アクリルの傷痕
その人物を最初に見た感想は、「礼儀正しい好青年」だった。
これまでに面会したどの被疑者──世間でいうところの「犯罪者」──よりも、礼儀正しく、丁寧だった。
中肉中背で、どこかほっそりとした肩幅。ひげは丁寧に剃ってあって、端正な顔立ちと相まって、清潔感を漂わせている。
「この度、貴方の裁判の弁護を担当することになりました西田です。よろしくお願いします」
「入江謙悟です。こちらこそ、よろしくお願いします」
入江謙悟。
それがこの好青年のような見た目をした人物の名前だった。
「早速ですが、いくつか確認させていただきますね」
「はい」
しっかりとした、礼儀正しい返事。これまでに面会してきた被疑者たちの中では、マシな部類に入る。
「あなたは、2017年10月31日、下校中だった女子児童──永澄香織さんを尾行し、彼女が自宅のあるマンションのエントランスに入ったところで、背後に駆け寄り、持っていた縄で首を絞めて殺害した。これに間違いは、ありませんか?」
「はい」
「警察の取り調べでは、以前からこの付近を徘徊していた、とのことですね。調書には、犯行現場の下見ではないかと推定されていますが、これに、間違いはありませんか?」
「はい」
「被害者──永澄香織さんと面識はありましたか?」
「ありません」
全て即答。
淡々と回答しているが、その実ただの見境なしの通り魔的犯行の肯定。仕事柄慣れているが、こうもあっさりと肯定されると、どこか浮世離れしているような感覚に陥りそうになる。
質問を続ける。
「つまり、最初から永澄香織さんを殺そうとしていたわけではない?」
「はい。私は、正直にいうと、あの付近にいる女子小学生であれば、誰でも良かったです。たまたま、あの子を見つけて、『これにしよう』と」
「どうして、女子小学生を殺そうとしたのですか?」
入江は右手で頭を一度掻いた。
「別に、性欲が昂ったとか、そんなヤバい理由ではないんですよ。ただ、女子小学生を見ると、自然と目が向くんですよね。赤いランドセルも、ひらひらしたフレアがついたお洒落なスカートも、僕が掴めば折れてしまいそうな、細い腕も────なんだか、とても手折りたくなるんです」
「手折りたく、なる?」
西田は思わず反芻する。
てっきり、食べたい、とか、犯したい、とかそういう言葉が出てくるかと思ったのだった。手折りたい……入江の言うように性欲目的ではない……のだろうか。
「はい。あの頃の私は、学生で、帰宅部だったんです。だから、登校と下校の時間が重なってて。二回、僕は彼女たちを見れたわけです。だからなのかな────朝、起きる前に、微睡みの中で、僕は彼女たちを、顔は見えなかったけれど、あの時みたいに、後ろから襲って、ある日は首を絞めて、ある日は百均の果物ナイフで刺して、ある日は、その子の上着で首を絞めて、、、とにかく、何日も、何回も、夢と現の狭間で、彼女たちを傷つけた。とても小さくて、か細い抵抗が、とても愛おしかった。とても可愛らしかった。でも、一番はやっぱり、あの日だったかな」
「あー……」
思わず口から声が漏れる。
どうやら、ナナメの方向に拗らせたようだ。
最後は言わない方が一般的に心証悪くならないのになぁ……と西田は思ったが敢えて口にはしなかった。
「我慢できなくなった、ということですかね?」
「それは違いますね。というより、いつかはやるだろうって感じでした。今日はしなかったけども、でも、明日は?そんな感じで、毎日、考えていました。なんというか、例えが不謹慎で申し訳ないんですけど、今日のお昼ごはん何にしようかな、って思って、でも、所持金は少ない。そんな時に、ふとしたきっかけでマミバを見かけて、あぁ、今日はあそこでバーガー食べよう。って決める風な」
「なるほど……」
昼ごはんを決めるような感覚。
それで殺されるのは永澄香織には堪ったものではないだろう。
しかし、被疑者たち……彼らにはありがちなことだった。他人の命や身体をモノのように捉えるのは。心理としてはあるのだろうが倫理としてはアウト。
破綻している。
「質問を変えますが、永澄香織さんを殺害したことに後悔や反省はありますか?」
そこで入江は不思議そうな顔で西田の顔を窺う。
「……反省文を書かされたと思うんですが、お読みになっていませんか?」
「いえ……私はあくまであなたの言葉を聞きたいので」
反省文。
拘置所で書かされる代物だが、西田は正直こんなものは紙屑だと思っている。当てにならない。
なぜなら、それは整理された言葉、外向けの綺麗な宣伝に他ならないのだから。
「弁護士としての」西田としては、別に、反省してようがいまいが、そんなことは至極どうでもいい事なのだ。
大事なのは、事実の確認と、被疑者の反省の度合い。情状酌量の余地があるか否かを見たいだけなのだから。
それに加え、「一般人としての」西田は、被疑者の口から語られる本音を耳にしたかった。
これは、職業がそうさせたというよりも、昔から持つ疑念だった。
朝のニュースで、ブルーシートを被せられた被疑者と、その下に表示される無機質なテロップ。
そこには「事実」」が居て、「人間」が居なかった。世間でいうところの犯罪者────彼ら彼女らが何を考えているのか、子どもの頃から、疑問に思っていたのだ。
入江は少しの間、頭を下げ、沈黙した。
言葉を選んでいるようだった。
そして、頭をゆっくり上げると、おもむろに口を開く。
「……遺族の方々は、怒っているでしょうね。あの子だって、死にたいとは思っていなかった筈だ」
「そりゃそうでしょう」
「でも、僕はあの日のことを後悔しない。反省もしない。するべきでは、ない」
「……?」
「分からない、ですかね。ですよね。これは僕の持論なんですけど、世の中でほら、犯罪者って皆んな後から『後悔してる』とか言うじゃないですか。僕も犯罪者ですけども……。ただ、それ、間違ってると思うんですよね。『後悔している』のなら、『殺さなければいい』これだけじゃないですか。その程度の手のひらで、彼ら彼女らを殺すのは、彼ら彼女らが浮かばれない……」
「それは確かに……」
「人は殺されるなら、殺されるべき何かがいると思うんです。動機とかじゃなくて、もっとこう、、、そうですね、僕が言うなら、、、」
そこで入江は言葉に詰まる。西田には決して言語化も理解も出来ないであろう「何か」が、入江の中から溢れ出そうとしている。
「ぼくのために……しんだ……」
「えっ?」
「……僕のために、死んだ。そうだ。それだ……、僕の為に死んだ。彼女は、僕に殺された。僕が殺した。僕が僕の為に僕に彼女は殺された。であるなら、僕は彼女の死を、『後悔』という形で『否定』してはいけない……それでは、彼女が何のために死んだのか分からなくなる」
それは、彼の中で、彼自身もまだ整理できていない、感情と、独特の倫理観。入江の口から矢継ぎ早に紡がれるそれは、だんだんと輪郭を捉えていく。机が、床が、アクリルの窓を挟んで、微かに震えだす。
「僕は、、、彼女の悲鳴を知っている。彼女の温もりを知っている。彼女のか細い抵抗を知っている。僕は彼女のたなびく髪を覚えている。僕は彼女の冷たくなっていく身体を知っている。僕は、、、彼女の魂を心に刻んだ」
その揺れは、次第に肥大していく。
「だから、僕は彼女の死を否定してはいけないし、死刑を望んじゃいけない。永遠の牢獄の中で、彼女を────永澄香織さんを心の最奥に刻み続けなきゃいけない。その断末魔を、聞き続けるべきなんだ」
ばたばたばたばたばた……!
「……死刑か否かを決めるのは君じゃない。裁判官と、裁判員たちだ」
入江の貧乏ゆすりが、止んだ。
彼の口から語られる奇特な倫理観。犯罪観。
西田は結局、平凡な事実を横から挟んで止める事しか出来なかった。
「すみません。つい語ってしまいました……」
彼は肩を僅かに落とす。喋りすぎたことを恥じているようだった。彼の中から溢れ出していた「何か」は、それまでの奔流がまるで嘘かのように引っ込んだ。
「とりあえず、今日の面談はここまでにしておくよ。これから何度かお邪魔するけど、良いかな?」
「はい。よろしくお願いします」
西田は書類と筆記用具をバッグにしまい、席を立つ。
監視役の刑務官に一礼して、面会室を後にする。
ギィ……ッ、バタン。
建て付けの悪い扉を閉めた後、西田は壁にもたれかかる。
今まで西田は数々の刑事裁判を弁護士として担当してきた。傷害、傷害致死、強制わいせつ、強姦、そして──殺人。
その中には理解できる動機もあった。
理解できない動機もあった。
太々しく反省しない被疑者が居た。
後悔で怯える被疑者が居た。
様々な被疑者を見てきた。
様々な被疑者を弁護してきた。
しかしこれは何だ。
入江謙悟。事件当時20歳。
事件前日──2017年10月30日まで、未成年の大学生だった、少年。
礼儀正しい、「事件」さえ起こさなければ、普通の好青年。
しかし────その礼儀正しさに混じる、どこかねじ曲がった倫理観。それはもはや一種の宗教のような倫理観だった。
西田は、基本的に事件関連のニュースを見ない。新聞も読まない。SNSも、ネットも、事件関連の話題は避けている。
それは、自分がもし担当する場合に、余計な先入観を差し込まない為の西田なりの流儀だった。
西田の中で、子どもの頃の記憶が呼び起こされる。
「普通に見えたのに」「とてもそんなことする人には見えなかった」「とても優しい人でした」事件の度に、容疑者の親族や、友人や、クラスメイトが、口にする言葉。
彼らは「知らなかった」だけだと、弁護士になってから西田は学んだ。彼ら彼女らが容疑者と呼んだソイツの「別の側面」を。
その西田でさえ、入江謙悟のねじ曲がった倫理観は、なかなか咀嚼することが出来なかった。
────永澄香織を心の最奥に刻み続けなければいけない────
入江謙悟は、今日も夢に見たのだろうか?
永澄香織を、あの日の出来事を、思い出して、そして「刻んだ」のだろうか……?
窓を見上げると、白い雲に混じって、西の方から黒雲が迫っているのが見えた。これから夕立が降るのかもしれない。そう思った時、西田は傘を持ってくるのを忘れたことに気付いた。
さてどうしようか、と思った時、ふと、指に小さな熱い感触を覚える。
いつ切ったのだろうか……?
小指から──血が滲んでいた。
赤から朱へ、そして、錆色へ。
(了)
この物語はフィクションです。作中に同一の名称があったとしても、実在する人物、地名、団体等とは一切関係ありません。