第3話 特別高等警察(特高)
第3話 特別高等警察(特高)
正月を故郷で迎えるために、良太は忠之といっしょに帰省した。
出雲に帰った翌日、良太は忠之の家を訪ねて、東京での学生生活について報告し、学資の援助に対する感謝の言葉をあらためて伝えた。地主である忠之の父親は、小学校時代の恩師でもあり、良太を最も理解してくれる支援者だった。
昭和18年を迎えてまもなく、良太の下宿から帰京をうながす電報がとどいた。理由に思いあたるところがないまま、良太は翌日の夜行列車で東京に向かった。
良太が下宿の主人から聞かされたのは、その下宿が特別高等警察の立ち入り捜査を受け、良太に対して出頭命令が出されているということだった。
浅井家の書斎には資本論に関わる書物があった。良太が興味をひかれるままに借りたその書物が、特別高等警察の手に渡った。その書物を下宿に放置したまま帰省したことを、良太はいまさらに悔やんだ。良太はいきなり深刻な立場に立たされた。治安維持法により、共産主義者として検挙されるおそれがあった。うかつな対応をすれば、浅井家に迷惑をかけることにもなりかねなかった。
良太は特高の取り調べに備えて対策をねった。押収された書籍は京都の古本屋で買ったことにする。買い求めたのは好奇心のゆえであり、マルクス主義者ではないと主張する。
良太は出雲の家に電報をうち、心配するようなことはなにひとつ無いと伝えた。良太は郵便局をでると浅井家に向かった。
良太は千鶴に伝えた。書物については言いぬける自信がある。しばらく会えないことになろうと、警察に問い合わせてはならない。まもなく上京するはずの忠之にも、そのように伝えてほしい。特高の件を家族にも話さないこと。
次の日、良太は指定された場所へ出向いた。係員に連れてゆかれた部屋には誰も居なかった。長い時間を待たされてから、ふたりの刑事がようやく現れた。
刑事のひとりが良太の前に腰をおろすと、無言で良太の顔をみつめた。もうひとりの刑事は良太の背後にまわった。
前に座った刑事が袋から取り出したのは、千鶴から借りた書籍だった。
「これに見覚えがあるだろう」と刑事が言った。
「あります」と良太は答えた。
「誰のものだ」
「僕のです」
「どこで手に入れた」
「古本屋です」
「どこの本屋だ」
「京都です」
「京都だと……何のために京都へ行った」
「東京へ来るときに、京都で途中下車しました。京都を見物するためです」
「これを買った店の名前は」
「京都を歩いたのは初めてだったので、店の名前も場所も覚えていません。街で見かけた古本屋にありました」
「特高を甘くみるな。これはどこで手に入れた」
「さっき言った通りです。京都です」
刑事がもう一人の刑事に合図した。
頭を激痛がおそった。
刑事の声が聞こえた。「そんな嘘が通ると思うな。これをどこで手に入れた」
「京都の古本屋です。嘘ではありません」
刑事が「おい」と言うなり、またもや激痛におそわれた。
「これはどこで手にいれた」と刑事が言った。
「京都の古本屋で買いました。歩いた所を思い出しながら探せば、たぶん見つかると思います。信用できないなら、京都に連れて行ってください」
「意外にしぶといな」刑事が顔を近づけた。「お前等は利口かも知れんが、この非常時に何の役にも立っとらん。こんな本を読んでいる奴はな、役に立たないどころか非国民だ。これを買ったのは何のためだ」
「純粋に学問的な興味からです。僕は共産主義者ではありません」
「純粋に学問的な興味……学問的な興味で読んでいるわけだな、仲間と一緒に」
「そういうのを読んでる友達はいないです。話題になったこともありません」
刑事が眼をあげ、「おい」と言った。
首に力をこめると同時に激痛に襲われた。
「調べはついているんだ。へたな作り話はしないことだな」
刑事はしばらく無言で良太を見つめてから、「仲間は誰と誰だ」と言った。
「そのような仲間はいません」と良太は答えた。
それからも数回なぐられたが、良太はひたすら痛みに耐えた。
良太は刑事を睨みつけて言った。「殴られたくないために、無実なのに嘘の供述をしたなら、どんなことになりますか。恐ろしい罪を警察が犯すことになりますよ」
「しらを切り続けたらどうなるか、教える必要がありそうだな」
刑事はしばらく無言のまま、良太を観察するように見つめた。良太は必死で刑事を睨み続けた。俺は共産主義とはどういうものかを知ろうとしただけなのだ。このように理不尽な取り調べを受けるいわれはない。抗議の姿勢を保たねばならない。
刑事が口をひらいた。「一晩かけてじっくりと反省するんだな。案外に強情だが、無事にここを出るにはどうすりゃいいか、一晩もあればわかるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、良太は絶望的な気分に襲われたが、すぐに気をとりなおした。俺は疚しいことをひとつもしていない。取り調べに対する態度を変えなければ、特高は俺を釈放せざるを得なくなるだろう。
つぎの日、良太はくりかえし主張した。問題の書物は好奇心にかられて買ったものにすぎない。どうしても疑うというのであれば、自分を京都へつれてゆけ。
良太は午後になってようやく解放された。どうやら無事にすんだと安堵しつつも、特高に対する憤りと憎しみがつよく残った。
すぐにも千鶴に会って安心させたかったが、頭の傷が髪に隠れるまでは、浅井家を訪ねたくなかった。
考えた末に、良太は千鶴に手紙を出すことにした。忠之から下宿の住所を記した紙を渡されていたので、浅井家の宛て先はわかっていた。
特高に監視されているなら、投函した手紙が調べられる可能性がある。良太は心しながら文字をつづった。同じ下宿の学生に対する嫌疑が事の発端であり、自分については単なる誤解であったこと。かたづけたい用事があるので、浅井家を訪ねるのは数日先になること。
封筒に記した千鶴の名前を見ていると、すぐにも千鶴に会いたくなった。千鶴は不安におののいているはず。すぐにも会って安心させてやりたい。笑顔の千鶴と言葉を交わしたい。
良太が特別高等警察に出頭してから数日後、千鶴は良太からの手紙を受けとった。
良太が釈放されたことを喜びながらも、千鶴の不安は消えなかった。疑いが晴れたというのに、どうして良太さんは来てくださらないのだろうか。手紙には心配するようなことは無いと書かれているが、ほんとうに安心できる状況であろうか。
良太からの手紙が届いた日の午後、出雲から忠之が帰ってきた。相談する相手ができて心強くはなったが、忠之から慰められても、千鶴の不安がやわらぐことはなかった。
「俺が明日から講義を受けること、良太も知っているから、大学で俺に会うつもりじゃないかな。明日は早めに大学に行くよ」と忠之が言った。