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私は再び森村邸を訪れていた。
バイオテクノロジー研究所の現所長である木戸原の行なっている研究は、すでに引退してしまった前所長である森村老人が始めた事だ。
私は事の顛末を、いや、これから起こりうるであろうことの推測を、森村老人から聞き出そうと思っていたのだった。
今日は居間ではなく、書斎へと通された。
あの陰気な家政婦の姿が見えないのと何か関係があるのだろうか。
普段はあまり他人を通さないというその書斎は、分厚いハードカバーの洋書や科学の専門書などで埋れていた。
なんとなくデジャヴを感じたのは、ここが研究所の所長室と雰囲気が似ているせいかも知れない。
もしかしたら、あの所長室にある蔵書も森村老人の置き土産なのかも知れないな。私はそんな事を考えながら、勧められるがままに壁際にあった木製の小さな椅子を引いてきて、書斎の机の前に置き、腰をかけた。
「先日、木戸原所長の実験を拝見しました」
私は率直に本題から切り出した。
「森村教授はあの実験について、どのようにお考えなのでしょうか」
森村老人は一瞬、私の眼を覗き込むようにして、片眉を上げた。
「それは、今は……ということですかな?」
「ええ、はい、そうです。今はどうお考えなのかと」
「そうですな」
森村老人は椅子の背もたれに深く体を沈めると、煙草に火をつけ、少しの間、物思いにふけるようにして紫煙をくゆらせた。
「あれは失敗です」
「失敗……ですか」
「ああ、そうだ、失敗だろう。そう考えてますよ。今ではね」
「そうでしょうか。とても面白い試みだとは思いますけど」
「面白いには面白いでしょう。私自身、あの研究の成果が実用化されれば、生活が、医療分野がこれまでと一変するとも考えました。体の不自由な人間も、何の障害もなく生身の肉体以上の体を手に入れることも可能になる。究極的には不老不死にも近付けると、ね」
「不老不死……」
「ええ、そうです。その人間の脳にある記憶や人格そのものをデータ化してしまえば、肉体は必要なくなのではないかと思ったのですよ」
「実現出来れば、凄いことだと思いますが」
「一条さんは今時の人だから、携帯電話なんかの、何ですか、えーっと……アプリとかいうやつをご存知でしょう?」
「ええ。でも、アプリといっても色々ありますけど……」
「AIはどうです、ご存知かな」
「AIアプリですか」
チャットなどで、まるで人間相手にやり取りするような返事が返ってくるAIアプリは一時期随分と流行った。
私はその携帯アプリにはすぐに飽きてしまって以来そのままだが、家庭用機器やカーナビなどと連動して活用している人は多いだろう。
むしろ今はそっちの方が主流かも知れない。
私は思いつく限りの名の知れた幾つかのAIアプリの名をあげてみた。
「AI、人工知能というものは、蓄積されたデータをもとに会話などから関連するワードを引っ張ってきて答えるだけが精々でした。今はもっと発想飛ばすことが出来るようになりましたが、それでもそこには、まだまだ人間が持つ機転や機微、発想といったものはありません。AIに俳句をやらせたり、なぞなぞを解かすのが難しいのはその差でしょう。発想を大きく飛ばすということが出来ないのですから」
「今はまだ、というわけではないのですか?これからもっと技術が発達してからとか」
「それは分かりませんな。だがまあ、今のところ難しいでしょう。一人の人間の発想力をAIで再現しようとすれば、膨大なデータが必要となりますんで。それこそアインシュタインのような天才的発想がAIから生まれることは無いでしょう」
森村老人は咥えていた煙草の灰を机の上の灰皿に落とした。
「つまりです、私らが行っていた研究は無駄だった」
煙と共に大きく息を吐く。
「そう、あれと一緒なのですわ。私らがしてたことは。巨大なAIを作っていたようなもんです。指示を与えなければ、思考することもない。AIが物思いにふけったり、世界情勢を気に病んだりはせんのです」
「しませんか」
「してくれたらどんなに、とは思いますがね」
森村老人は嗤った。
「AIが自我を持たないというのは理解出来ますかな?」
「はい。ええと、なんとなくですが」
「何が足りないのか。知識は植え付けることが出来る。一人の人間より、よほどデータ量は多いでしょう。しかし、先ほども言いましたが、発想力、或いは好奇心ようなものを与えることが出来れば、人間に近くなるのかも知れませんがね」
「私たちが持ってる感覚というか、好奇心なのかな。そうですね、それって生物の特権のように思います」
なんとなく親友の顔を思い浮かべて、その言葉に私は同意した。
カズミの行動力や、旺盛な好奇心は見習いたいものだ。
まあ、それも彼女の場合は恋愛ごとに限るのだけれど。
「人というものは何れ死にます。母親の胎内から生まれ出て、おぎゃあと言った瞬間から、死に向かっているのです。死は人によって早く訪れたり、ゆっくりだったりしますがね。それでも逃れられんものです」
机の上にと視線を落とした森村老人の前には、小さな写真立てがあった。
こちらからでは写真立ての裏側しか見えないが、森村老人の表情を見る限り、多分 、ご病気で亡くなったというお嬢様の遺影が飾られているのだろう。
「人は死を超えることが可能だとお考えですか」
「究極的には、そうでしょう」
森村老人はしっかりと私を見据えて答えた。
「私が始めた研究の行き着く先は、まさしくそれでした。しかし、実験を進めていく内に、どんどん暗礁に乗り上げていったというか……それすらも気付かぬくらい、盲目的になっていたんですわ。前しか見えなかった。いつの間にか道を外れていたことにすら気付かないくらいにね」
「肉体の老化。細胞の死滅を防ぐことが出来れば、死というものから逃れられる。人の記憶や人格を経年劣化しないものに移し替えてしまえば、それは不老不死と同じではないかとね。しかし、私の考えは間違っていた」
「というと?」
「どうも人の記憶というものは、脳にあるだけではないらしいのですよ。肉体にも宿る。この手や足にも」
「体に記憶が……?」
私は思わず膝の上に置いた自分の手を見つめた。
「人には誰しも変身願望というものがあるものです。男性が体を鍛えたり、女性が化粧するのもそうでしょう。自分に自信をつけるためです。最近なんかじゃ、整形なんぞも流行っているようだ」
「ええ、確かに」
「姿形が変わると性格も変わるものです。気弱な者は気が大きくなり、見てくれに引け目を感じていた者は大胆になる。総じて気が強くなる。自分に自信がつくのでしょう。我が儘、粗暴にもなったりする。人にもよりますがね」
「私も化粧無しで人前に立つのは、ちょっと自信がありません」
「人はたったそれだけの変化でも変わってしまうということです。だとしたら、身体が全く変わってしまったら?
見た目だけでなく、身体の造り全てが変わったら?」
「それは……」
「それはもう、人とは言えんでしょう」
森村老人は灰皿の上でくすぶっていた吸殻を揉み消し、新しい煙草に火をつけた。
私はなんだか居心地の悪さを感じていた。
この会話の行く着く先はどこだろう。
「何年も前ですが、娘が病にかかりましてね。徐々に体の自由が効かなくなる病気です。最後には呼吸もままならなくなってしまってね」
私はとっさの言葉が出ずに黙って頷くことしか出来なかった。
「そうした者を何とかしようと始めたのです。あの研究は。医療を超えて科学の分野にも足を突っ込んでね。しかし、出来上がったものは、アレだった。いや、私がいた時には、まだ完成していなかった。木戸原が続けたんですわ。もうやめろという私の言葉にも耳を貸さずにね」
「何れにせよ、研究を続けるには金が必要でしてね。貴女が想像できないくらい莫大な金が湯水のように無くなるんですわ。となると、当然資金繰りが重要となります。その点、日本という国は慎重なんですが、アメリカ辺りは違うようでね。こういったことに金を惜しまないんですよ。まあ、見返りを大きく求められるのですがね」
「というと?」
「一条さんにも想像がつくでしょう。アメリカという国がどうやって大国になったのかを考えれば」
「軍事転用ですか」
「その通り。当然、研究にも口を挟んできます」
「今の、木戸原所長が続けている研究がそれだと?」
「軍事転用の為の技術云々を木戸原がそこまで真剣に考えているとは思いませんな。彼はちょっとこう、盲目的なところがあるのでね。出資者が口出ししてくるのでさえ、些細な事だと思っているでしょう」
私は木戸原の顔を想い浮べた。
丸顔で白髪の小柄な男性。
自信に満ちた口元と意志の強さが表れている眼が特徴的だった。
「ああ、すみませんな。茶も出さず長々と」
何本目かの煙草に火をつけた後に、ふと思い出したように森村老人は言った。
「あ、いえ、お構いなく」
「今日は家内が出ておりましてね。家の事はあれが全部やってるもんで、勝手がわからんのですわ」
「あ、そうでしたか」
あの、家政婦だとばかり思っていた陰気な女性は、森村老人の奥様だったのか。
幾度となく伺っていたのに、紹介されなかったものだから、すっかり勘違いしてた。
「あの……それでは今後、あの研究はどのような方向に進むのでしょうか。憶測でも結構ですので、森村先生の考えをお聞かせください」
「そうですな」
森村老人は大きく一つ、息を吐いた。
「木戸原は元々、義体……我々はギミックと呼んでいますが、それの開発をしていたのです。奴が私の研究に興味を持ったのは、娘が亡くなる直前でした。奴は脳機能の停止が完全な死と考えていた。それは私も同じですが」
「では、」
「ええ、先ほども話したAI技術。記憶、自我の完全移植。それと、奴が以前やっていたギミックとの融合でしょう」
「人の、肉体を捨てるということですか?」
「究極的にはね」
「そうなると本当に、漫画のようなお話ですね」
「アメリカが求めているのはそれだけじゃない。AIとドローン技術を使い、痛みを知らない疲れ知らずの体を持った兵士の量産。或いは、自らの意思を持った兵器の作成」
「そんな……」
「それらを可能にすることが出来るのです。あの技術が完成しさえすればね」
・
私が書いたものが記事になったのは、それから数ヵ月後のことだった。
月刊誌ではなく、年に一度発行の専門誌の方だったので、発行部数もさほど多くはなく、反響も今のところ無い。
研究所への取材の後、森村老人と交わした会話の内容は、余りにも憶測が過ぎるし、本来、森村老人は取材の対象ではなかったため、記事にはしなかった。
デスクにも森村老人の話はしていない。
まあ、話したところで何を言われるかは想像に難くないが。
いつものようにひと仕事終えたという感じは余り無かった。
何か心の奥の方でモヤモヤとしたものがわだかまっていて、でもそれが何なのかは自分自身、上手く説明出来ずにいた。
こんな時は食欲に身を委ねるしかないと私は勝手に納得し、仕事終わりを見計らってカズミにメールを送った。
カズミからは直ぐに『今日は無理だけど、明日の夜ならOK!』と返事が返ってきた。
本当なら今日にも愚痴を聞いて欲しかったのだけれど、こればっかりはしょうがないと諦めて、家へと向かう帰路の途中、私は電車に揺られながらネットで明日行く店の情報を調べた。
翌日。
逃避癖のある漫画家の原稿をもらうために、一緒になってホテルに缶詰めとなっていたというカズミの目の下には見事なクマが出来上がっていた。
「全く、勘弁して欲しいわ!」
カズミが生ハムサラダにフォークを突き刺しながら悪態をついた。
今日は愚痴を聞いてもらおうと思っていたのだけど、さっきから愚痴を聞いているのは私の方だ。
今日ばかりはイケメンのスペイン人も目に入らないようだ。
「こんな日はジュダ様に限るわね」
「ジュダ様ってなんだっけ」
「やだもう、前に教えたでしょ! メタルの神様。メタルゴッドよ。親友の趣味くらい覚えなさい」
「そうだったね、ごめん」
カズミは長年のメタルファンで、特にジューダスプリーストというバンドが好きらしい。私にはハードロックとヘビーメタルの違いもわからないけど。
前の彼氏と別れた原因が“音楽性の違い”というのには、流石に相談を受けながらも、笑いを堪えるのに必死だった記憶がある。
カズミ曰く、サザンやミスチルなんて本物じゃないらしい。カラオケで歌うためにヒット曲ばかりチェックしている男には興味がないそうだ。
まあ、私からしたらサザンはちょっとオジサンくさいけど、ミスチルくらいなら許容範囲だと思う。
そういう私自身は、音楽といえばジャズとかヒーリングミュージックだけで、専ら疲れを癒すためにかける、リラックスする為のものでしかない。
ジャズは好きでよく聞いているけど、覚えたアーティストの名前はサラ・ヴォーンとサッチモくらい。そういえばサッチモはあだ名だったっけ。
「とにかくさー、もう、描くのが遅いのなんの」
付き出しで出されたスパニッシュオムレツは冷めていたけど、とても美味しかった。
出来立てだったら多分もっと美味しいのだろう。
「ネームは出来てんのに、ペン入れが進まなくてさー」
私は店員に手を挙げて、私たち二人にワインのお代わりと、タコとじゃがいものピンチョスを頼んだ。