第4話 ささやかな祝宴
第4話 ささやかな祝宴
良太は大学の通用門で忠之を待った。忠之がその日の講義を受けることは、出雲へ帰る車中で聞かされていた。
30分も待たないうちに忠之が姿を見せた。
「下宿に踏み込まれるとは予想もしなかった。まったくの油断だったよ。お前にも千鶴さんにも心配をかけてしまった」
「でも良かったじゃないか。拷問で殺された小林多喜二などとちがって、それほど苦労しなくてすんだみたいだから」
「法科で良かったよ。特高に眼をつけられている経済学部だったら、今ごろはまだ警察の中だろうな」
「もう心配はないだろう。お前がアカじゃないこと、特高にもわかっただろうから」
「今のところ、見張られてもいないようだ。ゆだんはできないけどな」
「あの本のことだけど、どげなふうに言い逃れたんだ」
「京都の古本屋で買った本だと言い張ったんだ。ほんとに京都で買ったつもりになってしゃべった。我ながらうまくやったと思うぞ」
「たいしたもんだ、さすがだな。そういうことなら、千鶴さんに会いに来たっていいだろう。早く安心させてやれよ」
「念のために、もう一日だけ様子を見ようと思うんだ」と良太は言った。「相手は特高だ。何が起こるかわからんからな」
その夕方、忠之から良太のようすを聞いて、千鶴はどうにか気持が落ちついた。すぐには会えないと手紙に書いてあったが、明日は良太さんが来てくださる。
千鶴は書斎に入り、良太からの手紙を机のうえにひろげた。
手紙の文字を見ながら千鶴は思った。私が良太さんに手紙を書くとすれば、どんな手紙になるのだろうか。そう思ったとたんに、千鶴は良太を慕っている自分を意識した。良太さんに送る手紙には、良太さんへの思いを記したい。
いつからだろう、良太さんに対してこんな気持を抱くようになったのは。初めて会ったとき、優しくて純粋な人柄だとは思ったけれど、それ以上の感情は抱かなかった。それなのに、今では良太さんのことが気になって仕方がない。私は良太さんに対してこんな気持を抱いているが、良太さんは私のことをどのように思っておいでだろうか。出雲のことを話してくださるようになった頃から、私に向けられる良太さんの眼差が変わったような気がする。この手紙には、私に対する良太さんの気持が込められているみたいだ。良太さんも、私のことを思ってくださっているような気がする。ほんとにそうならとてもうれしいけれど。
千鶴は良太からの手紙をひきだしに入れると、日記用のノートをとり出した。良太に対する気持をはっきりと自覚したいま、そのことを記しておかねばならなかった。
つぎの日、良太はいったん下宿に帰り、着替えをしてから浅井家に向かった。頭の傷は髪に隠れて見えないはずだった。
浅井家の玄関に入ると千鶴の妹がむかえた。
「いらっしゃい、森山さん。お姉さんもすぐに行くから、岡さんの部屋で待っていてくださいって」笑顔を見せて千恵が言った。「お姉さんは台所でがんばっているとこなの」
千鶴の母親に挨拶をしてから、2階への階段をのぼってゆくと、忠之と沢田の話し声が聞こえた。沢田は忠之の隣室に入っている学生で、千鶴の従兄であった。
忠之と沢田の議論に仲間入りしていると、部屋の入り口で千恵の声がした。「すみません、ちょっと手伝ってください。3人いっしょにお願いします」
階段をおりてみると、廊下にいくつかの食膳がならんでいた。
良太が膳を持ちあげたとき、千鶴の声が聞こえた。ふりかえると、割烹着姿の千鶴がほほ笑んでいた。良太の無事を喜ぶ千鶴の笑顔と声が、良太を幸せな気分にした。
まもなく千鶴と千恵がみそ汁と酒を運んできて、忠之の部屋での準備が整った。
千恵をふくめた5人が食膳につくと、忠之が「それじゃあ、俺からちょっと。千鶴さんから開会宣言役を頼まれたんでな」と言った。
「今日のこれは千鶴さんのたっての希望で、良太が無事にもどったことを祝うのと、ついでに新年を祝おうということだ。良太が特高に呼び出されてびっくりさせられたり、その良太が特高をやり込めて出てきたというので感心させられたり、というわけで、おれ達の正月は波乱含みに始まったが、我が大日本帝国にとっても、いよいよ総力をあげ、決戦に挑むべき年を迎えたわけだ。お国のためと俺たち国民みんなのために、今年もお互いにがんばろうや。というわけだけど、それにしてもだな」忠之が千鶴に顔を向けた。「今どきこんなに豪勢なことをして、大変だろう、千鶴さん」
「ありがたいことですけど、私たちを助けてくださる方があるのよね。このお酒も岡さんからの戴きものだし。良太さんが無事に帰ってくださったお祝いに、ちょうど良かったわ」
「良太は知っているけど、俺のおふくろの実家が造り酒屋なんだよ。こんな時でも少しは造れるもんだから、ちょっと重かったけど持ってきた」
良太は言った。「今日はありがとうな。今度のことは俺の不注意がもとで起こったことだし、特高に呼びつけられたと言っても、大したことはなかったんだ。こんなことをしてもらって、なんだか申し訳ないという気がするけど、ありがたく御馳走になるよ」
良太の簡単な挨拶が終わると、待っていたとばかりに食事がはじまった。
にぎやかな会話の内に食事がすすみ、そのあい間には、千鶴が暖めた酒をはこんできた。