※
競作用。
予め決めてた期限をとっくに過ぎた上に、完結すら出来ずに連載という形で延長になりました。ほんとスミマセン!
気がつくと僕は見知らぬ場所にいた。
そこは殺風景な空間で一面が白で統一されていた。
意識を取り戻して初めて出会った人間は、その傍にいた人間から、ただ【教授】とだけ呼ばれていた。る
【教授】は度の強い眼鏡をかけた小柄な白髪の老人で、眉間に深いしわを寄せている。
傍にいるのは【助手】のようで、【教授】からは「おい」とか「君」とか呼ばれることの多い、比較的若い白衣の男だ。
【教授】が僕に話しかけてくる。
「経過は順調かな」
まだ混乱している僕は言葉を返すことができず、彼は首を傾げて暫く僕の顔を覗き込んだ。
「あ、まだ音声の出力コードを繋げていませんでした」
教授が助手を睨みつけると、彼の言葉は後半、消え入るように小さくなっていった。
「ここはどこですか」
助手の作業が済むと、僕は教授に訊ねた。
久方ぶりに聞いた自分の声は記憶していたよりも随分と甲高く、とても不快でイラつく。
「生まれ変わった君にとって、この場所は、ただこの場所でしかない」彼は咳払いを一つして「改編、いや再生と言った方が正しいか」ぶつぶつと呟いた。度の強い眼鏡の奥の表情は読めない。
「あなたは誰ですか」
僕は少し苛立ちを隠しきれずに再び訊ねた。
助手が少し落ち着かな気に僕と教授を交互に見ている。教授はさほど気にしていないようだ。
「私はここで様々な研究をしている。だが、ここしばらくは君につきっきりでね」
教授はそう言って僕の顔の横を手で触れたり、屈み込んで体に触れたりした。
不意に他人に体を弄られて不快に感じたが、不思議と感触はなかった。
僕の視界は正面、せいぜい百二十度ほどで、首を振ることが出来ず、首から下を見ることも出来ない。頭を固定され、目の動きだけでしか様子をうかがえずにいた。
教授はそれからいくつか意味のない言葉を掛けてきた。
当然答える事が出来ずに黙っていると、助手が僕の代わりに答えたり、教授が自問自答して勝手に納得したりしているのを見ると、或いは僕の理解が至らぬだけで、それらは何か意味のある重要なことなのかもしれないとも思う。
何れにせよ彼らは僕に関心があるのだということは感じた。
しばらくして教授は助手に何事かを告げて部屋から出て行った。
助手は壁際にあるメーターとスイッチだらけの機械を触りながら、時折うめき声を上げている。
僕は自由にならない自分の体のことを気にしていた。
助手がこっちを向いたのを見計らって、僕は声をかけた。
「体が動かないんだ」
助手は一瞬、呆けたような表情を見せたが、直ぐにきまりが悪そうにに口角を歪めて「ああ」と息を吐いた。
「気づいていないのか」
彼の言葉に脳の中がざわついた。嫌な予感がする。
「教授に止められていたっけな?」
助手は「ちょっと待って」と言って部屋から出て行き、手に何かを持って直ぐに引き返してきた。
「ほら、これで見れるだろ?」
助手が手に持ったものを差し向ける。
手鏡に映った姿は記憶に残る自分の姿とはあまりにもかけ離れたモノだった。
「現在、視覚情報をカットすることが出来ませんし、データの蓄積がストレスの原因となっているのかも知れません」
「カメラのオン/オフを彼の任意で切り替えられるようにセットし直そう」
※※※※※※※※
「先日お電話さしあげました雑誌社の者ですが、森村先生はご在宅でしょうか」
閑静な住宅街にある古びた木造建築の立派な建物。
薄汚れたインターホンからは随分とクセのあるアクセントの女性の声が返ってきた。
「先生なら、今しがた、散歩に行ってくるゆうて出ていきなさったですが」
「どれくらいでお帰りになられるか分かりますでしょうか」
「さあ、いつも気まぐれですから、早うだったり、遅うだったりしよりますが……」
「そうですか。どちらまでいかれたかご存知ですか」
「いやあ、わからんです。でも、夕飯前には帰られると思いますが」
お散歩ねぇ。
一瞬、出直そうかと思ったが、東京からここままで再び出向く手間を考えると気が重くなった。
同期のカズミだったら、「仕事サボれてラッキーじゃん」なんて言うかもしれないが、最近仕事が楽しくなってきた私にとっては、移動中の無為に過ぎる時間というのが苦痛に思えて仕方なかった。
「お帰りになるまで中で待たせていただいてもよろしいでしょうか」
「はあ、いやあ、勝手すると私が先生に怒られるで……」
「そうですか。では、名刺をお渡ししますので、森村先生がお帰りになられたら連絡いただけますか」
「ああ、それなら」と言ってインターフォンが切れた。
数分ほど待つと玄関の扉が開いて、初老の女性が顔を覗かせた。
門の前で会釈をして、そのまましばらく待ったが、こちらに来る様子がないので、失礼しますと声をかけてから門扉を開けて玄関先へと向かった。
「NewWaveという科学誌の編集をしております、一条あかりと申します」
私は女性に名刺を差し出した。
女性は名乗らなかったが、私の名刺を受けとると、小さな声でモゴモゴと「ご丁寧にどうも」と言った。
女性は小柄で猫背気味な、少し陰気な印象を受けた。間近で見ると化粧気のない顔にシワも少なく、見た目の雰囲気よりも案外若いのかもしれないとも思う。
私は近くで時間を潰せそうなお店の場所を教えてもらって、一先ずその場を離れることにした。
森村邸のあるS県霞町には繁華街といったところもなく、交通の勉のよい主要な都市に出るのでもなければ、若者うけするような飲食店もアパレル店もない。
教えてもらった店は森村邸と最寄り駅との間にある年期を感じさせる個人経営の中華料理店だった。
真っ赤な暖簾を潜り、曇りガラスの引き戸を開けると、お昼には遅く、夕飯時には早い午後三時過ぎという時間の関係もあってか、店内には店主であろうか、白衣姿の年配の男性が常連と思われる男性客と一緒の席に座り、店の角にある小さなテレビの画面を見上げていた。
入ってきた私に気がつくと、店主はちょっと驚いたような顔を見せて、でも直ぐに「いらっしゃい」と恥ずかしさを取り繕うようにして席を立った。
狭い店内のどこに座ろうかと迷ったが、知らない地元の男性と隣り合わせの席につくこともないだろうと思い、五席しかないカウンター席の端に腰を下ろした。
店主が丈の短いキッチン帽をかぶり、厨房の中から様子をうかがっている。
私は店内を見渡して、手書きのメニュー札の中から少し小腹にたまりそうな物を注文した。
麻婆豆腐の単品と玉子スープ。
少し蒸し暑い今日、本当はビールに餃子を頼みたかったが、これから人と会うのにさすがにまずいだろうと諦めた。
あとで家に帰る途中にでもコンビニに寄っていこう。
そんなことをぼんやりと考えながら、店主が鍋を振る姿を横目にカバンから携帯を取り出してカウンターの上に置く。
店の奥隅に置かれた瓶ビールが入っている古いガラス戸の冷蔵庫がブーンと小刻みに振動していた。
頭上にあるテレビは今朝がたあった自動車事故の様子を流している。ニュース番組のコメンテーターが高齢者の免許の返納を促していた。
「おまたせ」
それほど待たずに注文の品ができたようだ。
厨房の中から店主差し出してきた料理の器を受け取って、私は湯気の立つ豆腐めがけてレンゲを差し入れた。
携帯が鳴ったのは中華店に腰を据えて一時間ほどしてからだった。
飛び込みで入って大して注文もしていないのに、随分と長居をしてしまった気がする。
お店のご主人とは一、二度たわいのない会話を交し、サービスで出されたまさかの餃子をいけないとは思いつつも好意を無下にも出来ずに口にしてしまった。
すっかり満足してご主人に頭を下げ私は中華料理店を後にした。
念のためにとジャケットのポケットに入れていたミントガムを噛みながら私は森村邸へと急いだ。
玄関先で出迎えを待つ間、口元に手を当てながら何度も口臭をチェックする。
先ほどお会いした家政婦の方が再び玄関先に現れ「どうぞ」言って、今度は屋敷に迎え入れてくれた。
外観と変わらず屋内もそれなりの年月を感じさせる。
「失礼します」
私は足元に差し出されたスリッパに履き替えて招かれるまま応接間に通された。
陰気な家政婦は私を部屋に案内すると黙って家の奥へと消えていった。
骨董と呼べるような古びた家具の中、そこだけ真新しいソファーに座った白髪の老人がどうやらこの家の主人のようだった。
「どうぞかけたまえ」
手を振り、意志の強そうな鋭い眼光を投げて、森村老人は私を対面のソファーへと促した。
「失礼します」
一礼してから向かいの席へと腰を下ろす。
「雑誌社の方だって?」
重厚そうなガラステーブルの上には先ほど立ち寄った際に家政婦へと手渡した私の名刺がある。
それに目を落としながら森村老人は言った。
「はい。科学誌のニューウェーブというのですがご存知でしょうか」
「さぁどうだったかな。最近物忘れがひどくてね。そのようなものには一通り目を通しているはずだが、雑誌の名前までは覚えていられなくてね」
「そうですか」
「煙草はいいかな」
森村老人はテーブルの上の灰皿を手元に引き寄せ、部屋着のポケットから国産の安煙草を取り「色々試したがやっぱりこれなんだよ」
そういって森村老人は口にくわえた煙草にマッチを擦って火を移す。
「若い時分は金がなくてね。貧乏学生同士、小銭を出し合って安煙草を買うんだ。味なんて二の次でね。でもそれが不思議と美味かった」
ふーっと紫煙を上げる。
「これもその時と同じ銘柄なんだが、あの頃吸ったものとは違う気がするよ」
「そういった商品は年代に合わせて風味を変えたりすると聞いたことがあります」
森村老人はまだ長い吸いかけの煙草を灰皿でもみ消した。
「そういったつまらんことは君の雑誌の中でやってくれんか」
「すみません」
「ノスタルジーとは思わんかね」
「あ、あの、そうですね」
森村老人は笑った。
「君のような、まだ若い娘さんにはノスタルジーなど縁もないか」
「すみません」
森村老人はそう言う私に、もういいといった風に手を振った。
「それで東京の雑誌社の方が、わざわざこんな辺鄙なところまで来られたというのは、どういった用件かね」
「あ、はい」
ようやく本題に入れる空気に私は居住まいを正した。
「先生が研究なさっていたものについてお話を伺いたいと思いまして」
・
部屋に太った女が入ってきた。
彼女も研究員の一人だということだ。
「本日のご機嫌はいかがかしら?」
太った女の第一声は決まっていつも、小馬鹿にしたような鼻にかかった声を出す。
「悪くはないよ。いつも通り」
細く剃った眉を寄せて、皮肉めいた笑顔を見せる。厚く塗りたくったファンデーションが、淡い蛍光灯の光の下でさえテカテカと光って見えた。
縦にカールした自慢のブラウンヘアーはハリウッド女優のつもりのようだが、まるまる太った体のせいで米国の有名女性歌手を真似る日本のお笑い芸人にも見える。
彼女の機嫌を損ねると一日中、絶え間ない小言に付き合わされるのを僕は経験から学んでいた。
「ここの研究室は窓がないから、空気がこもって仕方がないわ」
太った女は部屋の隅にある棚の上から、自分のコーヒーカップを取り出しながら、ぶつぶつと不満そうにつぶやいた。
怪しげな液体の入ったビーカーも奇怪な形をした生物のホルマリン漬けもない。
僕の想像する研究室とは随分とかけ離れてるこの部屋を、研究室と呼ぶのに抵抗を感じる。
「この部屋にはなぜ窓をつけなかったのですか。外の景色が見れたら少しは気が晴れたでしょう」
僕の言葉に太った女は可笑しそうに声を上げた。
「あなたにも気が晴れるなんてことがあるの」
「もちろん。気が沈むことも」
「あらそれは残念ね。けど、ここは多分だけど、作った当初から窓なんて考えてなかったと思うわ」
「それなぜ?」
太った女はようやく沸いたコーヒーをポットから手に持っていたカップに注いだ。
嗅覚を失った僕にも、香ばしい酸味の薫るあの独特な匂いを感じるような気がした。
「あなたがいるからよ」
ズズッとをコーヒーをすすって太った女は言った。
「機械って熱に弱いでしょ?」
太った女が太っているのは何も肥満なだけじゃなく着膨れしているせいもあるようだ。
彼女曰く、この部屋は一年中、冷蔵庫の中のように寒いらしい。
今の僕は暑さも寒さも感じることはない。
「教授たちは?」
太った女の喉仏がコーヒーカップの下で上下に震える。
女にも喉仏があったろうか。記憶が曖昧だ。でも、もしそうでなかったのなら、太ると性別も混濁とするのだろうか。
太った女と二人きりでいるといつも意味のない思考に囚われてしまう。
「あなたにプレゼントを用意しているみたいよ」
空になったコーヒーカップを太った女は機材の上に叩きつけるように置いた。
「プレゼント?」
返事の代わりに彼女は大きく息を吐き出す。
太った女の白い息は僕のガラスケースを丸ごと包み込んだ。
「今日は少し変わった実験をしよう」
教授はそう言って助手に指示を出した。
いったい何が変わっていて、何がそうじゃないのか、それは僕には理解できない。教授の意図するところはさっぱりだったが、彼らの行う実験とやらは暇を潰すには丁度良かった。
ほんの一時とはいえ自由になれる。この透明な檻の中から。
※※※
鬱蒼と茂る亜熱帯の木々。巨大なシダ類を踏みしめて、オレは獲物を探していた。
午睡から目覚め、水場を求めて枝葉をかき分けてゆく。
草食の獣たちは大抵そこに集まってくるからだ。
森の奥の方から腐臭がするのを感じていたが、今日はどうしても新鮮な肉が食いたかった。
ジャングルを抜ける。それまで頭上を覆っていた緑が途切れると視界が一気に開けた。
水場がある場所までここからさほど遠くはない。
しばらく歩を進め、辺りを見渡す。
獲物を取り合うような相手の姿は、今は見えなかった。だが用心に越したことはない。
以前に草食たちの動きに気を取られすぎてヤツらの気配に気付くのが遅れた事があった。
あの時はそのせいでひどいケガを負ってしまった。あんなことはあれっきりにしたい。
草食獣どもと何が違うのか、ヤツらの臭いは分かりづらかった。逆に奴らも俺の臭いに気が付かない節がある。
同じ肉食同士、どこか共通するところがあるのだろうが、奴らと自分が同じだなんて考えたくはなかった。
水場に着く。川の流れは茶色く濁っている。
どこかそう遠くない所で草食どもが水浴びをしているのだろう。もしくは他の肉食どもに追われて川の中に逃げ込んだか。
後者であるなら少し面倒なことになる。他の奴らと獲物の取り合いになるからだ。運が悪ければ怪我を負った上に獲物を逃してしまうかもしれない。そうなることは避けたかった。
水の中にいると草食たちの臭いはわからない。
でも、まだ水に入ることの出来ない子供たちは岸辺でたむろしていることが多かった。無理に川の中へと逃げ込むと溺れてしまうからだ。
オレは獲物たちの臭いが嗅ぎ取れるようにと風が吹く方へ顔を向け、慎重に川岸を進んでいった。
案の定、獲物の群れは辺りを警戒しながら川岸で草を食んでいた。
背の高い草々の生える茂みへと静かに身を潜める。
ゆっくりと歩を進めながら、気配に気付かかれぬようにと細心の注意を払い、茂みから鼻先をのぞかせる。
獲物の臭いを強く感じる。そのまま動きを止め、じっと様子を伺った。
草食たちの一匹が群れから少し離れて無警戒にも、すぐ目の前までやって来た。川の中に頭を突っ込み、水を浴びたり飲んだりしている。
オレは飛び出す隙を窺い、四肢に力を入れた。
目の前の獲物が後方の仲間を振り返る。一、二度ひくひくと鼻を動かし、再び川面へと頭を下げた時、オレは全身のバネを使って獲物の後ろ首を狙い飛びかかった。
草食たちの群れが驚き、川の中にいた数頭が必死になって岸へと駆け上がる。
同時に群れは川向こうの森の中へと逃げてゆく。
オレは暴れもがく獲物の首を強く噛み砕き、徐々にかすれゆく甘美な獲物の断末魔を耳元で存分に味わった。
そしてオレは、仕留めた獲物の柔らかい腹を食い破り、中の臓物を引き摺り出して食らった。食い応えのある腿の部分に歯を突き立て噛みちぎり咀嚼する。時折辺りを警戒するの怠らない。せっかく仕留めた獲物を横取りしようと五月蝿いハイエナどもが嗅ぎ付けて来るかも知れないからだ。
※※※
「気がついたかね」
「ーーはい」
視界の変化に一時思考が停止する。
あの濃厚な緑の世界。
数多の生命が跋扈する息苦しいほどの濃密な時間。
「何か異常を感じたりは?」
「いえ、特には」
「それは僥倖。記憶の方はどうだね? 何をしていたか覚えているか」
僕はあのインクをぶちまけたような鮮やかな緑と生命の躍動を、そこで起きた体験の一つ一つをまざまざと思い出す。
「□□□□□□」
ーー?
「あそこでの君の名だ」
「いえそれは」と助手が教授の間違いを指摘する。
「そうだな、正確には種族名だな。だが、名付けというのは大事だよ。自分というものを世界に固定する、ある種の呪いみたいなものだ」
「呪いですか」
「教授、呪いとはあんまりじゃないです?」
「そうか? ならなんだ、あー」
「システム、概念、宿命とか」
「運命論は好かんな。だがまあ、システムぐらいが無難かも知らん」
教授はフンと鼻を鳴らして納得したのか、或いはそうではないのか、左右に小刻みに頭を揺らした。
呪いというのも、ある意味運命じゃないのかとは思ったが、助手も、その後ろで調理パンにかじりついている太った女も、誰もが教授の言葉に触れはしなかったので僕も黙っていることにした。
「それで、向こうでの記憶を訊いていたのだが」
教授は気を取り直したのか、度の強そうな眼鏡を指先で鼻の上へと押し上げて言った。
「どうだったのかね、向こうの世界は」
僕は再び先ほど体験してきた世界へと想いを馳せた。
「まるで本物のようでした」
「本物? いや、間違いなく本物なのだよ」
教授の言っていることが理解できず、僕は返答に困った。
「私たちは眼というレンズを通して、脳というコンピューターに視覚で得られた情報を送っている。もちろん、視覚だけに限ったことではないが、しかし人間は九割近くを視覚情報に頼っているのだよ。
その視覚情報に変化があれば味覚や触覚といったものにも影響を及ぼす。それは今まで蓄積されてきた視覚情報との整合性に混乱をきたすからだ」
つまり、と教授は一つ空咳をしてから続けた。
「君が視覚から得られた情報には本物と呼べる世界が確かにあった」
「今見てきた世界が、ですか」
「そうだ。ここにいる我々とは違う別世界を体験してきたはずだ。それは君にとって実にリアルな現実世界なのだよ」
馬鹿げている。
教授の言葉に心の中で嗤う。しかし、ふと、このガラスケースの中こそが現実味のない、空虚な世界のように思えて、僕は今しがた体験してきた非現実的な世界へと心焦がれるような思いを感じた。
心などとうに失ってしまったというのに。
「今の君は脳というデータバンクだけが機能している状態だ。人や獣が外界を感知するための感覚機能、すなわち視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚などの五感がない。それら全てを自分由来のモノ以外で得ている君にとっては、作られた世界であっても現実とさほど変わりはしないよ強いて言えば、」
生存していく上での栄養を摂取できない事位か、と最後の呟きは自分自身に言っている様だった。
「まあ、それもいずれ何とかしよう」
・
「おい、本当かよ!」
東京の社に戻り森村老人から聞いてきた話をデスクへと伝えた。案の定、デスクの沢田は太った体を椅子の上で前後に揺らしながら両手を上げてオーバーに叫んだ。沢田のいつもの癖。編集室にいる人間にはもう慣れっこになっているので、誰一人見向きもせずに自分の作業に没頭している。
「まるでハリウッド映画みたいじゃんか」
「森村教授のお話だけを聞くと少し現実味に欠ける様な気もしますね」
「ばっか、お前、これが本当だったらスクープだぜ。ビッグニュース。世界中が日本に注目すんぞ」
「はぁ」
「はぁ、じゃないよ。かー、つまらん女だね、お前は!」
沢田は読みかけの資料と駄菓子の袋が散らばった自分の机をバンバンと手で叩きながら言った。
「これは今世紀始まって以来の大事件だぜ。直ぐに裏取りに走ってこい」
沢田が興奮気味にわめき散らしたせいで唾が私の服に飛んだ。
さり気なくハンカチで拭ったが、頬が引き攣るのを抑えることは難しかった。もちろん、私のそんな様子に沢田が気付くはずもない。可愛い部下に気を使えるほどの人間だったのなら、デスクになどなっていなかっただろう。
それにしても沢田はなぜ科学誌の編集にいるのだろう。芸能記事とかの方がよっぽど似合っているように思うのだが。
「それでは後日、研究所の方へとアポイント取ってみます」
「おう」
一礼して自分の席へと向かおうと踵を返す私の背に「タクシーは使うなよ。経費で落とさんからな」と沢田の声がぶつけられる。
私はため息をついて、席へと戻る道すがら、同情の視線送ってきた後輩の背に手を当てた。
・
桜も散り、五月の大型連休も過ぎると、ジメジメとした蒸し暑さが増してきて、ともすればシャツにじんわりと汗が浮かんでくるようになった。
千葉にあるT大の研究室でIP細胞と言われる、いわゆる万能型の細胞の培養に成功したとの噂を聞き、取材に行った帰り。IP細胞は医療にとって画期的な発明だったが、現段階では実用にはまだ時間がかかるそうだ。
私は今後の研究の方向性について質問をし、記事にするための資料をいくつか貸していただくことが出来た。
会社への帰り道。山手線で渋谷で途中下車し、竹下通りに最近出来たという若者に人気のインスタ映えのするカフェへと寄り道をすることにした。取材の内容をまとめるのに、社の編集室より喫茶店の方が作業がはかどるのは、あのデスクのせいだけとは思わないが。
カフェに入ると小綺麗な内装に可愛らしい小物や外国製の木彫りの人形が並んでいた。
空いた席に案内され、腰を落ち着ける。
メニューの中から、苺とブルーベリーのジャムがたっぷりと乗ったレアチーズケーキを頼んだ。
糖質は脳の活性化に良いというが、私の場合、食欲ばかりが活性化するみたいだ。いけないとは思いつつ、目移りするメニューの中から、山のようなホイップクリームとハニーシロップで埋め尽くされたパンケーキも追加してしまった。これで夕食も採ってしまえば今日は確実にカロリーオーバーだ。
小さな抵抗で晩酌だけは控えようと思い、やがて来たケーキに写真を撮るのも忘れフォークを刺した。
・
「それで、例の件は何か進展あったの?」
同期のカズミが串揚げに手を伸ばしながら言った。
同期といってもカズミとは部署が違う。カズミはコミックスの担当だ。
お互い漫画が好きで、二人でコミックスに希望を出したが、通ったのはカズミで、私は随分と畑違いな所に行かされたと入社当初は戸惑ったりしたものだった。
私はシーザーサラダの残りに箸をつけながら首を横に振った。
「かまはかけてんだけどね。実際見に行くってなると、返事が渋くってさー」
週末の居酒屋の賑わいに負けないように少しばかり声を張る。
「実際んとこ、想像とかさー、願望とかじゃないの?」
口に頬張ったカツをくちゃくちゃと噛みながら、横を忙しなく行き来する若いバイトの男の子に目を向けて、カズミは興味半分といった体だ。
「仮にも権威ある先生がそんなことする?」
私は呆れて、か空になったサラダボウルをテーブルの端に追いやった。
「さあ。老い先短いおじいちゃんの趣味なんて分かりません。案外、若い女の子に構ってもらいたいだけかもよ」
「そうだとしてもよ?」
「待った。お兄さーん、こっち生ビール二つ追加ねー!」
「カーズーミー」
「はいはい、ちゃんと聞いてるって」
自分より一回りは若いであろう男子店員に色目を使いながらカズミが応える。
マンガ、アニメ好きのカズミも最初のうちは興味ありげに私の話を聞いていたが、酒が進むにつれて対応もそれなりになっていた。まあ、それも仕方がないとは思うけど。
「どっちにしろ、突拍子もないのよね。本当、マンガのようだ話だもん」
私は手元にあったジョッキを持ち上げ、残り半分になっていたビールを一気に飲み下す。
カズミが愉快そうに手を叩き、アルバイト店員が持ってきた追加のビールを受け取った。
今夜はまだ、もう少し長くなりそうだ。
・
カメラを動かす。
二台あるカメラは連動していて、撮す対象をより立体的に捉えることが出来る。
カメラは天井からガラスケースを挟んで等間隔に設置されていた。
カメラの可動区域は正面おおよそ百四十度ほどだろうか。
真上は見れないし、同じく真下も見れない。
まあ、殺風景な部屋の天井と床を見てもしょうがないので、必要がないと言えば、ない。
教授と助手のやり取りや、太った女の意味のない会話も、それらを拾うマイクは僕の横に、ガラスケースの側面にちょこんとある。小さいが集音性能はなかなかのもので、むしろ良すぎて音疲れを起こし、助手に頼んで感度を少し下げてもらったほどだ。
僕の思考を言葉に変換してくれるスピーカーは何故かカメラについていて、教授曰く「視覚対象へと語りかけることが重要」なのだそうだ。
それはわからなくもないが、目と口が同じ場所にくっついていると考えると変な感じに思う。
それを助手に言ったら、彼は笑うばかりだった。
そんな彼の反応見て、話題に困っても太った女にだけはこのことを言うのはやめようと決めた。
僕には味覚と嗅覚がない。それに触覚。
必要がないといえばそれまでだが、助手が時折咥える煙草の煙を嗅いでみたいとも思うし、太った女が美味しそうに頬張るパウンドケーキやサンドイッチなんかも味わってみたい。性欲こそ感じないが、女性の肌に触れてみたいとも思う。
現実として今のところ、それらの願いは叶えられていないが、ブレインキューブにアクセスすれば失ったままでいる味覚や嗅覚のみならず、全ての五感あるいは第六感ともいえる感覚も感じることが出来た。いや、出来ているはずだった。
あの世界から引き戻される、暖かな有機質の世界から、冷たく味気ない無機質な現実との隔たり。
夢から覚めるように、消えてく幾つかの感覚。
或いはそれら全てが誰かの夢の中で繰り返されるデジャヴなのだろうか。
「何をしているんですか」
無視を決め込もうかとも思ったが、あまりにも滑稽だったのと、終わりの見えない苦行に耐えかね、つい聞いてしまった。
太った女が先ほどから僕の目の前で、いや正確には僕の視覚を担うカメラに向かってしきりに腰をくねらせたりしている。
「何って、分からない?」
太った女はしなを作り、僕のカメラに向けてポーズをとりながら答えた。
「僕に求愛してるわけではないですよね」
「バカね。当たり前でしょ」
興が覚めたのか、カツカツと大きな靴音を響かせて太った女はコーヒーメーカーまで歩いて行き、自分のカップになみなみとコーヒーを注いだ。そのままグイッと飲み干す。
コーヒーが熱くはないのだろうか。
それとも冷めていたのだろうか。
或いは太った女の口内や食道気管は見た目と同じくらい人並み以上に分厚く出来ているのだろうか。
「あんたのカメラさー、それデータ取ってんでしょ」
空いたコーヒーカップにおかわりを注ぐ。
カップから湯気が立たなない。
どうやらコーヒーメーカーの電源はしばらく前に切られていたようだ。
僕はなぜか少し落胆して、返事を返す代わりにカメラを上下に振った。
「こうやってポーズをとって、アタシの姿をデータに入れてたのよ。ほら、アンタが向こうに行った時にちゃんとしたデータがあったほうがいいでしょ?」
「向こうに行った時に?なんでですか」
「あー、もう、わかんないかなぁ」
太った女は大袈裟に肩を落として鼻息ともため息ともとれる息を吐いた。
「アンタ、その仰々しいガラスケースから出らんないんだから、アタシ以外の女のことなんて知らないんでしょ」
今となってはそうかもしれないけれど、こうなる前はそれなりに人生を送ってきた筈の僕にとって、太った女の言い分は理解に苦しむ。が、反論は控えておこう。
「つまりね、アンタの世界じゃ、出会う女のすべてはアタシがベースってわけよ。わかる?」
なるほど太った女の言わんとしてることがなんとなくわかった。
「で、どうなの」
「どうとは」
「あっちの世界よ。決まってんでしょ」
なんと表現すればいいだろうか。
多分、彼女は教授たちに報告するのとは違った答えを望んでいるはずだ。
少し考えて、僕は答えた。
「映画は好きですか?」
・
ようやく取材にこぎつけることが出来た。
例のバイオテクノロジー研究所が見学取材に応じてくれたのだ。
森村老人の所へも四度、顔を出した。
五度目の訪問を電話でお願いした時には「君のしつこさには負けた」と言われてしまったが。
さっそく取材に向かうとデスクの沢田に伝えたが、忘れていたのか興味をなくしたのか「ああ」という生返事だけを返して、ポテトチップスの袋に手を突っ込みパソコンの画面から目をそらそうともしなかった。
私は苦笑し、それでもタクシー代は落ちないだろうからと低料金で行ける路線経路を調べて向かった。
そのバイオテクノロジー研究所は思っていたよりも小さな建物で、私は少し拍子抜けをした。
しかし、警備だけは厳重で、入口の警備員には念入りのボディチェックをされ、金属類で持ち込みが出来たのはボールペンとポケットレコーダー、あとはベルトのバックルくらい。それ以外は髪を留めていたヘアピンさえ預けるように言われた。
私は鞄からヘアゴムを出して髪を後でまとめ、携帯の電源を落としてから、鞄と一緒に入り口に預けた。
私が持っていたメモパッドは用紙を針金でまとめていたものだったので、施設に入る際に案内の方からからコピー紙を数枚頂くこととなった。
案内の者に従って簡単な説明を受けながら施設内を見て回る。
施設は地上四階建てで、一階はロビーと警備員室、及び倉庫となっていて、ニ階は会議室や事務室などがあり、三階フロアが研究室となっていた。
「社長室は四階になります」
案内の女性(彼女は研究員ではなく、事務の人間らしい)がエレベーターのボタンを押しながら言った。
「こういってはあれですけど、随分こじんまりとした施設ですね」
私は同年同性の気安さからか、少し不躾かとも思ったが、感じたままを口にした。
「そうですね。一条さんをご案内したところはそうかも知れません」
「と言いますと?」
「詳しくは所長からお話があるはずです」
彼女は微笑を浮かべて、これ以上の質問を避けるようにエレベーターの階を示すランプの数字を見上げた。
エレベータから降りて四階フロアに足を踏み入れた。
どうやら四階は他のフロアに比べて狭いらしい。それでも四階フロア全体が所長室となっていたため、部屋と部屋の区切りが無く、かなり広くは感じた。
案内の女性が所長室の扉をノックした。
「一条様をお連れしました」
すでに私が来たことを告げていたのか、中からの返事がある前に、失礼しますと言いながら扉を開けた。
所長室は応接室も兼ねているのか、なかなか豪奢な造りだ。
壁際には天井まで届く大きな本棚がずらりと並び、分厚い表紙の洋書や研究関連の難しそうな専門書が所狭しと棚を占めている。
正面向かって奥に大きく立派な木製のテーブルがあり、その向こう、窓から入る陽の光に背を照らされながら所長の木戸原の姿があった。
「どうぞ、お掛けになってください」
木戸原が椅子から立ち上がり、中央にあるソファー席を私に勧めた。
私は一礼して部屋の中へと進み、木戸原の向かい側へと腰を下ろす。
いつの間にかここまで案内をしてくれていた女性の姿は消えていて、気がつくと部屋には所長の木戸原と私だけになっていた。
「一条さんとおっしゃいましたね」
「あ、はい」
「森村から話は伺っております」
どうぞ、と言って所長自らがテーブルの上にあるポットから飲み物を注ぎ勧めてくれた。
湯気から仄かなハーブの匂いがする。
「すいませんね、普段日本茶ばかりなので、そんな湯飲みしかないのですよ」
「あ、いいえ。大丈夫です」
いただきますと頭を下げて湯飲みから一口すする。
カモミールのようだ。
湯飲みからハーブティーというのは一瞬脳が混乱をきたすようで、それでも飲んだら少し気持ちが落ち着くように思えた。
「森村が感心してましたよ。根負けしたってね」
「いいえ、そんな……あ、すみません。私から自己紹介もせずに」
「ああ、結構。堅苦しいのは苦手でしてね」
木戸原は笑った。
「木戸原所長は随分とお若く見られますが」
私は先ほど頂いた名刺を見ながら、名前を間違えぬように店長に尋ねる。
木戸原はまんざらでもないのか嬉しそうに破顔して答えた。
「そう言ってもらえると嬉しいですね。いや何、所員から言われてもお世辞にしか聞こえなくてね」
私もつられて笑う。
当然お世辞半分だったのだが、喜んでもらえたのなら何よりだ。
「私がこの歳でここの責任者を任せられたのも、総じて森村先生のおかげなんですよ」
「木戸原所長は森村教授とはどういったご関係で?」
「ああ、その話は森村先生から聞いてはいませんか」
「ええ。あまり詳しくは」
「先代の所長であった森村先生のご助力あって、先生の研究とこの研究所を引き継がせていただいたんです」
木戸原は自分の湯飲みを持ち上げ、熱そうにフーフーと息を吹きかけた。
「私は元々、ここの一研究員でしかなかったのですがね、森村先生の研究のお手伝いをするうちに、あの方のなさんとするものの魅力にとりつかれましてね。一条さんは森村先生のなさっていた研究のことはご存知で?」
「ええ、一応は。取材前にひと通りは調べてきましたので」
「かなり画期的な研究だと思います。もちろんまだ研究途中なのですが、すでに成果も出ていますしね」
「あの、森村教授からも大まかなことは伺っているのですが、木戸原所長の方からもお願い出来ますでしょうか。出来ましたら、その、例の研究のことを詳しくお話しいただけたらと思うのですが」
「ああ、そうですなあ。一条さんもその事でわざわざいらっしゃったんでしょうから」
私は持っていた湯飲みをテーブルの上に戻し、パンツスーツのポケットからレコーダーを取り出した。
「録音させていただいても?」
「結構です」
私はレコーダーのスイッチを入れ、テーブルの中央へと置いた。
シャツの胸ポケットに差していたボールペンと一階でもらってきたコピー紙をテーブルに置き、まず何から質問をしようかと考えた。
私は回りくどい質問を避け、思いきって核心に迫る質問をぶつけてみる。
「脳の完全移植に成功したとのことですが、本当なのでしょうか」
※※※※※
光が見える。
遠くから照らす一条の光。
ゆっくりと歩き出す。
自分の手も足も見えない闇の中。
そこに存在のかさえ確かではない。それほど深い闇。
目に入るあの一条の光だけが、自分が確かにここに存在のだと認識させる。
目蓋を閉じてしまえば、その存在さえ消えて無くなってしまうのだろうか。
一歩ずつ、一歩ずつ、
しかし、踏みしめる大地も、いや、踏み出す自分の足さえも存在があやふやだった。
それでも少しずつ光に近づいているのか。
その明るさが瞳を突き刺すようにも感じ、少し瞼をすぼめた。
近づくにつれ、光は僅かに揺らいでいるのがわかる。
その光、いや、火の揺らめきは白から青、そして赤へと変化し、やがて直視するのも困難なほどに輝きだした。
いつしか闇は消え去り、金色の炎が全身を焼き尽くす。
熱さは一瞬。
すぐに苦痛は■■へと変わった。
※※※※※
「地下がこんな風になっているなんて」
私は木戸原の後をついていきながら、研究所の地下に作られた空間を見て思わず息をのんだ。
「驚きましたかな?」
木戸原が私をふり返り自慢げに笑みを漏らした。
「上では色々な人間が出入りしているのでね。このように地下に重要な施設を置くことで、機密情報や研究経過を外部に漏らすことのないようにしているのです」
「ここに来るまでのセキュリティもすごかったですね。上の研究所へ入る時にも感じましたが、ここはそれ以上でびっくりしました」
実際のところ、かなり厳重な警備体制だと思う。
地下の施設には身分証をパスとしたゲートをくぐり、三階フロアにある直通の専用エレベーターから向かうようになっていて、そのエレベーターへ乗る際にも指紋認証が必要だほどだった。
「ここでは様々な研究が行われています。どれも人類を発展させるための重要なプロジェクトです。その中でも特に」
木戸原はそこで言葉を区切り、通りかかった各設備へと無言で目を向けた。
私が小さく咳払いをすると、木戸原は私を見て苦笑いを浮かべ首筋を掻いた。
「ああ、失礼。時折こうして目を光らせてやらないと、彼らが勝手をしますので」
木戸原が各所で働く研究員たちを指して言う。
「勝手とは」
「ええ、まあ、基本的にここで働く人間は皆真面目なんですが、子供のようでもあるんですよ。夢中になっているうちに脱線していることに気付かなくなるのでね」
「なるほど。そういうことなんですか」
「ですが、まあ、たまにそうした彼らのミスが面白い結果を生み出すこともあります。今日、一条さんにお見せするのも、そうしたものから生まれたものとも言えますな」
木戸原は歩き出しながら、前方にある扉を示した。
「あそこです」
私は重そうな鉄製の扉を前に僅かな興奮を覚えた。
この扉の向こうにあるのだ。
現実と非現実を結びつける架け橋となるものが。
「ここは特に人の出入りを制限してましてね。限られた者しか入室を許していません」
木戸原が扉の横にある機械にカードキーを滑らせる。ディスプレイが青く光った後、親指を押し付けて指紋認証を行う。
扉からガチャリというロックの外れる音がした。
「今回、一条さんを迎え入れたのには理由がありましてね」
「理由ですか」
「貴方には我々の業績、いや、少し大げさかもしれませんが、歴史の証人となっていただきたいのですよ」
そう言いながら、扉を押し開ける木戸原の後に続いて部屋へと入った私は、目に入る光景に息をのんだ。
「人類の歴史を変える究極の進化の形をね」
・
六月も終わりに近づいた頃、私と同期のカズミは青山にあるクチーナ・ピッコラというイタリアンレストランへと訪れた。
飲食店が軒を連ねる中、小さなビルの二階に店を構えているこのレストランは、入り口に小さな手書きの看板があるだけで、何か人目を避けているようにも感じられた。
カズミが二週間前から予約していたというレストランの店内に入ると、こじんまりとしているが、洒落た作りの内装に所々イタリアンカラーのフラッグやワインのボトルなどが並んでいる。
狭いキッチンカウンターの隙間から中を覗くと、気難しそうな年老いたイタリア人シェフが丁度、フライパンにワインを振り掛け、豪快にフランペしているところだった。
席に案内してくれたのは私たちの親と同年代ぐらいだろうか。頭髪に少し白いのが混じった笑顔の素敵な女性だった。
二人掛けのテーブルに座り、メニューを受け取る。
アラカルトでシェアしてもよかったのだが、折角なのでコース料理をお願いすることにした。
コースは四品。前菜、パスタ、メイン料理にデザートだ。
食前酒にグラスのシャンパンを頼む。
「これはイタリア産だから、シャンパンじゃなくてスパークリングワインね」
というツッコミはカズミだ。
お店の方は笑顔で応じただけ。客の興を削がない姿勢に、さすがは接客のプロだなと感心をし、同時にさすがはカズミだなと呆れもした。
「それで、どんな感じだったの。例のアレ」
カズミが二杯めのスパークリングワインに口をつけて訊いた。
前菜はルッコラとブラックオリーブのサラダ。ちぎったレタスやレッドオニオンのスライスなんかも入っているようだが、会話とお酒で調査ははかどらない。上にかかっているのはパルメジャーノチーズと、ドレッシングにはレモンの酸味だろうか。
「ちょっと聞いてんの」
「あ、ごめん」
私は検証半ばにしてサラダにフォークを刺した。
「それが、なかなかインパクトのあるものだったわよ」
「ほうほう、で?」
「うん、カズミは皮膚や体の一部、あと臓器なんかもかな、人工的に培養できるのは知ってるでしょ」
「あー、なんだっけ。豚とか使って移植すんだっけ」
「そう、皮膚とかはね。あと臓器の一部なんかは本人の細胞から培養したりするみたいだけど」
「まあ、あたしはやだなぁ。何かあっても豚の皮膚なんて」
「まあね」
「それで、それがどうしたの」
「うん。失われた人間の体の一部を代用するための技術というのは、今までにも研究されてきたし、日本の研究者たちも実際かなりの成果を上げていて、実用化もされているのね」
「みたいね。何かで見たことあるよ。豚を苗床みたいにして人の心臓いくつも作ったりしてんでしょ。きもー」
「そうね」
カズミは変なところに知識があるので笑える。
空になったサラダの皿が下げられて、直ぐにニ品目のパスタが届けられた。クリームパスタだ。
幅広のフィットチーネに濃厚なクリームチーズが絡んでいる。
これはパンチェッタだろうか。こんがりと焦げ目の付いた塩気の強い厚めのベーコンがゴロリと入っていて、クリームの中でこれでもかと自己主張している。
影が薄く思われがちなブラウンマッシュルームも、やさしい食感でパンチェッタの塩気を和らげるのに一役買っていた。
そんな料理を前にして流石に会話も止まる。
私たちは美味しい喜びを各々の口へと運びながら、料理に舌鼓を打った。
メインの料理が運ばれてくる頃には私たちもお酒ですっかり調子が出てきた。
コースのメインはカズミが肉、私は魚を頼んでいた。
肉料理は岩塩とハーブを揉み込んでオーブンでローストした子牛のトマホーク。こんがりと焼けたその骨付きの肉に、ソテーしたナスやスイートコーン、パプリカなどが添えられている。
骨付き肉の下に見えるのはグレービーソースだろう。仄かにニンニクの香りもする。
柔らかそうな肉の塊を口に入れ、美味しそうに咀嚼しながら赤ワインで流し込むカズミを一目見てから、自分の料理に目を向けた。
私が選んだメイン料理は今が旬のスズキのソテー。
ガーリックとバターで焼き、上にはイタリアンパセリが散らしてある。添えてあるのはグリーンリーフとサラダほうれん草。
ナイフを入れるとスズキの下にはリゾットがあった。何かの茸らしいものとチーズが入っている、メインの魚を引き立てる控えめな味付けだった。
さっきまでの会話を忘れ、私とカズミはワインと料理に夢中になる。
出された料理にすっかり満足し、デザートを待つ間、話題はまた例の研究所のことへと戻っていった。
「なに、臓器移植がどうとかって話だったっけ」
「えっと、臓器移植というかね」
私はあの研究所で見てきたことをかいつまんで話した。もちろん全てではない。情報に関しては誓約書も交わし、機密に触れる部分は守秘義務を課せられている。木戸原が会話の中で匂わせていたので、もしそれが本当ならば、下手をすると罪に問われてしまうかもしれないからだ。
私はなるべく重要な部分を避けて、友人の期待に応えるべく話をした。
お酒が入っていたので少しばかり誇張するところもあったかもしれないけど。
「ほえー」
カズミはだらしなく口を開けて、まるでセイウチみたいな声をあげた。
「本っ当にマンガね、それって」
「でしょ?」
「AIが人格持っちゃうなんて映画もあったよね。なんだったかな、あの映画のタイトル」
「漫画でもあったじゃない。少年漫画だったけど、ほら、カズミが好きだった古代文明とか遺跡の発掘調査するやつ」
「なつかしー。あれね、全巻持ってたよ。まだ実家の私の部屋にあるかなぁ」
デザートが届いたせいか、酔いも手伝ってそこからかなりの時間、学生時代にはまっていた懐かしい漫画の話へと脱線してしまった。
「ドルチェのお代わり、お持ちしましょうか」
空になった皿の上に残っているチョコレートソースを名残惜しそうにスプーンでさらっていた私たちを見かけて、お店の方が声をかけてきた。
向かい側でカズミが声に出さずに「ドルチェって何?」と言っているのを無視して、私はデザートのお代わりをお願いした。
「へー。さっきのオレンジが入ったアイスも美味しかったけど、このババロアもなかなかね」
「やだもう、ババロアじゃないって。ティラミスじゃない」
「あ、そうだった」
「ティラミスくらい、コンビニでも見るでしょ」
「あたしゃ、こう見えて和菓子派なのよ」
「やーね、お母さんと話してるみたい」
「こんな店、あんたとしか来ないもん」
どうやらまた男に振られたみたい。
カズミから、こういったお店に誘う時は大抵そうだ。
彼氏と来ようとチェックしていたんだと思うとなんだか不憫に思うが、独り身の長い私としては、それでも少し羨ましく思う。
年齢的に仕事が恋人なんて言っていられるのも、あと数年かな。
友人の何度目かの失恋に心の中で同情しながらも、顔には出さずに笑顔で応じた。
「ふー。飲んだ食べたー」
「美味しかったね。感じのいい店だったし」
「夫婦かな、あの二人」
「シェフとターボラの女の人?」
「うん」
「そうかもね。歳も同じくらいだし、二人でやってていい雰囲気だったもん」
「いいなー。あたしも早く結婚して、旦那さんと小さなレストランでもやりたいなぁ」
「カズミじゃ無理でしょ。料理出来ないんだから」
「そうだけど、旦那にやらせりゃいーのよ」
「料理出来るいい男、捕まえられればね」
「そこだよねー、問題は」
カズミは大きく背伸びをした。
「どっかにいないかなー、売れ残りの良い男」
「うちのデスク、独身みたいよ」
「やーよ、あんなの」
「それもそうね」
私たちは声をあげて笑い、帰路に着いた。
結構お酒も飲んでしまったし、まだ少し物足りない気もしたけど、女二人でバカをするにはちょっとだけ歳をとってしまった。
「ねえ、また行くんでしょ? 例の研究所」
「うん」
「また面白いことあったら教えてねー」
「話せる範囲でね」
カズミは口を尖らせたが、私は笑っていなした。
最寄りの駅まで向かう途中で通りかかったタクシーに手を挙げる。
「じゃあ、またね」
私はタクシーに乗り込んだカズミに手を振った。
駅へと向かう道すがら、私は満ち足りた気分だった。
女同士の友情を確かめ合ったり、好奇心をくすぐられるような出来事もあったりして。
でもこの時はまだ、あんなことになるなんて知りもしなかったんだ。