ぁあ?」

 いぶかしんだ。縄に余裕がなくなった以上、早く外さなければ妖獣に引きずられてしまう。邪魔をするなとにらみつけるロッドに、アーティルトは再度首を振ってみせた。籠手を押さえる腕に力を込め、もう一方で上を指さす。

 ロッドは指の先を追った。だがそこには何もない。吹き抜けになった大広間をぐるり取りかこむ形で、手すりつきの回廊が設けられているばかりだ。

「何だってんだ」

 焦れるロッドに、アーティルトはしきりに何かを伝えようとした。胸の前で指が動きかけ、すぐに力を失う。困ったように眉を寄せ、何度も回廊と縄を指し示す。

「だから何を……」

 言いさしたところで、腕がひっぱられた。もの凄い力に、完全に身体が持っていかれる。とっさにアーティルトがしがみついてきた。二人でもつれ合って床に転がる。容赦なく振りまわされるのは免れたが、引きずられる動きは止まらなかった。二人分の体重が、ロッドの腕一本にかかってくる。

「外すぞっ」

 宣言し伸ばした右手を、アーティルトが上から叩いた。手荒な制止にかっとなる。アーティルトを見る深青の瞳が、射殺しそうな光を放った。しかし彼は臆さず見返してくる。待て、というようにいちど顎をひいた。そうして手を離し立ち上がる。そのままあらぬ方向へと走り出した。

 彼が目指したのは、回廊へと昇る階段だった。毛足の長い絨毯が敷かれたそこを、数段とばしで駆け上がっていく。回廊を巡り、すぐに暴れる妖獣の真上までたどり着いた。そこでロッドへと大きく手を振る。

 ひとり残されたロッドは、ずるずると引き寄せられるのを、必死に踏ん張ってこらえていた。いったい何をするつもりなのかと、目だけでアーティルトの動きを追う。そして彼が促すようにこちらを見た時、ようやくその意図するところを理解した。驚きに両目を見開く。

 そういうことか。

 引く力に逆らうのをやめた。むしろ力を合わせて立ち上がり、妖獣の方へと走った。左腕から籠手を外し、大きく振りかぶる。

「受け取れ!」

 思いきり投げた。

 弧を描いた籠手は、狙いたがわず階上のアーティルトの手中に収まる。

 彼は、それを持って手すりを乗り越えた。二階の高さがある回廊から、ためらうことなく飛び降りる。

 ぎゅりりっという音がした。手すりに通された細縄が、端を持ったアーティルトの動きで激しくこすれる。美しい彫刻の施された木製の手すりが、煙を上げて軋んだ。

 落下は床に着く前に止まった。アーティルトの身体が、あとわずかを残して宙にぶら下がる。縄の反対にいるのは、数倍の体重を持つ妖獣だ。予想外の方向から引っぱられ、体勢を崩してこそいるが、はじめの勢いが失せてしまえば、人間ひとりの重量ぐらい、こいつには楽々と支えられる。

 が、そこにロッドが加わった。

 駆け寄ってきた勢いのままに床を蹴り、アーティルトの身体に抱きつくようにして縄を掴む。瞬間的に倍加した荷重に、妖獣は足下をすくわれた。


 ズン


 建物それ自体を揺るがせて、妖獣が倒れ込んだ。複雑にもつれあった細縄が、その身体に幾重にも食い込んでいる。じたばたともがくが、そう簡単には起きあがれない。

「手前ぇのが早い! 行けッ」

 ロッドが叫んだ。

 応じてアーティルトが手を離し着地する。細剣を抜き走った。

 振り上げた切っ先に、みるみる光の粒子が集まってゆく。


 身を起こしかけた妖獣の首は、細剣の一撃をもって見事に刎ね飛ばされた ――



 その破邪から数日の後。

 アーティルトはひとり木陰に座って空を見上げていた。

 一時は仲間を置いて敵前逃亡を図ったかと誤解されかけた彼だったが、首を失った妖獣の死骸は、何よりも雄弁にその活躍をもの語っていた。誰もそれ以上の説明を求めようとはせず、彼の働きを快くねぎらってくれた。

 しかし ――

 ほぅと力無いため息をつく。

 複雑にからんだ縄をほどき、丁寧に巻き直して回収したロッドは、けっきょく最後までその場で腰を抜かしていた男を引きずり、屋敷のどこかへと消えていった。避難していた他の人間達の元へ、無事妖獣を倒したと知らせがてら、連れて行ってやったのだろう。手段は荒っぽいが、民を守る騎士団員としては当然の努めだった。

 しかし戻ってきた彼に向けられたのは、騎士達からの激しい侮蔑 ――

 ろくに妖獣の相手もせず、隠れてさぼっていた卑怯者。偉そうなことをほざきながら、実際には臆病にも逃げ隠れしてばかりではないか、と。

 ここぞとばかりにぶつけられる、悪意に満ちた言葉の嵐。ロッドはあえて反論もせず、ただ薄笑いを浮かべて立っているだけだった。

 そして、ひどく興奮する一同は、携帯用の小さな石板ごときで、なだめられようはずもなく……そばにいるアーティルトもまた、誤解を解くすべを持たぬまま、ただ黙って聞いているしかできなかったのだ。

  ―― 情けない。

 心底そう思った。

 あの妖獣を倒せたのは、ロッドの協力があってこそだった。自分ひとりでは、果たしてどこまで相手ができたことか。なのに手柄を全て自分のものにして、彼の弁護ひとつしてやれないとは。時間がたち、みなの頭が冷えてから説明を加えても、誰もが奴などかばう必要はないと言って、それ以上、石板の文字を追おうとはしてくれない。

 通じてこその言語。ロッドがそう評したのを思い出した。まさにそうだった。どれだけ必死に文章を書こうと、読んでもらえなければ意味がない。目の前で指文字を綴っても、その意味するところを知らない者が相手では、単に手が動いているというだけだ。

 誰も、自分が思い、訴えることをきちんと受け止めてはくれない ――

「おい」

 突然、そう声がかかった。

 己の考えに沈み込んでいたアーティルトは、びくりと身体を震わせた。他人が近付いてきていることに、まったく気が付いていなかった。慌てて顔を上げ、相手を確認する。

「暇そうだな」

 偉そうに言い切ったのは、折りしも考えていた相手、ロッドその人だった。

「ちょっと付き合え」

 そう言って、アーティルトの正面にあぐらをかく。小脇に抱えていた分厚い本を、膝の上で開いた。

「…………」

 何をするつもりなのだろう。

 アーティルトは不安な面持ちで言葉を待った。彼に対して持つ罪悪感から、自然と目が上目遣いになる。

 付き合えと言いながら、ロッドはしばらく無言で文字を追っていた。ページをめくる音がやけに大きく響く。居心地の悪さに数度身じろぎした。

「 ―― ここだ」

 突然、ロッドが手を止めた。膝の本を少し持ち上げ、文面を見るように促してくる。

「ここが判んねぇんだ。動くのか?」

 示したのは、単純な線で描かれた図版だった。人間の手首から先を図示している。手のひらを上に向けた右手の、親指と人差し指を立て他は握った図と、立てたその二本の指をくっつけた図とが並んでいる。

 指文字のうち、表音文字のひとつに対応するものだ。

 驚いてロッドを見る。彼は無言で顎を動かし、せっついた。訳が判らないまま、とりあえずその文字を実演してみせる。

「ふぅん」

 ロッドは真剣な眼差しで手元を見つめていた。図版と実際の動きとを幾度も見比べる。

「なるほどな。こう、か」

 つぶやきながら、自分でも手を動かした。こう、こう、とぎこちない手つきで文字を作る。アーティルトにとって見慣れたそれは、指文字の表音文字を最初から順に追ったものだった。驚きはますます大きくなる。

  ―― 彼は、指文字を学ぼうとしているのか。

 慌てて隠しを探った。石板と白墨を取り出し、文字を書き付けようとする。その手をロッドが押さえた。口元には、例の自信に満ちた笑みを浮かべている。目がやってみろと言っていた。

「…………」

 アーティルトはそっと石板を地面に置いた。ゆっくりとした仕草で両手を動かす。

「『ど・う・し・て』か?」

 一文字一文字、確認するように読み上げる。こくりとうなずいた。ロッドはあっさりと返答する。

「質問の意味が理解できねぇな」

 やはりこれだけでは無理かと、アーティルトは肩を落とした。言葉を足すべく、石板へと手を伸ばす。が、それよりも早くロッドは言葉をついだ。

「前にも言ったはずだぜ。書くもんが無かったらどうする気だってな」

 もしくは、読み書きする余裕がない事態の場合は。

 どうしようもない。

 実際に返答した訳でこそなかったが、それがアーティルトの考えた答えだった。どうしようもないから、どうもしない。そういった時には、自分は役立たずに徹するしかない、と。

 みなはずいぶん弁護してくれたが、それこそが紛れもない現実だった。だが……この男は……

『俺、と、話す、どうして? 理由、ある?』

 彼と騎士団員達との間に、言語に関する支障はなかった。だが言葉が通じてもなお、ロッドは彼らとまともな会話などしはしない。そんな必要はないと切り捨てて、ひとり平気な顔で己が道をゆく。孤立することを怖れず、悪評など聞き流し、薄ら笑いを浮かべて周囲を嘲る強さを持つ男。

 そんな彼が、どうして自分の言葉になど耳を傾けようとするのか。

「面倒だからに決まってんだろ。いちいち身振りから推し量るより、実際に説明させた方が断然早い」

 彼の返答はやはりずれていた。そうじゃなくて、と焦れる。

「手前ぇ、頭は良いんだろ。少なくとも、奴らよりゃ。……聞く耳も、それがねぇことにすらも気が付いてない、あの馬鹿共よりゃぁ、ずぅっとな」

 アーティルトの手が止まった。こちらを見るロッドの顔に、表情はない。いつものような嘲りも、皮肉な笑みも消え、まっすぐにアーティルトを見つめてくる。その、瞳の奥にある光に、アーティルトはぞくりと身を震わせた。

 冷たく、静かな、青い炎を思わせる眼光。

「奴らはな、手前ぇを憐れんでるだけだ。口先だけで気の毒だ、立派だとほざきくさって、要は優越感に浸ってるだけだ」

 断定する。

 本当にアーティルトを仲間だと思い、その知識、教養を認め役立てようと言うのなら、彼らはきちんとそれを受け取るべきなのだ。筆談などと不自由な手段ではなく、もっと確実で便利な会話方法を身につけて、きちんとアーティルトの『言葉』に『耳を傾ける』べきなのだ。だが、彼らは決してそうしようとはしない。言いたいことは判っていると、それ以上言うなとしたり顔でうなずいて、彼が本当に言わんとする言葉を聞き流す。

『書くもんが無かったらどうする気だ』

 ロッドの言葉。

 それはけしてアーティルトに向けられたものではなかった。彼が蔑み、あざ笑っていたのは、他でもないまわりを固める騎士達の方。努力しても変えようのない、ハンデをあげつらってなどいない。自分達は何の努力すらせぬままに、上っ面だけの同情と、薄っぺらい正義感をふりまわし、それで満足している騎士達を、その無自覚な傲慢さを指摘していたのだ。

「手前ぇだって、判ってんだろ」

 じわりと笑った。いつものような嘲笑。だが、そこには常にない、暗い嫌悪と侮蔑の色がいり混じっていた。

「なぁ、アーティルト?」

 何を言われてもただ穏やかな笑みで応える、温厚で節度ある、物腰穏やかな青年。

 しかし騎士達が本心ではどう思っているのか。自分の生まれや、持つハンデ、それらが彼らからどう見られているのか、お前はきちんと判っているだろう? 彼らの優しさが、ただ下位の者に向けられる哀れみでしかないと、ちゃんと理解している。そうだろう?

 その上で黙って微笑み、何を言われても静かに受け流し ―― そうして本当のところは、全てを切り捨ててしまっているのだ。どうせ理解などされぬからと。ことを荒立てては面倒だからと、逆らわず、耳を塞ぎ、頭を低くしてやり過ごしているだけ。

 そんなふうに周囲を欺き、ひそかに切り捨てながら、己の居場所だけはしっかりと居心地良く確保している。 

「たいしたタマだよ、お前は」

 くっくっと喉を鳴らして笑う。

『ち、違う』

 アーティルトは激しく首を振った。

 自分は理解されないことに苦しんでいる。けして諦めてなどいなかった。ましてその立場を利用したりなど、断じてするものか。そう、つい今しがたも、他でもないロッドの弁護ひとつしてやれないと、悔やんでいたばかりだ。なのにどうして、そんな風に言われなければならないのか。

『違う!』

 自分でも意外なほどに感情が高ぶった。もしも声が出せたなら叫んでいただろう。

 それは、彼の言葉が事実を言い当てたからだ。

 頭の隅でそうささやく声がある。

 冗談ではない。そんなはずはなかった。自分はそんなずるい保身など考えては……

『黙れ! 勝手なことを言うな!!』

 まだそこまでは読みとれないだろうと頭では理解しながらも、激しい身振りで指文字を綴った。しかしロッドは口を閉じなかった。

「お前の考えてることを、奴らが知ったらどう思うかな。口もきけねぇ、卑しくも哀れな下っ端風情が、その実、手前ぇらなんざ、これっぽっちも相手にしてなかったなんて ―― 」

『黙れッ』

 気が付いた時には手が出ていた。

 高い音をたててロッドの頬が鳴る。さすがに言葉が止まった。はっと手のひらの痛みを自覚する。己の行動に呆然とするアーティルトに、ロッドがにんまりと笑いかけた。妙に楽しそうな笑顔だった。

「痛ぇじゃねえかよッ」

 声には拳がついてきていた。とっさには動けなかった顔面に、もろに入る。それで頭に血が昇った。考えるよりも先に殴り返す。当然ロッドもやり返してきた。座り込んでいた腰を上げ、襟首へと両手でつかみかかってくる。

 そこから先は、もう滅茶苦茶になった。


  ―― 誰かと本気で争うなど数年ぶりだったと、アーティルトが気付いたのは、ずいぶんとたって、頭も冷えてからのことだった。



*  *  *



『長芋の資料。作付面積統計。そっち、ない?』

 がさがさとしきりに資料をめくりながら、アーティルトが片手でそう問いかけた。ロッドはあっさりと返事をする。

「ねぇ」

 確認もせず答えるロッドに、アーティルトは唇をとがらせた。卓の下でその足を蹴りつける。破邪騎士セフィアールの標準装備である、爪先に金属の入った長靴ちょうかだ。蹴られた方はかなり痛い。むっと眉を寄せたロッドは、それでもあたりの紙束を調べ始めた。やがて目的の物が出てくる。

 アーティルトの担当場所からだった。

 すかさずロッドが後ろ頭をどついた。けっこういい音がして、がくんと首が曲がる。ぱっ、と振り返ったアーティルトを、エドウィネルがなだめた。

「まぁまぁ、落ち着け」

 言いながらも内心では、まったく仲の良いことだ、などと考えているあたり、ばれたら彼の方にお鉢がまわってきそうだった。

「 ―― で?」

 いきなりロッドが訊いてきた。

「え、なんだ」

「手前ぇ、何しに来たんだ」

 言われてようやく、用があるからこそ閲覧室までやって来たのだと思い出す。あやうく忘れるところであった。これはいけない。

 ひとつ咳払いをして誤魔化した。

「アート」

 呼ぶと、手を止めて顔を上げる。

「手が空いたらでいい、ユーフェミアの所に行ってやってくれないか。渡したい物があるらしい」

 アーティルトは即座にうなずいた。この様子ならここを出たその足で顔を出しそうだ。

 エドウィネルと六歳離れた聾唖の姫は、アーティルトにとって指文字の師だ。共に指文字を会話の主とする彼らは、いたって親しい。男女がどうの、色恋がどうのという以前にまず、互いが不自由なく言葉を交わせる、唯一の相手なのだ。

「仮にも王太子が使い走ってんじゃねぇよ。このシスコンが」

「ああ、可愛いぞ、あれは。これくらい安い用だ」

 ロッドの揶揄に、臆面もなく答える。彼の妹に対する溺愛ぶりは、妹の障害と同じぐらいに知れわたった話だった。当然ながら、隠す気も同様にない。にこにこと満面に笑みをたたえるエドウィネルに、ロッドははっと呆れたように息を吐いた。それだけで続くからかいはない。

 何かとつっかかってはずけずけと暴言を吐くロッドだったが、それはけして的外れなものではなかった。むしろ残酷なまでに真相をついていることが多い。普段は目を逸らしたくなるような、事実ではあるが認めたくない事柄。彼の物言いはそんなものを遠慮なくつつき、浮き彫りにする。そうであるからこそ、ことさらに相手の神経を逆撫で、悪印象を植え付けてしまうのだ。

  ―― だが、きちんと冷静に耳を傾け、筋道だった反応を返せば、彼はそれで案外簡単に引き下がる。彼の暴言は、ただ相手の考えを引き出すための手段なのだ。その人物が何を考え、そしてどれだけのことを自覚して行動しているのか。それを聞き出し、人間としての質をおしはかる。騎士として、男として認めうる相手なのかと、そうして探りを入れる。

 そして彼が求める ―― 認めうる答え。正当と定義する物事の考え方。それはけっこう普遍的で、当たり前なものなのだ。そう、むしろ正当すぎて、誰もが普段は忘れてしまいがちな程に。

 己の中にある汚さ、ずるさを自覚もできない人間には、彼の相手はつとまらなかった。それらを認め、受け入れ、その上でより良くあるべく前を向く。彼が要求するのはそんな生き方だ。

  ―― いや、違うか。

 この男は要求などしはしない。認める価値のない相手なら、それ以上は何も言わず、黙って見捨ててゆくだけだ。

 彼に見捨てられたくはない。

 エドウィネルは思う。彼の考え方で認めえない人間ならば、それは本当にどうしようもない奴なのだと、エドウィネル自身もそう思ってしまうから。

 ぶつけられる暴言は期待の証。何を考えているのかと、答えを聞きたがる問いかけだ。

 騎士達も、早くそれに気付けば良いのだが……

「オラ行くぞ。お前も持て」

 言葉と同時に、重い本の束が渡された。反射的に受け取って、あまりの重量によろけかける。

「うっ」

「なまってんじゃねぇか、王太子殿下?」

「馬鹿にするな、これくらい」

 崩れそうになった束をしっかりと持ち直す。ロッドもアーティルトも、よくぞこれだけ使ったと言うほど、紙や書物を抱えている。ロッドの指先に、火のついた角灯が引っかけられた。彼が出ていくと、途端に部屋が暗くなる。

「待て待て」

 置いていかれてはたまらない。慌ててエドウィネルが後を追った。最後にアーティルトが部屋を出て、足で扉を閉める。

「陛下への報告には、ついてきてくれるな」

「冗談。面倒臭ぇ」

「詳しい説明は我々では無理だ」

「アーティルトに行かせろよ。手前ぇが通訳すりゃいいだろ」

「もちろんアートにも同席してもらう。だが説明は頼む。通訳など入れては二度手間じゃないか。なんでわざわざそんな無駄をしなければならないんだ」

「面倒がってんじゃねぇよ」

「お前もな」

 二人は既にだいぶ先で言い合っていた。アーティルトが足早にその背中を追う。

「お前が話すのが一番早いんだ。な?」

「……今からか」

「ああ!」

 エドウィネルの声が弾んだ。後ろからでもその足取りが軽くなったのが判る。

 それでは姫に会うのは後まわしか。たとえ嫌々であろうと、その気になったロッドを逃す手はない。アーティルトはようやく二人へと追いついた。両手はふさがっているので、身振りで先をせかす。

「なんだよ、とっとと終わらせて姫ンとこ行くってのか?」

 お熱いことで。

 すかさずからかってくるロッドに、はっきりきっぱりうなずいた。てらいのないその仕草に、ロッドは続ける言葉を失う。

「そうだな、急ごう」

 エドウィネルも応じて足を早めた。

「遅いぞ、ロッド。明かりがないと危ないじゃないか」

 数歩先に行って振り返る。ロッドはしばし、どう反応するべきか迷ったように沈黙した。やがて……深くひとつ息を吐く。

「じゃぁ、手前ぇが持てってんだ!」

 言いながら、踵を鳴らして歩幅を広くする。ずんずんと進んですぐに並んだ。いかにも機嫌の悪そうなその表情は、しかし滅多な相手には見せない率直なものだ。


 そうして三人、肩を並べて廊下を歩いてゆく ――



*  *  *



 彼ら三人は、やがて広く世にその名を知られることとなる。

 名君と呼ばれる王とその腹心。そして……

 だが、それはまだ、数年の後の話である。

 そしていずれの時、いずこの場所であろうとも、彼らの間に流れるものはただ、この時と変わらぬそれであった。

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