001
「そうか、異世界転生か」
俺は、崖から落ちて横たわったまま、曇った空を見上げてぽつりとそうつぶやいた。
状況を整理すれば、そういうことになる。
今の俺には、日本人として40歳手前まで生きた記憶と、冒険者として40歳手前まで生きている両方の記憶がある。
頭がズキッと痛むのは、崖から落ちた時に頭にダメージを受けたからか、それともいきなり記憶が一人分増えたからだろうか。……両方かもしれない。
「……ここは俺の来世、いや、今までのが前世なのか」
妄想というにはあまりにもリアルで濃密な記憶。
まるで夢の中の出来事のようだが、俺は日本人で普通のサラリーマンだった。しかし夢とは違ってその記憶はさっぱり薄れていない。自分の名前だって言える。
むしろ体感的には、丁度今増えた日本人としての記憶が主で、崖から落ちる前の記憶が曖昧なくらいだ。新しく増えた方が優先、みたいな感じだろう。
真偽はともあれ、人生ひとつ分の記憶がここにある。
というわけで、まずこの状況は転生に間違いない。
そして、俺がここを(日本から見て)異世界と決定づけた要因は、今世では魔法や魔物が存在するからだ。
前世の世界では、魔物や魔法は空想の産物。物語の中にしか存在しないものだった。そして、空をこえた宇宙から地球上のすべてに目が届くような、今世の記憶から考えればそんな途方もない世界だった。
そして、今世の世界では剣や魔法を武器に未開拓な森林地帯等を切り開き、人類の敵であるゴブリンやオークなどの野生生物――モンスター達を相手に生存競争をするレベル。
しかも人類もいわゆる人間だけでなく、エルフやドワーフ、獣人もいる。
ここまで違えば、異世界としか言いようがない。物理法則ですら通用するか怪しいところだ、魔法以外は大体同じだと思うけど。
「……そうか、異世界転生か」
改めて、もう一度口に出した。
もう一度記憶を整理する。
前世の俺は、日本人の中年男性。うだつの上がらないサラリーマンだった。
なんで死んだかは知らんが、まぁ、過労か事故だろう。40前くらいで記憶がすっぱり途切れている。
……生まれ変わった今世も、うだつの上がらないオッサン冒険者なのは何の皮肉だろうか。それとも魂に刻まれた呪いなのだろうか。うだつが上がら無くなる呪い。はぁ……
でだ。ショックが強すぎたのか、一瞬で記憶を見返した影響か、今の俺はその前世の記憶の方が強く前面に出ているようだ。まるで前世の自分がこの体――ルーカスに憑依したような、急に別人になってしまったような、そんな感覚である。
肉体年齢的にも記憶と近く――つまりおっさんがオッサンに生まれ変わった感じだ。
あまり変わらない……いやまぁ、今世は冒険者として日頃から体を動かしている分、体は締まっている。ただ、そろそろ体の衰えを感じている今日この頃だ。
どうせならもっと若いときに前世の記憶を思い出してくれりゃぁよかったのに。そうすれば、この剣と魔法の世界を素直な気持ちで楽しめて、魔法の勉強とかに嬉々として取り組んで大魔導士とかになれたかもしれないのに。
あ、ちなみに冒険者はいわゆる何でも屋だ。ギルドに登録することで依頼を受けられて、体を張って日雇いや数日がかりの仕事をこなすのだ。フリーターみたいなもんだが、立派に市民権を得ている職業なので何でも屋と言っておく。
と、そこまで思い出したところで今自分がどういう状況かも思い出す。
崖から落ちたのだが、生きている。寝たまま見上げた崖はかなりの高さで、死んでておかしくないと思うし実際死んだと思ったが、よく生きてたものだ。
手を地面について起き上がろうとしたところ、墨汁をつけてほったらかした筆のような、長くて硬い毛の感触が手に伝わってきた。草、ではないな。
上半身だけを起こして振り返ると、そこには巨大なイノシシの体があった。
「うお!? なんだこりゃ、あ、ああ、そうか。大イノシシの駆除依頼、の、対象か」
俺が寝ていたのは小さなベッド程の大きいイノシシの死骸、の腹だった。
記憶を掘り返すと、俺はコイツと一緒に崖から落ちていた。どうやらコイツを下敷きにしたことで俺だけ一命を取り留めたらしい。
下敷きになってくれたイノシシには感謝だな。落ちた原因もイノシシだけど。
「っう、あたた。あー、こりゃ何日か休まないとだめだな……」
起き上がり、軽く体を動かす。体中がギシギシと痛む……特にアバラがヤバい痛さだ。絶対折れてるこれ。
そういえば俺は魔法の回復薬、ポーションを持っていたはずだ。と、腰に手をやるがポーチがない。落ちた衝撃でどっかに行ってしまったのだろうか。だとすれば近くにあるはずだ。
……ポーション、下級だけど1つで銀貨1枚もするからな。銀貨1枚あったら1週間分の食費にはなるぞ。日本円で言うところの1万円くらい。
俺はアバラに気を付けつつ、あたりを探す。
ガサリと茂みが鳴った。俺は痛む体を起こして剣を構えた。うぐっ! 痛ぇ!
が、茂みから出てきたのはうさ耳を垂らした少年だった。獣人だ。そしてギルドの制服。敵ではなかった。うぐぐ、痛み損。だがまぁ助かったからよしとしよう。
「ルーカスさん、ご無事だったんですね!」
ルーカス、聞き覚えのある名前だ。……って、俺の名前だった。
思い出してきた。こいつは冒険者ギルドの職員だ。顔なじみで、えーっと名前は何だっけ。あ、そうだ。ミゲルだ。ウサギ足のミゲル、足の速さを生かして依頼達成の確認とかに奔走している奴だ。
俺は剣を下ろし、手をひらひらと振って挨拶した。
「よぉミゲル。仕事熱心だな」
「仕事熱心とかそれどころじゃないですよ。臨時で組んでたパーティーメンバーからルーカスさんが死んだと聞かされてびっくりしたんですからね」
「けっ、あいつらめ。金の配分が増えるからってロクに確認もしなかったんだろ」
「いやぁ、普通あの高さから落ちたら死んでると思いますって」
改めて見上げると、確かに3階建てのビルくらいの高さはある崖だ。普通死ぬ。
「金はもう山分けされちまったのか?」
「ああいえ、大イノシシの死骸を確認してから依頼達成だったのでまだです」
「そうかそうか。山分け分が減ってさぞかしがっかりするだろうよ」
「あはは。でもルーカスさんが生きてたのは嬉しいですよ」
と、言葉通りに嬉しそうに笑うミゲル。
「元気そうで何よりです」
「それほどでもない。……アバラ折れてると思うんだこれ」
「僕の予備のポーション飲みます? 天引きしときますよ」
「そこは割引になんねぇのかな……俺のポーチがそこら辺に落ちてなかったか?」
「ああ、ありましたね。遺品かと思って回収しておきました。どうぞ」
「そんな遠くまで飛んでたのか……ありがとよ」
革製のポーチを受け取り、中を漁る。中にはいくつかの小道具と、緑色の液体が入ったガラス瓶――ポーションがしっかり入っていた。
……よかった、割れてたら泣いてたぞ俺は。
早速ポーションを取り出して、蓋を開けて中身をグイッとあおる。
栄養ドリンクの味がして、暖かい粒みたいなものが体に染みわたる……と、痛みはすっかり消えていた。アバラもくっ付いている、と思う。ポーションで治したばかりの骨折はまた折れやすいので油断は禁物だが、帰る分には支障はないだろう。
さすがポーション、すごい効果だ。これは確実に日本の医療を超えてるね。
「よし。大丈夫そうだ」
「なら帰りましょうか。あ、ルーカスさんイノシシの運搬手伝ってくださいよ」
「……いっそこの場で解体したほうがいいんじゃないか?」
「そんなことしてたらゴブリンに囲まれますよ。ささ、台車はあるので」
ミゲルが背負っていたものを組み立てると、台車になる。
俺はその台車にイノシシを載せるのを手伝い、一緒に町へ帰還した。