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楽園の守護者  作者: 神崎真
第一部
1/82

第一話 楽園の守護者

 そこは、素朴な造りの民家が建ち並ぶ、山間の小さな村だった。人口は百人もないだろう。わずかな田畑と、周囲を取り囲む森から得られるものだけで充分にやっていける、質素ではあるが平和で穏やかな生活共同体。

 だが、今その平穏は破られてしまっていた。

 村人の気配はどこにもなかった。既にみな逃げ出してしまったのだ。村落中央の広場は、雑多な妖獣達によって埋め尽くされてしまっている。滾々と湧き出る清らかな泉を取り囲むように、おぞましい形状の生き物が群を為し、ひしめきあっている。

 卑しい化け物共は、けして仲間同士尊重しあって場を占めているのではなかった。巨大な蚯蚓みみずを思わせる粘液質の肌を持つ妖獣は、傍らにいる四つ足の生き物を呑み込もうと長大な身体を巻き付かせ、その横では猿に似た数体が、よってたかって別の一体を引き裂いている。民家の壁をぶち破り、調度を倒してのさばるものがいるかと思えば、そのおこぼれに預かり、備蓄された食糧を引きずり出しているものもある。

 突き固め、きちんと整備されていた地面は、妖獣達に踏みにじられ、分泌する粘液と共喰われた残骸との入り混じった泥濘と化していた。秩序も何もない、ただ生存本能と破壊衝動だけが支配する、あさましく醜悪な情景。

 その様子を民家の影から窺う者達がいた。七、八人はいる。いずれも若い男達だ。そろいの制服を身に着け剣を佩いたその姿は、彼らがいずこかの組織に属す、訓練を受けた集団であることを示していた。

 先頭に立つ男がすっと片手を挙げた。もう片方の手は剣の鞘を押さえている。抜きやすいよう前に持ってこられた柄は、金属製で、まるで銀細工を思わせる精緻な彫刻が施されていた。

 他の面々も同じ剣に手をかけている。呼吸を潜め、機を図った。

「 ―― いけっ」

 手が振り下ろされると同時に、一同は建物の影から飛び出した。タイミングを同じくして、泉を挟んだ反対側からも仲間が現れる。

 先頭をきった男が剣を引き抜いた。現れたのは柄と一体になった細く優美なやいば。陽光を弾いて煌めくそれは、一見儀礼用の細剣レピアとしか思われなかった。実用に供せば、ひとたまりもなく曲がってしまうであろう、脆く繊細なそれ。

 だが、彼がそれを振りかぶった瞬間、刃は鮮やかな光輝をまとった。けして太陽を反射したのではない。まばゆい銀色の輝きは確かに剣、それ自体から発せられている。


 どしゅっ


 輝きをまとった細剣は、見事に妖獣の身体を切り裂いた。一抱えもある長い蛇のような首が、完全に両断され地に落ちる。

 切断面からは、体液ではなく煙が立ち昇った。妖獣は首を失ってもなお、のたうち回るだけの生命力を備えていたが、その傷口から見る見るうちに焼けただれてゆく。すぐに痙攣すらもしなくなった。あとに残ったのは原型も判別し難いくすぶる塊のみ。

 その頃にはもう、あたりは妖獣と人が入り乱れる、混戦の場と化していた。

 そこかしこで破邪の光が閃き、妖獣の咆哮が大気をつんざく。不意をつかれた妖獣共は、互いに協力する知能も持たず、次々と男達の手にかかっていった。

「取り囲め! 一匹も逃すんじゃないぞ!」

 よく通る声が指示を伝える。一同は力強い声でいっせいに気勢を上げた



  ―― その一帯は、かつて大陸でも、もっとも危険な地域だった。

 昼夜を問わず妖獣が跋扈し、あるものは人を喰らい、またあるものは苦心して拓いた田畑を踏みにじった。貴重な水源を毒で汚し、森や山を荒れ地へと変え ―― 幾多の町が、村が全滅に追いやられたことだろう。

 妖獣と呼ばれる化け物共が、いったいどんな経緯でこの世に産まれたのかは判らなかった。巷には星から来たなどという、荒唐無稽な説さえ語られている。だが、凶暴でこの世界の生態系をいたずらに乱すその存在は、深く理解などせずとも、受け入れがたいものであることだけは明確だった。そのまま放置されれば、この土地は他の生き物の住めぬ荒野と化していただろう。

 だが救いの道は示された。

 治める者などいない無法地帯を、一人の男がまとめあげたのだ。生半可なことでは倒せぬ異界の生命力を持った妖獣を、容易に滅する技術をもって。

 男の名はエルギリウス=アル・ディア=ウィリアム=フォン・セイヴァン。彼がふるう破邪の剣は、妖獣達を造作なく無へと帰し、その優れた統治能力は、無秩序だった各地の機能を、ひとつの共同体として成立するよう統合、整備した。

 国家セイヴァンの誕生である。

 それより300年。破邪の技は王家に連綿と伝えられ、選び抜かれた騎士達へと伝授されていった。秘伝の金属で造られた細剣は、王より破邪の力を与えられた騎士の手にあることで、妖獣達を容赦なく滅し去る。人々は神秘の技をもたらした王家とそのめいで妖獣を狩る騎士団を崇拝し、最上級の敬意を払った。

 セイヴァン王家とその直属の対妖獣騎士団、セフィアール。彼らの庇護の元、いまやこの国は大陸屈指の発展と安定を誇っていた。



*  *  *



 鈍い音と共に、溢れる体液が地面を汚した。

「んっのぉ」

 妖獣の身体に足をかけ、深く刺さった剣を引き抜く。突き放された妖獣は、民家の壁にあたってずるりと滑り落ちた。緑の染みが漆喰に太い筋を描く。

「うぉりゃぁっ!」

 抜いた反動で振りむいた彼は、剣を後ろから襲おうとしていた奴にそのまま叩きつけた。固い鱗を密生させた妖獣は、頭蓋を割られて悶絶する。すかさずこじるようにして傷を広げた。さすがの妖獣もこれはこたえたらしい。まだ生きてはいるものの、己の苦痛に手一杯で、それ以上むかってこようとはしない。

 彼はさっさと次の標的を探した。

 精悍な顔立ちの青年だった。なめした皮革のような褐色の肌。手足ばかりが長い痩せた体躯。日に灼けて荒れた頭髪を無造作に刈り込んでいる。その姿は一見すると貧相にすら見えかねなかった。だが軽々と振りまわされるその剣は、他の騎士達とは異なった、重く巨大な段平だんびらだ。 ―― そして、瞳。瞳の色が違った。珍しい取り合わせの深青の双眸。そこに宿る光が彼の存在力を ―― 揺るぎないその強さを証明している。

 威勢のいい気合いと共にあたりを薙ぎ払う。はっきり言って周辺の迷惑をまったく気に止めていない。幅広く重い両手剣は唸りと共に大気を裂いた。幾体もの妖獣が、斬られると言うよりも殴りとばされ、叩き潰され転がる。

「はっ、うっとぉしいぞ、オラオラぁ!」

 のたうち反吐を吐く妖獣を、長靴ちょうかの踵で踏みにじる。

 その戦いぶりはまさに、蹴散らすという表現が相応しいものだった。当たるを幸いなぎ倒し、横合いから襲うものには肘打ちをくれ、逃げ出す相手には後ろから蹴りを入れる。それが性分なのか、動作のたびに大きなかけ声を上げているが、その内容がまた口汚い。

「どけやっ」

 罵るよりも早く殴り倒されたのは、味方のはずの騎士団員だった。その身体があった空間を、大人の胴体ほどもある触手がのたくり通り過ぎる。

 触手の持ち主はイソギンチャクに似ていた。もちろん本体は触手に比例して巨大だ。しかも腹足を波打たせ、かなりの速度で歩行している。せめてもの幸いは触手の数が三本しかないことぐらいか。

 耳障りな鳴き声が聞こえた。文字では表記できない不快な異音。見れば獲物を求めてうごめいていた触手に、一体の妖獣が捕らえられている。二つの頭を持つ鰐のような妖獣は、長い顎で触手に噛みついた。しかし灰白色の皮膚は見た目と裏腹な強靱さで、鋭い牙をまったく受け付けなかった。抵抗虚しく、妖獣は胴体のてっぺんに開いた円い口へと押し込まれる。

 ぐちゅりという湿った音がして、妖獣の咆哮が途絶えた。イソギンチャクの胴体が、内部を移動する餌に合わせて蠕動する。上部から紫色の液体が溢れ、流れ落ちた。

 青年が見上げて口笛を吹いた。剣を振り串刺しになった妖獣を投げ捨てる。

「おい、やるぞ!」

 隊長格の騎士が一同を促した。既にほとんどの妖獣が倒され、やっかいな相手はこいつだけになっている。騎士達は心得た動きで配置についた。イソギンチャクを中心にした円形陣を組む。そして細剣をまっすぐ顔の前に立てた。左手を刀身に添え、精神を集中する。

「 ―――― 」

 位置についた全員が同時に口を開いた。紡がれる複雑な音韻と旋律には、一部のずれも停滞もない。

 細剣が、じょじょにぼんやりとした光を放ち始めた。柄頭から剣先まで一体となった細剣は、その精緻な細工の隅々からおぼろな輝きをこぼす。彼らは剣を持ち替え、一斉に空を薙いだ。その切っ先から、光は線を描いて迸る。流れるように宙を踊り、軌跡をなぞり、描き出されたのは光の魔法陣だ。妖獣を取り囲み戒める、実体のない捕縛の網。

 イソギンチャクの触手が凍り付くように動きを止めた。ゆっくり伸縮を繰り返していた胴体が、びくびくと不規則に痙攣する。

 合図の必要はなかった。誰もが呼吸を心得ていた。皆の術が同時に完成し、最後の一言を高らかに唱和する。

 断末魔の悲鳴があたりをつんざいた。動きを取り戻した触手は、しかしもはや目的もなく、のたうちうねくるばかりだ。イソギンチャクの身体が光の網に押し潰されてゆく。機能美すら感じさせる、計算され尽くした構成の魔法陣は、イソギンチャクを容赦なく滅し去った。引き裂かれ、体液と臓物を撒き散らしたその身体は、痕跡を残すことすらも許されず、眩い閃光のなか跡形もなく焼き滅ぼされる。

 そして ――



 術の成果を確かめるように、一同はしばらく動かなかった。やがて魔法陣が妖獣と共に消滅すると、ようやくその緊張を解く。急激な力の消耗にあがった呼吸を整えながら、互いに顔を見合わせ、ねぎらいの笑みをかわした。

「 ―― よし。あとは雑魚の掃討だ。手分けしてかかろう」

 隊長があたりを見わたしながら言った。周囲には妖獣の死体が幾つも転がっている。これも放置してはおく訳にはいかない。きちんと手順を踏んで無に帰さなければ、毒素を撒き散らし、疫病の源となってしまう。表情を引き締めた彼らは、生き残りを討つべく散ろうとした。

 と、それを制した声があった。

「いねぇよ、もう」

 いかにも面倒臭げな口調だった。

 発したのは褐色の肌をした、段平の青年だ。彼はひとり、ぽつんと騎士達から離れた位置にいた。ごつい剣を肩に担ぎ、足でひっくり返った妖獣をつついている。

「ロッド、貴様また……」

 隊長は苦々しい表情で彼を睨んだ。

 彼が先刻の術に参加していなかったのは、一目瞭然だった。実際、この男の協調性のなさはいつものことで。……だからと言って、それで腹立ちが収まる理由にはならない。舌打ちする隊長の怒りなど、彼は気にした様子もなかった。顎を上げてぐるり近辺を指し示す。

「見りゃ判んだろ、近くに生き残りなんざいやしねぇさ。無駄なことやってねぇで、さっさとこいつらを始末すんだな」

 足首から先を使って死骸を起こす。腹を断ち割られた妖獣は、グロテスクな極彩色の内蔵から、吐き気をもよおす異臭を立ち昇らせた。

 隊長の喉が音を立てて上下した。ロッドの口元に、くっと嘲笑が浮かぶ。彼はまた、それを隠そうともしない。隊長の顔に血の気が昇った。

 穏やかならぬ雰囲気に、騎士の一人が隊長に近付いた。先程どさくさの中でロッドに殴られた男だ。まるで汚いものを見るような目でちらりとロッドを見、無言で首を横に振ってみせる。相手にするなと諭されて、隊長もどうにか落ち着きを取り戻した。

「さ、始めてくれ」

 みなを促し、中断していた作業を再開させる。

 何事もなかったかのように無視されたロッドは、肩をすくめただけで済ませた。支えていた死骸を地面に落とし、ぶらぶらと歩き始める。もちろん他の面々とは異なる方向に、だ。作業を手伝うつもりは毛頭ないらしい。また、誰一人としてそれを引き止めようとはしなかった。どうやら言っても無駄だという認識がゆきわたっているようだ。

「手が足りないな。安全が確認出来たら、誰か村人達を呼び戻して ―― 」

 指示を出していた隊長は、ふと言葉を切った。

「どうした、アート」

 呼ばれた騎士が振りむいた。膝をついて覗き込んでいた死骸を隊長に示す。ロッドがつつきまわしていたやつだ。蜘蛛に似た6本の足の中心に、一抱えもある平べったい楕円形の胴体がぶら下がっている。全体が固い甲殻に覆われており、生半可な攻撃は受け付けそうになかった。ロッドの段平が、腹部のわずかな隙間をこじ開けるようにしてぶち割っている。

「…………」

 手招きされて、隊長はためらいなく近付いた。警戒などしなくとも、この青年は嫌がらせや悪ふざけとは無縁な人物だった。そこに何か興味を惹くものがあるのだろう。

 肩を並べて腹腔内に目を落とす。喉の奥からせり上がってくるものがあったが、無理矢理呑み下して詳しく観察した。彼が見せたがったのは、下腹 ―― とおぼしきあたりにある、丸い房状の塊らしい。

「これは?」

 訊くと隠しを探って石板を取り出した。掌大のそれに、白墨で一言書き付ける。

「卵か」

 読み上げる声にうなずいた。

 この騎士 ―― アートは、言葉が話せなかった。

 まだ幼い子供の頃、妖獣に襲われてひどい傷を負ったことがあったのだ。その時、喉を傷つけ声を失った。無くしたのは声ばかりではない。隊長を見つめ返す、黒に近い焦茶色の瞳は片方のみだ。顔の半面、額から頬にかけてを覆う黒革の下には、右目を抉った妖獣の爪痕が隠されている。

 しかし、それだけのハンデを負っていてもなお、この青年は極めて優秀な戦士だった。かつて己を襲った妖獣を前にしても、怯むことはおろか熱くなることもなく、落ち着いた的確な戦いぶりを見せる。体術・剣術の冴えはもちろんのこと、知性や教養も相当なものだった。ロッドと同じく、生まれは定かならぬ平民の出ではあったが、常に心身を鍛え、書物をひもとき、研鑽を怠らないでいる。

 こすって字を消した上に別の単語を記す。携帯用の小さな石板はそれだけでいっぱいになった。

 水場、産卵期

 隊長はうなずいた。

「そうか、この種の妖獣は水中に卵を産んだな。泉をさらって調べよう。既に産みつけられていては大変だ」

 よく気が付いてくれた。

 短くねぎらうと、隊長は素早く立ち上がった。きびすを返して他の者達の元へと足早に向かう。

 その背を、アートはしばし無言で見送った。半面を隠していることもあり、浮かべる表情は読みとりにくい。ほぅと息をついて石板をしまった。膝を上げてあたりを見わたす。

 向かったのはロッドが消えた方向だった。



 ロッドは村のはずれ、そろそろ森に入り込もうかというあたりにいた。

 整備されたものではなく、自然にできたのであろう踏み分け道の傍らに、腰を下ろすのにちょうどいい石が置かれている。そこにどっかりと座り込み、段平を磨いていた。アートが近付いてゆくと、ちらりと一瞬視線を向ける。が、何も言わずに手入れに戻った。

 無骨な造りの剣だった。他の騎士達が使っている芸術品のような細剣とは異なり、装飾などまったくない、実用一辺倒の代物。鉄製の鞘は手荒な扱いを反映して傷だらけだったし、柄も滑り止めの革が巻いてあるだけだ。

 だが、それはかなり良い品だった。両手剣とは本来、その重量と勢いにものを言わせる打撃武器である。当然ながら切れ味はほとんどないに等しい。刃を鋭くすればするほど、刀身は薄くなり衝撃に弱くなるからだ。しかし彼の剣は精度の高い鉄を腕の良い鍛冶師が鍛えたのだろう。充分な強度とそれなりの鋭さを兼ね備えていた。

 そして彼にも、その切れ味を生かせるだけの技量がある。それをアートは知っていた。

 目の前から見下ろされて、ようやくロッドはアートを見た。いや、単に作業が終わっただけなのかもしれない。剣を鞘に収め、砥石やボロ布を袋にしまい込む。

 アートの両手が動いた。手指が複雑な一連の形を、流れるようになぞる。ごく手慣れた仕草だった。

 ロッドが唇の端を上げた。

「それだけかよ。馬鹿が」

 案の条と言わんばかりの口調だった。アートは眉を寄せると更に指を動かした。ロッドはしばらくそれを眺めていた。が、途中で目線を逸らす。

「はっ」

 吐き捨てた。手入れが終わったばかりの段平を担ぎ上げる。

「面倒くせぇ。俺は俺で好きなようにやるさ。手前ェはせいぜい、あのクソ共んとこで機嫌でもとってるんだな」

 彼は常から名家の血筋だの貴族だの、そんなもんはクソ食らえと放言してはばからない。そんな態度が、団内でただ二人の平民階級である彼らの立場を、大きく異なったものにしていた。もっともロッドの口の汚さは、相手がたとえ貴族などではなくとも、ほとんど変わりはしなかったが。

 村に背をむけて歩き出すロッドを、アートはとっさに引き止めようとした。伸ばした手は、しかし乱暴に叩き払われる。

「あんだよ」

 両目がぎらついた光を放っていた。気の弱い者なら、それだけで何も言えなくなりそうな目つきだ。アートは再度、胸の前で手を舞わせる。ロッドは鼻を鳴らしただけだった。それきりで、あとは振りむくことなく森へと消える。

 アートは再びため息をつくと、仲間達を手伝うべく村内へと戻っていった。



*  *  *



 空には星のひとつだに存在しなかった。墨を流したような、のっぺりと黒い広がり。ただたなびく雲をまとった満月だけが、ひっそりと家並みを見下ろしている。

 村を貫くただ一本の道を歩いてきたアートは、ひとり泉のそばで立ち止まった。片方だけの瞳が、闇の中でたゆとう水面を眺めやる。夜目が効くのか、手には明かりのひとつも持ってはいない。

 あたりはひっそりと静まり返っていた。呼び戻された村人達も、それぞれの家で寝台を借りている騎士達も、みな疲れ切って深い眠りの淵にいる。

 荒らされた畑や家々の片付け、妖獣達の死骸の始末に泉の調査。人手はいくらあっても足りなかった。まして村人達は、妖獣の襲撃と数日にわたる慣れない避難生活とで、ただでさえ疲労困憊している。団員も力の消耗が激しかった。全てにひとまずの区切りをつけた頃には、とっぷりと日も暮れており、一同は早々に休息を選んで屋内に引き取った。

 彼も、被害の少なかった家で休ませてもらっていたはずだった。が、その姿は寝起きのそれとは思われない。眠れなくて夜風に当たりにきた、というようなのどかな雰囲気でもなかった。

 完全に身支度を整え、細剣を手で押さえたその様は、全身緊張感に溢れていた。じっと精神を集中し、周囲の気配を探っている。明らかに臨戦態勢だ。

 息を殺してすました耳に、固い物が地面を引っ掻く音が届いた。重なり合い連続する、どこか軽い響きを持つ音。発生源は素早い動きでこちらに移動していた。アートの左手が動き、親指が鯉口を切る。

 続く展開は急速だった。

 近付いていた気配が跳ね上がる。

 闇のベールを引き裂いて現れたのは、昼間倒したものと同じ、蜘蛛型妖獣であった。節くれ立った長く太い足のうち、前方の二本がアート目がけて繰り出される。先端には毒液を滴らせる鋭い鉤爪。

 アートの反応は的確なものだった。

 節足を僅かに身を開いてかわし、着地した妖獣の間合い内へと飛び込む。素早く身を沈め、鞘に入ったままの剣を胴体の下へとつっこんだ。地面に突き立てた先を支点にして、己とそう変わらぬ重さがあるだろう、その身体を持ち上げる。空いた隙間に爪先をつっこみ、力任せにひっくり返した。露わになった腹は、当然背中側より柔らかい。

 さっと剣を抜き、腹甲の継ぎ目に突き立てた。あまり深くは入らない。切っ先が潜ったところで精神を集中した。細剣がごくごく僅かな輝きを放つ。

 それで充分だった。体内に直接破邪の力を注ぎ込まれた妖獣は、びくりと六本の足を硬直させ、それきり動かなくなる。

 顔を上げたアートは、後続が闇から現れるのを苦い面持ちで確認した。その数、七体。今の自分がひとりで相手取るには、いささか多すぎた。

 指を曲げ口にくわえる。

 鋭い指笛が大気を切り裂いた。その残響が消えぬ間に、家々から人の気配がわき起こる。

「どうした!?」

 飛び出してきた騎士が状況を見て息を呑んだ。が、立ち尽くしたのも一瞬のことで、右手に掴んできた剣をすらりと抜く。

「まだ生き残りがいたのかっ」

「あなた方は中に!」

 他の騎士達も、みな剣を持って駆けつけた。何事かと顔を出す村人達を戸内へと下がらせる。村人は慌てて従った。閉めた扉の内側から、心張り棒をかます音が聞こえてくる。

 数人が火のついた松明をかざした。それであたりの様子が見えるようになる。わさわさと節足をうごめかせて迫る姿が、はっきりと照らし出された。一同は誰が命ずるともなく、自然と背中を内にした円陣を組む。

「こいつら、みんな卵を産みに来たのか」

「今夜が産卵日だった訳だな。どうりで一個も見つからなかった訳だ」

 舌打ちする。まだ肌寒い中、泉に潜らされた村人にはいい迷惑だったろう。

「…………」

 アートは仲間の顔色をうかがった。

 つい昼間、あれだけの妖獣を相手にしたばかりだった。特に最後の一匹でみなはほとんどその力を使い果たしたはずだ。本来なら今夜は休息をとり、回復に努めなければならない。

 実際、揺らめく炎に照らし出された表情は、どれも優れないものだった。構える細剣にも光はほとんどない。

 破邪の力がなければ、この剣はまさに飾りでしかなかった。細く繊細な見た目は、そのまま実質でもある。セフィアールの力をよく伝える金属は、硬質ではあったがそれだけ脆く、また金属とは思えないほど軽い材質だった。容易くふるうことができる代わりに、勢いや遠心力は期待できない。ロッドがこの剣を使おうとしないのも、主にそれが理由だった。

 しかし……これだけの妖獣をだまって見過ごす訳にはゆかない。

 アートは唇を噛みしめた。いったん剣から片手を離し、傍らに立つ隊長の肩を叩く。振りむいたのに、さっき倒した一匹を視線で示し、自分の腹を指でなぞってみせた。応じて隊長がうなずく。

「みな! 急所を狙え。腹の継ぎ目だ。不用意に近付くんじゃないぞ、間合いを計れ!」

「おおっ」

 その指示に皆が意気込んだ。

 アートは剣を構え直すと、目を上げて闇に溶け込む山の稜線をふり仰いだ。


 夜明けまでには、まだずいぶんの時があった ――



*  *  *



 目覚めたばかりの森の大気は、清々しい気配に満ち満ちていた。

 夜露を含んだ下生えが瑞々しい葉を茂らせ、活動を始めた鳥達のさえずりが聞こえてくる。そこここで鮮やかな色を見せるのは、ふくらみ始めた花の蕾だ。

 春間近な早朝の森は、寝不足の身体で散策するにはとても心地がよかった。

 踏み分け道を外れ、更に奥へと分け入ってゆく。と、爽やかな風景には似合わぬものにぶちあたった。

 妖獣の死骸だ。蜘蛛型妖獣が、割られた腹を上にして、茂みの中に転がっている。

 それを横目に更に歩を進めると、死骸はどんどん数を増していった。どれも同じ蜘蛛型妖獣だ。五体や六体ではない。行く手に目をやれば、木々の合間から転々とのぞいている。それらをたどるようにして先へと進んでいった。やがて木立が途切れ、広場のようになった一角へと出る。

 そこは戦場だった。

 あたり一帯の地面を妖獣の死骸が埋め尽くしている。多少の誇張はあったが、そんな表現が相応しく思える光景だった。予測はしていたが、それでもしばし息を呑んで立ち尽くす。

 ピィ

 口笛の音が聞こえた。そちらに目をやると、求める姿が見つかった。

「 ―― よぅ」

 そう言って、軽く片手を挙げてくる。

「…………」

 アートは足早に彼の元へとむかった。近くから見下ろし、思わず眉を寄せる。

 ロッドの姿はすさまじい状態だった。妖獣達の死骸に挟まれ座り込み、上体を背後の岩に寄りかからせている。もともとかなり着崩していた制服はボロボロになり、全身血と泥と妖獣の体液にまみれた酷い有り様だ。脇腹や二の腕など、何箇所かの傷は無視できない深さがある。

「は! 不景気なツラしてるじゃねぇか。夕べは苦労したらしいな」

 ニヤリと口の端を上げる。その頬にも、妖獣の爪でできたのか、切り傷が走っていた。

 アートは持っていた荷物から皮袋を取り出した。本来水を入れて持ち運ぶための物だったが、今の中身は違った。手渡されたそれの栓を、ロッドは口で引き抜く。芳醇な葡萄酒の香りが漂った。

 ものも言わずあおっている間に、アートは傍らに膝をついた。さらに清潔な布と傷薬を取り出す。息をついだ隙を逃さず、皮袋を奪いとった。文句を言われるより早く、さっと布を濡らしてまた返す。

 傷を拭い始めると、ロッドは顔をしかめた。いかにも嫌そうな表情だ。が、手を払うような真似はしない。代わりに口を開いた。

「何匹行った?」

 だるそうに頭をのけぞらせる。だが瞳の光は失われていなかった。手を止めたアートが指を立てる。

「八匹か。ちゃんと始末はついたんだろうな」

 肯定。

 器用な手指は、治療を再開しながらもさらに意思を伝えた。

「あの足手まとい共でも役に立ったか」

『言い過ぎ』

 アートがそうたしなめると、ひらひらと手を振ってみせた。

蜘蛛型妖獣ガーデイルの集団産卵期も把握してないようなボケ共が、足手まとい以外の何だってんだよ」

 指文字が一瞬困ったように止まる。

『でも、倒した、ちゃんと』

「たった八匹に十五人がかりでな」

 しかもアートがいなかったならば、その対応は完全に後れをとっていた。

「大体、昨日のイソギンチャク野郎(マルティグラ)にしたところで、あんなでくのぼう相手に全力出してどうすんだ。あんなヤツぁ、触手ぶったぎってやれば何もできなくなるんだ。そしたら一人で充分料理できるだろうが」

 それを仰々しく術なんざ使いやがって。ぶつぶつと文句を垂れる。

『細剣、間合い、短い。難しい』

「だから普通の剣も使えってんだ!」

 どこか余裕のあった馬鹿にする口調が、叩きつけるような叱責に変わった。

「破邪の力に頼りきりで、妖獣の種類は覚えねぇ、急所は知らねぇ、挙げ句の果てにはまともに剣すら扱えねぇ! あんの、ろくでなし共がッ」

 ぎらぎらと両目が光る。

 王から与えられた破邪の力は、無限ではない。使えば消耗するし、回復にはある程度の時間がかかる。そしてその分も使い切ってしまえば、あとは王自身の手で回復してもらうしかない。

 努力を怠り、限りある術力を無駄に振りまわして浪費する騎士団員。特殊な能力が借り物であることを忘れ、貴族の身分と国最高の騎士団員である名誉を笠に着た、その自覚のない傍若無人さ。ロッドはそんな彼らを完全に見下げ果てていた。 ―― むこうが己を蔑視している以上に。

 あたりに転がる妖獣の死骸は、半数が段平で腹を割られているか、脚部を切断して足止めされたものだった。残りの外傷は少ない。甲殻の継ぎ目に細剣を突き立て、必要最低限の術力を送り込んだのだ。魔法陣を焼き付けているものは、ほんの二三体にすぎない。

 アートはひっそりとした微笑みを浮かべた。

 口が汚くて、礼儀の欠片も持たなくて、協調性など望むべくもない。それでもこの青年は、誰よりも立派な騎士団員セフィアールだった。

 破邪の術も、剣技も、そして妖獣に関する知識も、彼以上の騎士はいない。そのような事実など、他の騎士達はけして認めず、また考えてみもしなかったが。それでもアートは彼の優秀さを、身をもって知っている。

 そう、彼は誰よりも優秀で、勤勉だった。

 たった一人と意思を疎通させる。ただそのためだけに、ひとつの言語を学んだ男。

 そう ―― 彼ひとりだけなのだ。アートの操る指文字を ―― 聾唖者が使用する手指の動きで表現される言葉を、理解してくれる騎士団員は。

 確かに筆談でも意思は伝えられる。仲間達はそれで充分、自分の意見を有効と認め、尊重してくれる。けれど……やはり筆談には限界があるのだ。筆記具の制約や、必要な手間が、どうしても最低限の内容しか表現できなくしてしまう。いや、場合によってはそれすらも不充分だった。ガーデイルの産卵は満月の夜に数十匹の集団で行われるのだと、みなに伝え損ねてしまったように……

 書くモンがなかったらどうすんだ。

 なぜ指文字を理解できるのか。そう聞いた自分に、吐き捨てるように言ったロッド。激しい嘲りがむけられた先は、ハンデを持つ自分ではなく、アートにばかり負担を強いて、しかもそれを自覚しない騎士団員達だった。

 そして、彼は自分の意見を知ろうと思ってくれている。少なくとも、判断の材料にする価値はある、と考える程度には。

「なに笑ってやがる」

 ロッドがいきなり後頭部をどついた。たいした力は入っていなかったが、鍛えられた拳は立派な凶器だ。思わず反射的にお返ししてしまう。ぎゅっと傷口を押さえられて、ロッドは上げかけた苦鳴を噛み殺した。

「……アーティルト、てめぇ」

『手が早い。レドリック、も、怒ってた』

 涼しい顔で言う。レドリックとは触手に襲われる寸前、ロッドの手で殴り倒された男だ。助けるにしても、もう少し穏便な手段をとるか、せめてあとで一言断ればいいものを。

「連中がトロイんだ!」

 これは照れているとか、恩着せかましいからとかそんな理由ではなく、心底から馬鹿にしているのだ。それならいっそ放っておけばと思わないでもないあたり、アートの方がよほど薄情だという自覚はあった。

 少なくとも ―― いらぬ諍いを起こしたくないからと、表向きだけは皆と行動を共にし、裏でこっそりと手を抜いて術力を温存していた自分は、自己保身を捨てられない日和見の臆病者だ。

 包帯を巻き終えたアートは、横にあった死骸を足を掴んでどけた。空いた隙間に身体を押し込むようにして、ロッドの隣に座り込む。

「あんだぁ?」

 途端に語尾を跳ね上げるロッドに堂々と告げた。

『疲れた。眠い。少し、休む。それから、片付け』

 着替えは荷物の中。

 それだけ伝えて、答えを待たずに目を閉じる。

 呼吸は即座に寝息に変わった。

「…………」

 悪臭を放つ、死骸の山の中で眠るアートに、ロッドはしばしどうするか迷ったようだった。叩き起こして怒鳴りつけるか、それともこのままここに捨てていくか。

 が、しばらく思案した後、はっと小さく息を吐いた。不機嫌そうな顔のままごそごそと身じろぎし、寄りかかってくる身体を具合良く支える。反対に体重をかけるようにすると、丁度よく安定した。

 寝付きの良さは、ロッドも負けてはいない。



 あたりでは鳥が啼き、膨らみ始めた蕾が春の訪れを告げている。

 朝露に濡れた下生えは瑞々しく青い。


 泥と体液とすえた悪臭に包まれて、昨夜の功労者二人は、ひとときの休息にその身を委ねていた ――

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