第五章
さて、この物語の舞台となった清朝末期の上海租界は、港が列強の手に渡り、半世紀ほどで開発されたまだ新しい都市だった。積み荷の集まる港から放射状に広がる街は決して広大とは言えず、建物同士が窮屈そうに肩を並べて集まっている。中でもホテル・ニューワールドには病院、銀行、百貨店……ありとあらゆる関連施設がところ狭しと建ち並び、土地の狭さを補うために高層化した建築群はまるで小高い丘のよう。貧民街で生まれ育った地元の中国人たちはホテルの敷地一帯を、租界の管理が及ばない別の国だとみなしていた。
通りすがりの人々いわく、「あそこは物価が高すぎて。仕事でなけりゃごめんだね」「出入りのたびに持ち物検査。とにかく警備が厳重なんだ」。
お金持ちの集まる場所ならどんな国でも耳にする、ごくありふれた愚痴である。それでも多くの人たちがやたらと煙たがるのには、ちゃんとそれなりの理由があった。ごく限られた中国人と西洋人しか出入りしない、ホテルの地下の存在である。
煉瓦と漆喰で区切ったフロアが延々五階、十階と続き、自家発電でまかなう電気が昼夜を問わずランプを灯す。空調設備も完備され、地上の建物と異なる点は、部屋に窓がないことと、一般人にはその存在が知られていないことくらい。毎日ホテルに出入りするお金持ちの西洋人も、自分たちの足下に中国人が潜んでいるなど夢にも思わなかっただろう。この空間こそ天幇の心臓。上海租界を裏で操る犯罪組織の本丸だった。
人目につかないホテルの中庭、中華風の庭園もそんな地下への入り口の一つ。楼閣の階段を降りていくと、これでもかというぶ厚さの鉄の扉がそびえている。普段であれば門番が不審者に目を光らせているが、この日は様子が異なっていた。門番と警備の男たちが折り重なって倒れている。女が一人、しゃがみ込み、男の懐をまさぐって鍵の束を取り出した。天幇、大哥の命を受け、秋霜を殺しに向かったはずの小姐、紅美鈴である。
「かくして美少女拳士の前に悪は敗れ去ったのだった……って、小芝居してる場合じゃないか。お宝探訪、いざ解錠っ」
重い扉を体で押すと、一直線の長い廊下が美鈴の視界に飛び込んできた。辺りを煌々と電球が照らし、ドアが一定の間隔をあけていくつも規則正しく並ぶ。静かで物音ひとつせず、人が出てくる気配もない。試しに近くのノブを回すと、まばゆい光に目を奪われた。高価な金の延べ棒が部屋中、山積みになっている。
「ふふっ、ふは、ふははははっ」
美鈴は中に駆け込んで頬をぴったりくっつけた。
「嗚呼っ、ひんやり。気持ちいい……。これを全部持って帰れば一生遊んで暮らせるわ」
試しに持つとずっしり重く、手を滑らせて落っことす。ゴーンッと大きな音が響いてとっさにドアの後ろに隠れた。しばらく息を殺して待つが、誰かが駆けつける気配はない。
「……なるほど。こりゃあ重た過ぎだわ。お持ち帰りできない訳だ」
そんなことを言ってる側から一本、懐に隠し持ち、別の部屋の扉を開ける。こちらは美術品の倉庫で、宝石、陶磁器、書画などが所狭しと並んでいた。
「どれが一番高いんだ? 絵とか文字とかよく分からんし、皿は割れちゃいそうだしな」
あれこれ品定めしていると、アクセサリーを収めた戸棚で翡翠の耳飾りが目についた。彫刻された金の装具に大きな石が埋め込まれ、見るからに物がよさそうだ。物は試しと身につけて、鏡の前に立ってみる。吸い込まれそうな深い緑が赤毛の髪によく映えた。
「ふふ、なかなかイケてるじゃない」
「ダサっ。全然、似合ってない」
「わっ」
慌ててひっくり返ると、上から秋霜が見下ろしていた。とっさのことで声が出ず、美鈴は口をぱくぱくさせる。
「あきれた。今度は泥棒ですか」
「……秋霜、どうしてこんな所に? 追われてるんじゃなかったっけ」
「あなたの方こそ、いったい何を? まあ、状況から察するに、カジノの騒ぎに便乗し、荒稼ぎってとこかしら。それとも律儀に私を追って、ここで待ち伏せしてたとか?」
美鈴は図星を言い当てられて、ムググとうなり黙り込む。耳飾りをしぶしぶ外し、置いてあった棚に戻した。
「そっちこそ、誘拐犯にでもなったつもり? 隣にいるの、天幇が探してた女の子でしょ」
秋霜の横には幼い少女、レミリア・スカーレットが佇んでいた。
「説明している時間はないし、その必要ももうないの。あなたはとっくに役目を終えた。盗みのことは不問にするから、早くここから立ち去りなさい」
秋霜はレミリアと連れ立って部屋の外へ歩いていく。
「待てっ」
美鈴も飛び出して二人の背中に大声で叫ぶ。
「逃げんなっ。質問に答えてよ。なんで私を雇ったの? どうして天幇を裏切った? そっちの都合で好き勝手、やりたい放題しやがって。そんな態度をとるんなら力づくでもしゃべらせてやる。あんたの命を奪えって、命令はまだ生きてるからね」
秋霜がぴたりと立ち止まり、一呼吸おいて振り向いた。不機嫌そうにまゆをしかめ、「あー、もうっ」と大声を出す。
「わざと見逃してあげたのに、そんなことも分かんない? あなた、私が思ってたより相当面倒くさい人ね。せっかく稼いだ時間が台無し」
「??? 何の話? 私の話はまだ途中うぃっ!?」
美鈴の言葉が終わらぬうちに、秋霜がスッとしゃがみこみ、ものすごい勢いで飛び込んできた。そのまま高く宙に跳ね、とび膝蹴りを繰り出してくる。美鈴は体を仰向けにそらし、すんでのところでかわし切る。秋霜は両手で着地するなり体をくるりと反転させて、そのまま美鈴の足を払った。美鈴は地面にひっくり返り、頭を打って悶絶する。秋霜がすかさずジャンプして美鈴のみぞおちに渾身の一撃。美鈴は「ぐげっ」と声をあげ、息ができずにのたうち回る。
「咲夜さんとの戦いを見てちゃんと考えておきました。回復力の高いあなたに単発攻撃は意味がない。間髪入れず、最後まで手を抜かないのが肝心です」
しゃべりかける最中も美鈴の首にひじをかけ、情け容赦なく締め上げる。「がっ、ぐごっ」と咳き込む美鈴。振りほどこうともがくうち、秋霜の胸に指がかかって小さな紙がこぼれ落ちた。
若い夫婦の白黒写真。
秋霜は腕の力を緩めて落ちた写真に手を伸ばす。美鈴は床を転がって秋霜の間合いの外に出た。
「げはっ、けほっ。死ぬかと思った。とどめを刺すのをやめちゃうなんて、そんなに大事なものなんだ」
尋ねられた秋霜はバツが悪そうにそっぽ向き、攻撃するのをやめてしまう。何を聞いても黙ったまま、頑なに口を割ろうとしない。
側で見ていたレミリアが我慢できずに口を出す。
「あなた、この前うちの咲夜とじゃれ合っていた女よね」
「あ、ども。初めまして」
話しかけられた美鈴は条件反射で頭を下げる。
「咲夜を引き付けてくれたおかげで自由に遊ぶ時間ができた。だからお礼に教えてあげる。その紙切れの中にいるのは秋霜のお父さん、お母さん。秋霜がまだ子供のときに、天幇に殺されたんだって」
「余計なおしゃべりしないでください。そいつはただの下請けで、メイドの足止めに使っただけ」
秋霜がすかさず口止めし、レミリアはあららと肩をすくめる。
「ん? だけど分かんないな。秋霜は天幇の人間でしょう? 仇の手下になるなんて、うまく辻褄合わないじゃん」
美鈴の素朴な問い掛けに、秋霜が渋い顔をする。
「確かにあなたの言う通り。だけど、そんな連中なんて天幇の中にごまんといるわ。だって、上海で生きていくのは、あなたが想像している以上にずっと難しいことだから」
両親の写真に目を移し、一呼吸置いてから言葉をつなぐ。
「身寄りのない孤児なんて、のたれ死ぬのが関の山。親の仇だからって背に腹は代えられない。実力勝負の世界でね、結果を出せばそれなりによい待遇を得ることもできる。堅気と無縁の人間の方が天幇だって都合がいいし。もし裏切ったらその時は、同じような別の子供を刺客に仕立てて始末する」
「じゃ、天幇に刃向ったのは秋霜が初めてじゃないってこと?」
美鈴にしては珍しくツボを突いた質問に、秋霜の顔が険しさを増す。
「……色んな子がいたわ。圓圓は仲間をたくさん集めて大きな反乱を企てたけど、途中でばれて見せしめに。唯の自爆攻撃は、すんでのところでかわされた。静蕾は大哥の愛人になって毒殺しようとしたけれど、逆に毒を飲まされた。結局、多勢に無勢だし、最先端の科学技術を取り込むのにも熱心だしね。どうしたって勝ち目がない」
拳をぎゅっと握りしめ、下唇を噛みしめる。冷酷無比なようでいて案外情に厚いらしい。
「分かってんならやめときゃいいのに」
「ハハッ、確かに。ごもっとも」
秋霜は自嘲気味に笑い、すぐに表情を引き締めた。
「今からちょうど三週間前、ある情報屋を経由して、英国総領事館宛ての極秘文書を手に入れた。香港にいるイギリス軍が全滅したって報告書。相手は幼い女の子。レミリアさんのことなんですけど、宙に浮くとか、術を使うとか怪しい話ばっかりで。中でも理解に苦しんだのが、その子が丸腰だったってくだり。銃も爆弾も使わない年端もいかぬ幼女一人になぜ軍隊が負けたのか。理由を思い当たるうち、あなたのことを思い出した。歴史上でも極めてまれに、人の形をとりながら人でない者が現れる。並み外れた腕力や知力、特殊な能力を発揮して時代の流れを変えていく。きっと西洋の世界でも同じことがあるんでしょう」
秋霜は大きく息をつき、逸れた話を元に戻す。
「少女の話が広まると、大哥はすぐに私を呼んで略取、誘拐するよう命じた。待ちに待った好機到来。おかげでほかの誰よりも早くレミリアさんと接触できた。天幇じゃなく、私だけの味方にできたら、この忌々しい上海租界を打ち壊すのも訳がない」
「だけど未知の力でしょ? 蓋を開けるまで分かんないのに、本気で勝てると思ってる?」
秋霜の瞳は微動だにせず、ただ一点を見つめていた。美鈴は昔、戦場でこんな顔を見たことがある。無機質で固く強張った、死地に赴く人間の顔。
(ああっ、確実に死相だよ。遅かれ早かれ、こうなったんじゃん。)
美鈴は胸中やれやれとぼやき、一歩前に踏み出した。
「だったら私も一肌脱ぐわ。場数は誰にも負けないし、軍艦を沈めたことだってある。絶対、損はさせないよ」
秋霜がぷっと噴き出した。
「なに冗談言ってんの。何の縁もゆかりもないのに、どうして私を助ける訳? あなたが助太刀する理由、どこにも、一つも見当たらない」
(助ける理由がないなんて……なんで私じゃダメなのよ)
胸の内を見透かすように秋霜が畳み掛けてくる。
「普段、仕事するときにお金のこととか考えてる? いっつも受け取らないじゃない。食べなくってもなんとかなるし、養う相手もいないから」
「そんなの、どうでもいいじゃんか」
ふくれっ面の美鈴に秋霜が意地悪く切り返す。
「よくないっ。だから駄目なのよ。普段、人と交わらない。義理人情も知らないくせに突然、人助けしたいだなんて。怖くてうかつに近づけない。あなたはお金じゃ縛れない」
美鈴はすぐに口を開いて言い返そうとしたものの、返す言葉が見つからない。秋霜がすかさずダメ出しする。
「人が分かち合う喜怒哀楽……損得勘定抜きにして突き動かされる衝動なんて、あなたには最初から分からない。だからこんなに長いこと辟易しちゃう殺し屋だって平気で続けてこれたんだ。用済みだって納得したら、もうこれ以上近づかないで」
黙って聞いていた美鈴が、いきなり「うわぁぁぁぁぁ」と大声を上げ、拳を構えて殴りかかる。不意を突かれた秋霜はまともに喰らって倒れこみ、血の混じったつばを吐く。
「っ痛ったぁ。ちょっと、何すんの」
「うっさいっ、これで分かったか」
美鈴が大声で言い返し、殴った右手を付き出した。
「頭がカァッて真っ白になって、気付いたらこう、手が出てた。これで感情ないって言えるか? 喜怒哀楽がないって言えるか?」
秋霜の胸ぐらをつかんで揺する。美鈴の剣幕に圧倒されて秋霜は何も言い返せない。
「黙って聞いてりゃ、グダグダ、フニャフニャ。なにかっこつけてんだ。あんたが言ってた理由って、理由じゃなくて弱みでしょ? だって、弱点握らなきゃ誰も信じられないから。素直に言えば? 助けてって」
「……だって、そんな世界じゃないもの」
美鈴は「はっ」とせせら笑う。
「冷たそうなふりしてさ、いつまで意地を張ってんだ。そこまで復讐にこだわるのって、誰かを信じたいからでしょう? あんたが人である証。親との絆を守りたいから」
秋霜は胸の写真に手をあて、ぎゅっと目を閉じ黙り込む。そのままじっと動かない。美鈴は一歩、近づいて優しく肩に手を置いた。秋霜がさっと振り払う。駄々をこねる子供みたいで、美鈴は思わず噴き出した。何度も何度も繰り返す。そのうち秋霜が立ち上がり、美鈴の胸をトンっと小突いた。
「……ごめん。やっぱり手伝って」
照れくさそうにうつむき加減で、けれどもはっきりつぶやいた。美鈴は秋霜の手を取って自分の胸に引き寄せる。
「お安い御用……いや、間違えた。高く付くから覚えとけ」
屈託のない笑顔につられて秋霜の顔もほころんだ。
「ふふ、何それ、かっこ悪い」
「あれ? そうかな。決まってたのに」
クスクス笑い合う二人。レミリアがわざとらしそうに、ゴホンと一つ咳をした。
「ちょっと。なんか変なの来たわよ」
廊下の奥から一斉に、「いたぞっ」「あっちだ」と声がする。
「あー、せっかく巻いてきたのに」
「うそつけ、がっかりしてないだろう」
ニヤリと相好を崩す秋霜。
「へへ、バレたか。まあいいわ。どっちが多く倒すか勝負だ」
難なく敵を片付けて次に三人が訪れたのは、これまでとはうってかわって工場みたいな大ホールだった。間仕切りがなく煉瓦が向きだし。他の階の二、三階分はありそうな天井ぎりぎりいっぱいにまで大きな機械が整列し、「ゴゴゴゴゴ」とけたたましい。
「地下の水路で水車を回し、電気を作る機械です」
秋霜が声を張り上げて、美鈴に顔を近づけてくる。
「あ、ここがそうなんだ」
もっともらしく頷く美鈴。
「それで、でんきってどんな味? ちゃんとお腹にたまるのかしら」
秋霜はがくっと肩を落とし、気を取り直して説明する。
「簡単に言うと稲妻のことよ。食べられる訳ないじゃない。夜に部屋を明るくしたり、遠くの誰かと話したり」
照明や冷蔵庫、電信機、はては昇降機まで、ホテル中のあらゆるものを動かす源なのだという。
「だから、ここをやられると天幇にとってかなりの痛手。今から時限爆弾を仕掛けて、敵が混乱した隙に阿片倉庫に火をつける」
これが、秋霜の考えた天幇転覆作戦だった。
発電装置の一番奥に、手早く爆薬を据え付ける。導火線を引き延ばし、マッチを擦ろうとした瞬間、遠くで「タンッ」と音がした。美鈴たちの来た通路から敵がライフルを撃ちはじめ、慌てて機械の陰に隠れる。
「チッ、数が多すぎる。反対側の廊下に逃げよう」
秋霜の「せーの」の掛け声に合わせ、みな一斉に駆けだした。出口まであと半分、滑り込もうとした瞬間、レミリアが派手につっこける。廊下に入った秋霜、美鈴は弾幕に阻まれて近づけない。兵隊たちがレミリアを囲み、一人が肩に手を伸ばす。
「やめろっ、お前ら手を出すな」
秋霜がとっさに叫んだ刹那、男の手首がポトリと落ちた。血が大量に噴き出して悲痛な叫びがこだまする。レミリアに近い敵から順に一人、また一人、血しぶきが飛び、阿鼻叫喚の地獄絵図。
「お嬢様に触れてごらん。手首どころじゃすまなくなるわ」
抑揚のない冷たい声が不意にそれぞれの耳元に響く。声の主は見当たらず、とうとう一人が恐怖のあまり、ライフル銃をレミリアに向ける。
「パンっ」
引き金を引いた時にはレミリアはすでにいなかった。その瞬間まで確実にすぐ目の前にいたはずなのに、今は少し離れたところでつまらなさそうに立っている。見知らぬ女がひざまずき、レミリアの顔を拭いていた。
「嗚呼っ、こんなに汚してしまって。すぐに着替えをお持ちします」
美鈴と秋霜には見覚えがある。一週間前、ホテル・ニューワールドでやはりレミリアの側にいた若い銀髪の家政婦だ。名前は確か、十六夜咲夜。
「大丈夫だった? 怪我とかない?」
レミリアのもとに駆け寄る二人を咲夜が「待てっ」と制止する。
「お嬢様をたぶらかし、連れ出したのはお前らだな」
まず美鈴を一瞥し、先週、戦った相手と気付いて「ちっ」と小さく舌打ちする。それから秋霜に視線を移し、「なるほどね」とつぶやいた。
「そっちの赤毛の女にはこんなマネはできっこない。張本人はあんただな。借りはきっちり返してもらう」
秋霜は何も答えずに相手の攻撃に身構える。けれどもとっくに、気付いたときにはナイフが左腕に刺さっていた。戸惑い、止血する秋霜を見て咲夜の口から笑みがこぼれる。
「心配しなくても大丈夫。急所はちゃんと外してあるわ。もっと苦しんでもらわなきゃ」
すかさず二投目を投げた瞬間、「ダダダダダッ」と轟音がして何百発もの弾丸が四人に降り注いできた。さっきまでとは訳が違う。中隊規模の人数でなければこんな弾幕は作れない。
咲夜と秋霜は戦いをやめ、全員、機械の陰に隠れる。いったん銃声が止んだところで恐る恐るうかがうと、敵はたったの二人きり。ライフル銃の砲身をいくつも束に重ねたような見たこともない重火器が、しっかりこちらに向いている。ぐるぐる回転する間、弾が切れ目なく飛び出してきてうかつに前へ出られない。
「ひえ~っ、あんなの反則だって」
美鈴が体を縮こまらせて、素っ頓狂な声を出す。
「ガトリング砲っていうらしい。三週間前、イギリス軍と戦った時もやっぱりあれが出てきたわ」
咲夜の話すところによると、すべて避けるのは不可能で、相手が弾切れにならない限りここで釘付けにならざるを得ない。打開策が浮かばずにみんなで黙りこくっていると、静観していたレミリアが思いがけないことを言う。
「咲夜、あなたが食い止めなさい。相手に不足ないでしょう?」
咲夜が「え?」と驚いて、主人に珍しく異議を唱える。
「お嬢様と二人だけならすぐにここから出られます。なんでわざわざそんなこと」
「だって、それじゃつまんない。なんのための社会科見学? 一番楽しいフィナーレをみすみす見逃す手はないわ」
咲夜は秋霜と美鈴を見やり、「ちっ」と大きく舌打ちする。
「……それではたいへん不本意ですが、あの攻撃を無力化します。私が五つ数える間に反対側の出口に走って」
体中のポケットからありったけのナイフを出した。その数、ざっと二十本。しかし、たったそれだけであの弾幕を防ぎ切れるか。
「今、飛び出したらハチの巣だって」
美鈴がとっさに引き止める。
「私のことなら心配ない。お前に手の内は見せないわ。準備はできた? なら、行くよ」
「三、二、一」の合図に合わせ、猛然と走るレミリアたち。咲夜だけは別方向、敵の正面に躍り出た。ガトリング砲が火を噴く刹那、ナイフを投げて時間を止める。耳をつんざく銃声が嘘のように静かになった。
「おっと、これは……さすがに多い」
すべての物がピタリと止まり、動くことのない世界。弾丸がミツバチの群れのように四人を取り囲んでいた。位置と向きを確かめて、あるものは直接ナイフではじき、あるものはうまく跳弾をぶつけて当たらないよう軌道を変える。微調整を繰り返すうち、額にじんわり汗がにじむ。
「ふふっ、手間のかかること。じれったいったらありゃしない」
手を休めてハンカチで拭い、主人の姿を確かめる。作業が済んだら時を動かし、うまく敵を引き付けてみんなを出口へ逃せばいい。
「科学は進歩を繰り返す、か……大丈夫とは思うけど」
手を付けたのはまだ数十発。再び主人に会えるのは随分、先になりそうだった。
気の遠くなる時間をかけて咲夜が作業を終えたころ、難を逃れた美鈴たちは、阿片倉庫の入口目指して廊下を走り続けていた。前方に黒い扉が見えてやっと着いたと思ったら、現れたのは一枚の壁。取っ手も鍵穴も見当たらない。
「行き止まりじゃない。どうするの?」
秋霜は質問に答える代わりに鍵の束を取り出した。足元の煉瓦をいくつも剥がし、出てきた鍵穴に差し込むと、「ウィィィィン」と奇妙な音がして壁が跳ね上がっていく。
「厚さ一尺、重さ優に三百貫。人の力じゃびくともしない。これも電気で動かしてるの」
先にはしばらく廊下が続き、奥に倉庫の灯りが見えた。十歩くらい進んでいくと、上からさっきとよく似た壁がいきなり前に落ちてきて、先頭を行く美鈴が止まりきれずにぶち当たる。
「痛ったぁ、畜生……しつこいな。秋霜、早く開けてちょうだい」
「いや、こんなの私も知らない。あれが最後だったのに……」
辺りをくまなく調べるが、今度は鍵穴も見当たらない。
「手下が裏切った時に備えてわざわざ隠してあったみたい。知っているのは大哥だけ。遠隔操作したんでしょう」
「あれ。ってことはもしかして……」
美鈴が後ろを振り向くと、先ほど開けた扉も閉じて袋小路になっていた。
「何のこれしき。フンッ、ハッ」
壁に向かって乾坤一擲、正拳突きをお見舞いすると、「グキッ」と変な音がして手首が妙な角度に折れた。あまりの痛さにうずくまり、声も出せずに身もだえる。
「っうううう、厳しいっ。やっぱ無理。ねえ、レミリアちゃん。いい手ない? 全員閉じ込められちゃうよ」
高みの見物を決め込むレミリア。助太刀する気はないらしい。このままここで野垂れ死にかと本気で焦り始めたころ、「ドン、ドン、ドン」と向う側から壁を叩く音がした。
「お嬢様っ、大丈夫ですか。無事なら返事してください」
追手をすべて始末して追いかけてきた咲夜の声だ。
「おーい、咲夜ちゃん。聞こえてる? みんな閉じ込められちゃった」
さっきまで敵だった相手にも遠慮なく助けを求める美鈴。咲夜は状況を把握するなり声を荒げて怒り出す。
「ああっ、お前ら。何のために先に行かせたと思ってるんだ。お嬢様に何かあったら絶対、なぶり殺してやる」
壁を挟んで罵詈雑言、言い争いを続けていると、美鈴たちのいる〝部屋〟に妙な風が吹いてきた。耳を澄ますと、換気口からかすかに「シュー」と音がする。
「あっ、毒ガス、吸っちゃだめっ」
秋霜の注意も手遅れで、めいめい咳き込み倒れこむ。
「お嬢様、お気を確かに!」
咲夜は慌ててナイフの柄で鉄の壁をガンガン叩く。最初は騒がしかったのに咳の音がしなくなり、やがてしーんと静かになった。
「え、うそでしょ? ちょっと待って……おい、美鈴。何か言えって」
いつものように奇跡は起きない。何度も咲夜を救ってくれた小さな女神は現れない。咲夜は床に膝を突き、こらえ切れずに嗚咽を漏らす。
「ううっ……そんな、こんなことって。いくら能力があったってこうなる運命だったんだ。到底、科学にはかなわない」
「誰が何にかなわないって?」
いつもの聞きなれた声がした。顔を上げると、鉄の扉と地面の間にわずかに隙間ができていた。じわり、じわり、少しずつ扉が天井に引き込まれ、足、腕、胸元と順に姿があらわになる。仁王立ちで、手をきつく握りしめ、怒りの炎を燃やした瞳。人外までもが恐れをなしたあの頃のレミリアそのものだ!
「ああっ、お嬢様っ。よくぞご無事で」
咲夜はすぐに涙をぬぐって全速力で駆け寄った。
「ちょっと、今のは何の冗談? 全然、なんてことないじゃない。こんなことで取り乱してちゃメイド長は務まらない」
言葉に余裕はあるものの、額に大粒の汗を浮かべ呼吸も荒くなっている。かける言葉が見つからず、咲夜はハンカチを差し出した。レミリアはその手を払いのけ、一緒に閉じこめられていた秋霜と美鈴の姿を探す。
二人は意識を取り戻し、やはりレミリアと同じように肩で激しく息をしていた。いくらか回復が早い美鈴は深呼吸を繰り返し、「空気だ、空気」と騒ぎだす。秋霜はぼんやり辺りを見渡し、なぜ自分が助かったのか飲み込めてないようだった。
「最後の扉、開けたわよ。復讐だってなんだって、好きなようにしたらいい」
(ああ、そうか。レミリアさんが。)
秋霜はゆっくり立ち上がり、ふらつきながら前へ出る。美鈴が慌てて付いていき、咲夜とレミリアも後を追う。
倉庫の空気がひんやりと四人にまとわりついてきた。
山積みになった阿片の袋がずらり奥まで列をなす。一斤の値段は金と同じ。全部で一体いくらになるのか、美鈴は少し考えて、すぐにあきらめ嘆息する。以前、試しに吸った時には全く効果が表われず、こんな事態になった理由が未だにぴんと来ないらしい。
「確かに馬鹿馬鹿しいけどね。私も吸うから何とも言えない」
秋霜が少し困った顔で、美鈴の意見に相槌を打つ。
「あ、そっか。なんか、ごめん」
「ううん。早く燃やしちゃおう」
袋に小さく穴をあけると、白い粉がさらさらと煉瓦の床に散らばった。秋霜がマッチに火をつけ、投げる。音もなくゆらゆら炎が立ち上がり、隣の袋に燃え移る。白い煙を吸い込まぬよう服の袖を口にあて、踵を返して出口へ走る。ふと遠くから地響きがして建物全体が揺れ出した。
「ほかにも爆弾仕掛けてたっけ?」
「くそっ、これも大哥の仕業。ここまで来たのがバレたんだ。地下全体を崩落させて、私たちを閉じこめる気よ」
万が一の侵入に備えた自爆用のものらしい。断続的に揺れが続いて袋の山が次々倒れ、天井の煉瓦も落ちてくる。四人は倉庫の外に出て長い廊下をひたすら走る。強い揺れに足をとられて美鈴が前へつっこけた。
「ははっ……生きて帰れんのかな」
返事がなくて振り向くと、秋霜はこちらに背を向けて阿片倉庫に引き返していた。
「なにやってんの。早くこっちっ」
レミリアたちを先に行かせて美鈴は秋霜の後を追う。壁のあちこちにひびが入って、もうフロア全体がいつ崩れてもおかしくない。
倉庫の手前で追いついて肩を無理やり引っ張ると、秋霜は美鈴を払いのけ、「しっ、静かに」とささやいた。
「大哥が近くにいるはずよ。とどめを刺しておかないと」
秋霜が天井を指さした。小さく開いた無数の穴から水が一斉に噴き出してくる。
「機械仕掛けの消火装置。私たちが逃げたのを見て、あいつが起動させたのよ。せっかくの火が消えて阿片を根絶やしにできなくなる」
「だったら何さ? もういいじゃん。この爆発で丸ごと埋まるし、大哥も一緒に生き埋めよ」
びしょ濡れになった髪をかき上げ、秋霜は「いいえ」と首を振る。
「閉じ込められた時だって、いま始まった放水も、あまりにも間が良すぎるの。どこかの隠し通路から先回りして見てたんだ。ほとぼとりが覚めたころ残った阿片を回収し、再起を図るに決まってる」
「もう、そんなのどうだっていいっ。とにかく私と一緒に逃げてっ」
天井全体が大きく崩れ、美鈴の声をかき消した。後ろによけた美鈴の前にがれきの山が積み上がる。廊下が完全に塞がって、秋霜が倉庫に取り残された。言葉を失う美鈴に、秋霜の声が小さく届く。
「美鈴、平気? 怪我はなかった? ここまで本当にありがとう。私は後から追いかけるから」
揺れがますます激しくなった。
至近距離で爆発が起きた。
そして、何も聞こえなくなった。
カジノホールのイカサマ騒ぎがやっと終わったばかりというのに、この日のホテル・ニューワールドには、運とかツキとかその手のものがまったく不足していたらしい。一息入れる暇もなく今度は地下で爆発が起き、開業以来、いまだかつてない存亡の危機に陥っていた。
避難誘導を任された中国人のスタッフたちが「アイヤー」「メイヨー」と泣き叫び、持ち場を離れて散り散りに。「賭神」「盤鬼」等々の字名がついた常連客も、命あっての物種とばかりにチップを捨てて逃げ回る。ホールはとっくにぎゅうぎゅう詰めで、無事、逃げおおせた人たちは、ホテルが炎に覆われて夜空を赤く照らす様子をただ茫然と見つめている。地上に戻ったレミリアと咲夜は、そんな野次馬の群れに混じって秋霜と美鈴を探し続けた。
(最初の爆発が起きてから、もう、かれこれ一時間。これ以上いても無駄かもしれない。)
咲夜はレミリアの手を引いて「行きましょうか」と催促する。動かないので不思議に思い視線の先をたどっていくと、燃え盛るホテルの前に怪しい人影がたたずんでいた。焼け焦げて、ところどころ破けた服。髪の毛もチリチリで、血と煤まみれでギョッとする。おののく人ごみをかき分けて目と鼻の先まで近づき、やっと美鈴だと気が付いた。
「おやまあ。ボロボロになっちゃって。一人? あの子はどうしたの」
秋霜のことを聞かれると、美鈴は髪を逆立てて鬼の形相でにらんできた。「フーッ、フーッ」と鼻息荒く黙って立ち尽くしていたが、緊張の糸が切れたのか今度はわんわん涙をこぼし秋霜の最期を語り出す。咲夜は話が終わるとすぐに、主の表情をうかがった。普段と変わらぬ冷めた瞳。喜怒哀楽は読み取れない。
「気にすることはありません。彼女自身が望んだことです」
主人の心を慮ってそっと声をかけてみた。今さら出来ることなどないし、実際、他人事なのだ。
(困ることなど一つもないし、出来る範囲で力も貸した。なのにどうしてモヤモヤしてる? これでよかったのかしら。)
「あら、なにを言ってるの。これ以上ないフィナーレじゃない」
はい? と戸惑う咲夜をよそに、レミリアがどこかへ歩き出す。向かった先は上海の港。初めてこの地に足を下ろした夜の人気ない波止場だった。
ほら、とレミリアが示した先に誰かがぽつんとたたずんでいる。ほのかに街灯が照らす衣装は赤に金糸の中華服。こちらに背を向けてはいるが、ほかに見間違いようがない。
「秋霜っ」
美鈴が大声で叫び、一目散に飛びついた。気付いた秋霜は避けそこなって二人一緒に海に落ちる。溺れて軽くバシャバシャしたあと、先に上がった秋霜は、もう限界と言わんばかりに息を切らして座り込む。
「ずいぶん手荒い出迎えね。仕事上がりでヘトヘトだってのに」
「だって、びっくりしたんだもん」
まだ海に浮いたまま膨れっ面の美鈴が、あれから何が起きたか尋ねる。離れ離れになってから、今にも崩れそうな倉庫にやはり大哥はいたらしい。
「両親のことは悪かった。戻って力を貸してほしい。私の跡を継いでくれって。ぼっこぼこにしてやった」
ほらっと秋霜が掲げた両手は、指が変な向きに折れ、赤く腫れあがっていた。それから相手が息絶えるまで長くはかからなかったという。
「けど、どうやって脱出したの? 出口はどこにもなかったのにさ」
「まあ、たまたま運が良くて。ほんとに死ぬかと思ったよ。隠し通路があるはずだけどそんなの探す余裕ないし、最初に吐かせとくんだった」
偶然、倉庫の床が崩れて発電用の地下水路に落ち、海まで一気に流されて九死に一生を得たそうだ。
めでたしめでたしということで、秋霜がゴホンと改まり三人に向かってお礼を述べる。
「美鈴、レミリヤさん、咲夜さん。ほんとにお世話になりました。無事に両親のかたきを討って、阿片も全部なくなった。あなたたちの力が無ければ、ここまでたどり着けなかった」
「礼を言われる筋合いないわ。約束通り楽しめたから」
あくまで冷たく接するレミリア。けれどもそっぽ向く時に、一瞬、口元がほころんだ。咲夜が「約束?」といぶかしむ。
そう、ただの人間があれだけ大きな爆発に遭い、水の中で長く溺れて無事でいられるはずがないのだ。
秋霜がレミリアを誘拐し、旧市街地に連れ出した時。衰弱しきったレミリアが、あまりの空腹に耐えかねて秋霜の首に噛みついたのは二人だけの秘密だった。秋霜にとっては不可抗力。それがどんな意味を持つのか、もとより知ろうはずもない。爆発直後に失神し、再び意識を取り戻してから、ただの人ではなくなったのだと初めて気が付いたのだった。一時的なものなのか、不老不死になったかは秋霜にもレミリアにも分からない。どうやら終わりじゃないのは確かで、今の彼女にできるのは、生き永らえたこの運命を受け入れることだけだった。
「それで、これからどうするつもり? 私たちは日本に行くけど」
なんとなく事の次第を察した咲夜は、余計な詮索をあきらめて秋霜に今後の身の振りを尋ねた。
「私は上海に残ります。大哥がいなくなったって代わりは沢山いますから。奴らが悪さをしないよう私が跡を引き継いで、阿片の量を減らしてく」
「へえ、ずいぶん物好きね。人間たちと生きていくのは想像以上につらいわよ」
「ご忠告、どうもありがとう」
「そうだっ。私はどうしようっ」
置いてけぼりの美鈴が素っ頓狂な声を出す。
「天幇なくなっちゃったってことは、よく考えたら失業じゃん。責任とって雇ってよ」
「ごめん、それはできないわ。あなたが人と暮らしていくのは実際問題、無理だもの。周りがどんどん老けていくのにあなたは少しも変わらなくって、最後はみんなに先立たれちゃう。それってあまりにも不憫だわ」
「ん~。だけど、そう言われてもなあ」
「ほかに行くとこないんなら、私たちと一緒に来たら?」
「えっ、ちょっとお嬢様。本気で言ってるんですか」
うげっと露骨に嫌がる咲夜。
「体力だけはあるみたいだし、門番なんてどうかしら」
「しますしますっ、なんでもしますっ。やったっ、お嬢様、世界一っ」
「お嬢様って気安く呼ぶなぁぁぁっ」
咲夜のパンチが炸裂し、キャッキャ、ウフフと騒ぐ面々。このあと、後々まで語り継がれる死闘が幕を開けるのだが、それはまた別のお話。この騒動の顛末を追った新聞記事をあとがき代わりに、ひとまず筆を置くことにしよう。
――明治十七年四月二十七日付「上海タイムズ」1面より――
『天幇解散 阿片流通縮小へ』
上海最大の犯罪組織で、阿片の流通をつかさどる「天幇」が解散したことが二十七日、分かった。同団体が運営する「ホテル・ニューワールド(新世界大酒店)」が全焼し、再建困難になったため。代表の大哥が死亡したとの情報もある。
発端となったのは1週間前の二十日、仏蘭西から上海に到着した豪華客船。乗客が下船する際、西洋人の少女と侍女が宙に浮く様子が目撃され、「欧州から来た道士さま」などと話題になった。
二人は同日、ホテル・ニューワールドに投宿。天幇はただちに素性を調べ、少女が西洋の「吸血鬼」だと突き止めた。その能力を利用しようと少女の拉致を画策したが、逆に内部への侵入を許し、戦闘になったとみられている。
天幇は近年、英国資本のリチャードソン商会と手を組み、科学技術の特許販売にも力を入れてきた。急激な西洋化策が天幇内部で反発を招き、騒動につながった可能性もある。天幇が独占する阿片事業は元従業員が引き継ぐとの情報もあり、今後の動きが注目される。
なお、事件を起こした西洋人たちは昨日、船で日本へ発ち、詳しい身元は分かっていない。