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ツァラトゥストラの火  作者: MOJO
2/7

※※

 翌週、編集室で書類をまとめていると、私に電話があった。

 バイオテクノロジー研究所。例のところからだ。

 電話受けた社員から受話器を受け取るために席を立つ。外部から電話がかかってくることがほとんどないので、この部署には電話機がデスクの沢田のところと電話対応を任される新入社員のところにあるだけなので、こうした電話があると否が応にも目立ってしまう。

 案の定、沢田がデスクトップPCのモニターの向こうから好奇心の詰まった視線を送ってきたが、私は素知らぬ顔で受話器を受け取った。

「お電話代わりました。一条です」

「バイオテクノロジー研究所の立脇と申します」

 受話器の向こうから聞き覚えのある声がする。

 先日の研究所にて案内をしてくれた女性のようだ。

「木戸原が見せたいものがあるとのことで、出来ましたら本日にでも、一条様にこちらまでおいで願いたいとのことです」

 私は来訪の時間を確認する。

「わかりました。すぐに伺います」

 そう答えて私は受話器を置いた。

「なんだ。どっか行くのか」

 出かける準備をしていると沢田が声をかけてきた。

「例のバイオテクノロジー研究所のところです」

「なんだ、お前、まだそれやってたのか」

 沢田かわざとらしい溜息を吐いた。

「そういうのはな、旬ってもんがあるんだよ」

 沢田はポップコーンの袋に手を突っ込んで、いくつかを口に放り込みながら言った。

「いつまでも同じことやってんと読者に飽きられるぞ」

 私は苦笑しながら軽く頭を下げた。

 やっぱり沢田はこの部署に向いてないんじゃないだろうか。化学誌を週刊誌や何かと勘違いしてるみたいだ。

 こんなデスクを置く社の役員たちには苦情の一つも言ってやりたいものだが、そんな機会も度胸も私にないのはある意味、仕様というものだ。

「タクシー代、出ないからな」

 お決まりのセリフを背に受け編集室を後にした私は再びあの研究所へと向かった。



  ・


 今日はいつもと違う。

 助手が朝からなんだか落ち着かない様子で部屋の中の物を動かしたり、どこからか花瓶を持ってきてコーヒーメーカーの横に置いたりしている。

「花を買ってこなきゃな」

 何がいいだろう、などと呟きながら指で眼鏡を何度も上げ下げする姿を見て、僕は彼に声をかけた。

「今日は何かあるんですか」

 助手は僕の質問に振り返りもせずに頭を掻きながら答えた。

「お客さんが来るんだ」

「女性ですか」

「えーと、何でそう思うんだい?」

「その花瓶は花を飾るものではないのですか」

「まあ、そうだけど」

「あなたが気を使う相手といえば、ここでは教授くらいです。ですが、教授の為に花をいけるわけではなさそうです」

「忘れてないかい?ここにも一人、女がいるんだぜ」

「花より団子という言葉があったと思いますが」

 僕は太った女を思い浮かべながら言った。

 今日はまだ彼女の姿は見ていない。

「ああ、ハハハ。そうだな、ハハハハ」

 助手は心底おかしそうに笑った。

 振り向いた彼の目尻に涙が見える。

 よほどおかしかったのだろうか。

 彼の様子を見て、僕は少しだけ太った女に悪いことをしたように感じた。

「教授が今、相手してるみたいだよ」

 ようやく笑いの収まった助手が言う。これから来るという客のこと言っているのだろう。

「ちょっと売店で花を買ってくる」

「わかりました」

「それから、」助手は咳払いを一つして「お客さんが来たら、君は黙っていること」

「黙っているのですか」

「僕らが話していいというまではね」

「……わかりました」

 そう言うと助手はもう一度花瓶の方を見て「どんな花がいいかなぁ」と呟きながら扉へと向かった。

 扉の向こうへと消えていく助手の背中へとカメラをズームする。

 助手の背中越しに一瞬、部屋の外が見えた。

 扉が閉まる。

 部屋に僕以外、誰もいなくなった。

 僕は先ほど見えた"外"の世界をデータから取り出し眺めた。

 助手の画像を消し、背景をクローズアップする。

 奥の方で作業する数人の姿や、何かの機材、部屋を仕切る透明のプラスチック、或いはガラスの壁が見える。

 僕は以前に見た"外"のデータとともにメモリのファイルに保存した。


「何度来ても、この光景には驚かされますね」

「そうですか。私どもは慣れっこになってしまいましたが」

 今日も来客があった。

 以前に来たことのある女性だ。

 確か、名を一条あかりと言ったはずだ。

 この場所で唯一、僕が知る"人間"の名前。

「この間はお聞きしませんでしたが、彼はどこまで記憶しているのですか」

「どこまでというと?」

「生前の、といいますか、こうなる以前の記憶のことです」

「脳の方には損傷が見られなかったのですがね、事故の直後の記憶と、それ以前の自分自身について思い出せないようですな」

「自分のことを」

「70~80%といったところでしょうか」

 教授が女性から僕へと視線を変えた。

「記憶というものは案外、身体と連動しているのかも知れません。何かに触れたり、或いは体の痛みなどから呼び起こされる記憶もあるでしょう。私は視点の位置なども関係してくるのではと考えています。これなんかは」と言って教授は僕のカメラを指差す。

「彼個人のデータから、実際の目の位置に合わせて設置しております」

「なるほど。これが彼の本来の高さなのですね」

 彼女は僕のカメラの上へと手を差し伸べて言った。

 僕はなんとなく彼女からカメラを背けた。

 何故だろう。

 なんだかモヤモヤする。

 どこか此処にはない、失ってしまった体の一部で。


  ・


 私の正面に見えるのは黒い台座に乗った剥き出しの人間の脳だった。

 台座は六角柱になっていて、台座の上に厚いガラスケースのようなもので覆われた脳がある。

 ガラスケースの中は透明な液体で満たされていて、台座から脳へと何本かの細い管の様なものが繋がれていた。

 台座の表面をよく見ると、六つの面それぞれに多数の分厚い板が刺さっていて、その一つ一つはLPレコードくらいの大きさがあった。

 前回お邪魔した時に木戸原所長から、この巨大な黒い板がメモリーカードだと教えてもらった。

「脳に直接情報を送り込むんですわ。そうすることによって、本来記憶し得ないことも体験、学習させることが出来るんですよ」

 その時、木戸原はそう説明していた。

 つまり、あの大きなメモリーカードの一枚一枚が、彼の新しい世界の一つ一つと繋がっているわけだ。

 私が台座の側面を見るために横の方へと歩み寄ると、それに合わせてカメラが動いた。

 彼が、私のことを観察しているのがわかる。

 私の動きに合わせて、ウィーンという静かな駆動音が聞こえた。

「そもそも、なぜ私なのでしょうか。例えば、政府の人間とか、権威ある方なんかの立会いが必要なのでは?」

 そう訊く私に木戸原は笑って答えた。

「まあ、最終的にはそうでしょう。ですが、まあ、これは前段階として必要なことなんですよ。貴女が、というのはたまたまでしたが、森村が気に入ったということもありますし、それに"彼"に会わせたかったのでね」

「"彼"に私をですか?」

「ええ。私ども研究者以外の外部の人間との接触が必要だと常々考えていたのです。"彼"の経験の為にもね」

「なるほど」

 私はカメラを見上げる。

 湾曲したカメラのレンズには歪んだ私自身の姿が見えた。

 その時、壁にかかっている電話が鳴った。

 内線通話だろうか。

 私たちと同じ部屋にいた技術者の男性が受話器を取り、通話の相手と一言二言交わした後に木戸原の名を呼んだ。

「失礼」

 木戸原が私の傍を離れ受話器を受け取りに向かう。

幾つかの短いやり取りの後、木戸原は受話器を置いた。

「すみませんが、急用が出来ました。一時間ほどで戻るので、ここでお待ちいただけますか」

「ええ、私なら大丈夫です」

「では、君。一条さんの相手を頼む」

 木戸原はそう言って先ほど電話を受け取った助手に声をかけ、部屋を出て行った。


 木戸原が扉の向こうへと消えて行くのを見送ってから、助手がこちらを振り返り、少し強張ったように口元を歪ませた。

 女性の相手は慣れていないのか、それとも人見知りなのだろうか。この男性にはそんな印象を受けた。

 二人きりになってしまったので余計に緊張してしまっているのかも知れない。

 男性の緊張をほぐすために私は努めて笑顔を作り、話しかけた。

「こんにちは。この間もお見かけしましたけれど、ご挨拶がまだだった気がします」

 そう言って私は軽く頭を下げた。

「こちらにお勤めになられて長いんですか?」

「ええ、まあ」

 助手は私の問い掛けに、口の中でモゴモゴと呟くように返事をした。

「これの……あ、いや、"彼"の世話係のようなものですが。ここの研究所に来て、十年近くになります。今の所長の手伝いをするようになってからは、四年くらいかなぁ」

「そうですか」

 私は振り返り、台座の上のガラスケースに入った脳を眺めた。

 そうだ、この部屋には"彼"も居るんだった。

 物言わぬカメラが私を見返している。

 厳密に言えば、二人きりでは無いのか。私はなんだか笑いがこみ上げて来そうなのを必死で堪え、咳払いをしてごまかした。

 やっぱりこの男性は女性が少し苦手なのかも知れない。

 そう感じた私はあまり相手のことを見過ぎないように気をつけることにした。


「一条さん」

 しばらくの雑談の後、助手が私の名を呼んだ。

「所長のことですが、何かお気づきになられたことは?」

 それまでの軽い口調ではなかったので、真面目に答えなきゃいけないと思い、私はここに来てからの木戸原の姿を思い浮かべた。

「そうですね、強いて言えば、この部屋に来てから口調が変わったというか、少し雰囲気が変わったように感じるかな。あ、と言ってもなんとなくですけど」

「分かりますか」

 助手は苦笑した。

「所長はここに来るとちょっと人が変わるんです。前任者の森村教授に影響を受けすぎて、どうも本人になりきってしまうようなんです」

「森村先生に、ですか」

 そう言われてみれば、似ているかもしれない。

 何となく年齢以上に感じさせる口調も、森村老人の愛用の煙草と木戸原が吸っていたものも銘柄が同じだった。

「あ、そうだ。一条さん」

 助手が後ろを振り返り、他に誰もいないことを確認する。

「ここでは所長のことを呼ぶ時は、所長ではなく教授と呼んでください。特に直接名前を呼ぶのは、絶対にダメです」

 面倒なことになりますから、と助手は言って、眉間に縦皺を作り、真面目な顔で口の前に指を立てた。

 そういえば、この部屋に来てから木戸原を所長と呼ぶと怪訝そうな表情をすることが度々あった。

 それはつまり、そういうことなのだろう。

「森村先生とは?」

「ええ、今の、木戸原がここの所長になる前にお世話になりました」

「この研究も元は森村教授が始められたのですよね」

「ええ。臓器移植から始まり、欠損部位の複製や細胞の活性化などを行っていました」


「一条さんはALSという病をご存知ですか?」

「ALS……確か、筋肉が固まってしまうのでしたっけ」

「そうですね、正確には神経繊維が徐々に壊れて、神経の伝達が途絶えてしまう病気ですね。乱暴な言い方をすると、脳死の逆といったところでしょうか」

 ALSはかなりの難病で、記憶が正しければ、現代医学でもまだ完全な治療法は見つかっていないはずだ。

 私は頷いて、話の先を促した。

「森村教授は元々そういった体の不自由な方の治療法を研究なさっていました」

「それは、先進医療というやつですよね。そういった方が、どうしてバイオテクノロジーへと向かわれたのでしょうか」

「きっかけは娘さんらしいんです」

「娘?森村先生のお嬢様ということでしょうか」

「ええ、そうです。何年か前に亡くなられたのはご存知ですか」

「お亡くなりに……いや、それは知りませんでした」

「先ほど話したALS。森村教授の娘さんがそれだったとお聞きしています。最後の方は瞬きすら出来なくなって、安楽死されたそうです」

「安楽死?」

「ええ」

「それはどうして」

「娘さんの意向だったそうです。意思の疎通が完全に出来なくなった時点で"自分"という存在は死んだと同じだと。それで、そうなった時には安楽死させてほしいと常々言われていたそうなです」

 なんて悲しい話なんだろう。

 身体を動かすことができず、思考だけが暗闇の中を彷徨うのだろうか。

 想像しただけで恐ろしい。

 そしてきっと、彼女も自分だけが停止した世界で、自分という個性が消えていくことに例えようのない恐怖を感じたのだと思う。

 もしも私だったらと考えるとぞっとする。

 それでも、彼女のような意志の強さを見せることは出来ないだろう。とても耐えられそうにない。

 いや、だからこそ死を選んだのだろうか。

「森村教授なんですが、娘さんのことがきっかけでALSの治療法の研究に没頭していったそうです、それで」と言って、助手は手を差し上げて、部屋の中央にある台座を指差した。

「脳の研究を始めました」


「彼もALS患者だったのですか?」

「いえ、彼の場合は違います。自動車事故だったと聞いています。大型トラックに巻き込まれて四肢断裂し、肋骨が折れて肺に刺さり、出血も多くて、病院に運ばれた時にはもう、既に手の施しようがなかったそうです」

「それで、ここに運んで治療を?」

「治療とは違いますがね」

 助手は声を出さずに笑った。

「彼は、法的には死んでいます」

「え?」

 私は驚いて声を上げた。

「事故現場から病院に運ばれて、しばらくして亡くなっています。彼には身寄りがなかったために、心肺停止し、医師が死亡確認した後に検体としてこちらへ移送されてきました。治療不能な身体部分を火葬して、脳の部分を研究のために使わせていただいています」

「彼は、自分がこうした実験に使われることについては……」

 助手は首をひねった。

「さあ、どうでしょうね。私もその辺の詳しいところは知らないのですが、彼は生前と言いますか、こうなる前には新薬の実験などのアルバイトなどしていたそうですから、もしかしたら生活費などのために何がしかの契約を結んでいたのかもしれません。その辺は森村教授がご存じではないでしょうか。私らは研究を引き継いだだけで、検体について知ろうとも思いませんでしたので……」

「そうですか」

 まさかこの平和な日本で、本人の許可もなく、こうした研究の実験台にさせられるなんてことはある筈はないというか、あってほしくはないのだが、本当のところはどうなのだろう。

 何れ森村老人に確かめてみたいとも思ったが、今はそのことに触れずに置くことにした。

「そういえば、この会話は彼も聞いているんですよね」

 ふと思い出して私は訊ねた。

 意識していたはずなのに、つい存在を忘れてしまう。

 カメラは動きを止め、今は私たちのことを、ただ静かに観察しているように思えた。

「ええ、ですがまあ、大丈夫です」

 助手がだらしのない笑みを浮かべた。

 いったい何が大丈夫なのだろうか。

 私はこの男性の言い方に、なんだか少し腹が立った。

 こうした研究や実験に携わっている人間は皆こうも無頓着なのか、

 それともこの男性が生来こういう性格なのだろうか。

 どっちにしろ私は、この助手をしているいう男性が好きになれそうになかった。

「彼がここに運び込まれてから直ぐに処置したのですが、亡くなってから少し時間が経ってましてね。記憶をつかさどる脳細胞の三割ほどが壊死していたそうで、こうなる前の記憶がかなりの部分抜け落ちているようなんです。特に、彼自身のことについてはさっぱりのようですね」

「彼と会話することは可能ですか」

「ええ、出来ますよ。ですが、」助手は口元に拳を当てて咳払いをした。

「教授が戻られてからにしましょう」

 壁際のエンドテーブルの上にあるコーヒーメーカーからコポコポという音が聞こえて来た。

 セットしていた水がなくなり、かすかな蒸気とともにコーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。

 助手がそちらへと歩いていった。

 カップを手に取り、コーヒーを注いでいる。

 私は教授の帰りを待ちながら、"彼"に何を訊ねようかと考えていた。


「お待たせしてしまったようですな」

 扉が開いて、部屋にいた私たちは同時に声のした方へと振り返った。

 私は空になったコーヒーカップを礼を言って助手に返し、私たちの方へと歩いてくる木戸原へと軽く頭を下げた。

「お忙しいようでしたら、日を改めますが」

「いえ、そういう訳にはまいりません。お呼びしたのはこちらの方ですし、それにもう用は済みました」

「そうですか」

「さあ、では始めましょう」

 木戸原は助手へと早口に指示を出し、準備を始めた。

 ふと気がつくと、いつの間にか白衣を着た見慣れない女性の姿があった。

 ここのスタッフだろうか。

 部屋に入ってきた時には気が付かなかったが、小柄なので木戸原の背に隠れてしまっていたのだろう。

 身長のわりにふくよかな彼女は、私と目が合うと何故か睨み返してきた。

 私は会釈で返す。

 彼女は数秒の間、目を細めてから、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。

 何か気を悪くするような事をしただろうか。

 もしくは彼女の目が悪いだけかもしれない。カズミもコンタクトを外すと凄く目つきが悪くなるし。

 私はあまり気にしないことにして、助手の二人が作業するのを黙って眺めながら、準備が終わるのを待った。


「さて、準備が整いました」

 難しい顔をして助手たちの作業を見守っていた木戸原が格好を崩して私を振り返った。

「一条さん、こちらへ」

「はい」

 小太りの女性スタッフが木戸原の手振りで高価なマッサージ機のような大きな椅子を引いてきた。

 木戸原はその椅子に座るようにと言い、私はVRのヘッドセットのようなものを手渡された。

 私が椅子に座ると、小太りな女性が後ろに回り、ヘッドセットを着けるのを手伝ってくれた。

「痛っ」

 首筋に小さな痛みが走る。

 ヘッドセットをつける際に彼女の爪が私の耳の後ろを引っ掻いたようだ。

「あら、ごめんなさい」

 軽い口調で女はそう言って作業に戻った。

 首筋がズキズキと痛む。

 血が出るほどではないのだろうが、ミミズ腫れになっているかもしれない。

 ヘッドセットで視界が遮られているので彼女の表情は伺うことは出来なかった。

 VRのヘッドセットのモニターはまだ何も映し出していない。

 私は目隠しをされたような状態で次に起こることを待ち望んだ。

「準備はいいですかな?」

 ヘッドセットの向こう側、くぐもったような声で木戸原が訊いてきた。

 私は頷き、肩を押されるがまま、シートに深く身を沈める。

 視界を奪われ、音も遮られると、自分という存在があやふやになったような気がした。皮肉にもあの小太りの女がつけた首筋の痛みだけが、これが現実だと教えてくれている。

 イヤーフォンの奥の方でブーンという静かな音が聞こえたような気がした。

 真っ暗だった視界はそれから直ぐに明るさを増していき、やがて目を開けていることも難しくなってきた。

 チチチチ、と小鳥が鳴くような囀りが聴こえる。

 ザワザワと木の葉が風になびく音。

 私は恐る恐る目蓋を開けてみる。

 世界が色を成した瞬間、自分がどこにいるのか分からなくなり、困惑する。

 私は鬱蒼と繁ったジャングルの中にいた。


 見えているのは何かの生物の視界だろうか。

 辺りからは怖いくらいに生命の息吹を感じる。

 都会の人いきれとはまた違った生命の奔流。

 これはモニターに映し出された単なる映像だとわかっていても、私は心臓が早打つのを感じた。

 ジャングルの中を私はものすごいスピードで駆けていく。

 大地を踏みしめる音が耳のすぐそこで聴こえるほど、この肉体の力強さと躍動を感じていた。

 青草の匂いの中から獲物の臭いを嗅ぎ分けるために周囲を見渡し鼻をヒクつかせる。鬱蒼と茂るシダ類を掻き分け、ジメジメとした湿地へと辿り着く。

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