第三章
オーラの足りない妖怪と人並みはずれた人間がホテルで火花を散らす頃、もう一人の西洋人、レミリア・スカーレット嬢は、旧市街地の繁華街で仁王立ちになっていた。
「今日はね、お人形さん作ってちょうだい」
視線の先で震えているのは、老いさらばえた飴細工職人。昨日、港のすぐそばで屋台を出していた中国人だ。正体不明の外国人に飴を売ったばっかりに役所でみっちり取り調べを受け、すっかり気分が滅入っていた。
「もう勘弁してくだせえ。作る分には構わんが、お上がいろいろ厳しいんでさ。それに甘い物ってのは、あんまり食べると体に毒だ」
はっきり断りの意志を伝える。
レミリアは黙って後ろを向いた。
立っているのは咲夜ではなく、チャイナドレス姿の秋霜。
「お代は私が払います。ほかに何か問題が?」
とびっきりの笑顔とともに、銀の貨幣を投げてよこす。ジャラっと地面に散らばったそれは、旧市街地の人間が一生かかっても稼げない額。老人は「ひいぃぃ」とおののいて、首を左右に振ってみせた。
「あら、咲夜ならよかったのに。虫歯になるのでいけませんって、きっと私を止めにかかるわ」
レミリアがかけた言葉にも老人はろくに反応できず、しぶしぶ仕事に取り掛かる。五人家族の人形に、家、家具、ペットの犬まで、本物そっくりな「ままごとセット」ができあがる。レミリアは袋に入れてもらうと、それとは別に注文していたコウモリ飴を舐めだした。
「ふふ、夢の大人買いっ」
「咲夜さんにお願いすれば、すぐに買ってくれるでしょうに」
「虫歯になるから駄目なんだって。それよりあなた、中国人? だったらこの辺、案内してよ。社会科見学とかいうやつで、見聞を広めなきゃいけないの」
年の離れた姉妹のように連れだって雑踏を歩く二人。レミリアの服はドレスではなく、秋霜が用意した中華服。彼女が西洋人だとは誰一人として気付かない。
「あそこにあるのが老城隍廟。道教の神様がまつられてます」
「ふーん、ただの人形じゃない。本物の神様はどこにいるの?」
「私も見たことありません。ぶっちゃけ、いないんじゃないですか」
中国人の信仰を全否定する問題発言。そのくせ、一人で護摩壇に上がり、ありがたそうに煙を浴びる。無病息災、商売繁盛、その他もろもろの御利益があると巷で評判が良いらしい。
「見えないくせに、よくまあ信じる気になるね」
「普通の人には見えないだけかも。本当に霊験があるんなら、あやかりたいじゃないですか」
「冗談、ただの詐欺じゃない」
「あはっ、確かにそうかもです。でも人間ってそんなものです。見えないもの、分からないものを恐れ、敬い、奉る。レミリアさんも不思議な力を持っているとか。少し見せてもらえませんか」
「ふふっ」
レミリアは鼻で笑うと、参拝客でにぎわいを見せる表参道を見渡した。突然、「回れ右っ」と叫ぶ。バラバラだった群衆が全員その場で向きを変え、レミリアの方に姿勢を正す。
「凄っ……ていうより怖っ」
「人なら何でも言うこと聞くわ。少しは信じる気になった?」
「噂は本当だったんだ。どんな仕組みなのかしら」
「吸血鬼なら当然よ。別に驚くことでもない」
「もう十分です。戻してあげて」
レミリアが「よしっ」と声をかけると全員意識を取り戻し、元の通りに動き出す。体を操られていたことに誰も気付いてないようだった。
「しょっちゅう、こんなことしているの?」
「五十年ぶりくらいかしら。ただの遊び、暇つぶし」
「あなたに手伝ってほしいことがあるの」
レミリアはニヤリと笑みを浮かべ、まるで待っていたかのように黙って続きをうながした。
「さっきのホテルを襲撃してね、上海中の西洋人を海の向こうに追い返す」
「ククッ、穏やかじゃないわねえ。一体どういうことかしら」
秋霜はレミリアの手を引いて細い路地に入り込み、誰もいないのを確かめてからすぐに話を切り出した。
「上海には天幇って組織があって、物事をすべて仕切ってる。私はそこの殺し屋さん。あなたを誘拐しに来たの。人じゃないって聞いていたからどうしようかと思ってたけど、素直な性格でよかったわ」
「飴に釣られたわけじゃないわよ」
「あはっ」
秋霜は表情を崩し、懐から紙切れを出して見せた。
「私のお父さん、お母さん」
若い夫婦が白黒で、今にも動きそうなほどリアルに描き込まれていた。絹に刺繍を施したよそ行きの服で着飾っている。けれども二人の表情は、何かのお祝いに描かれたにしては不自然に固くこわばっていた。
「西洋の技術、銀版写真で描かれたらしいわ。本当に生きてるみたいでしょ。おかげで私、いくつになっても両親の顔を忘れない。物心ついた時にはさ、とっくに死んじゃってたのにね」
「ホテルと何か関係が?」
「あのホテル、経営するのはイギリス人の貿易商よ。天幇が戦争で負けた後、所有権だけ手元に残して高値でそいつに貸し出したわけ。古くて立派な建物なのに、改築しちゃってもったいない」
秋霜はやれやれと肩をすくめ、両親の絵を懐にしまう。
「父は腕利きの絵師だった。ある日、天幇の大哥に呼ばれて、牡丹の花を注文されたの。見事な作品に仕上げたわ。けどね、それは罠だった。イギリス人の商人が、一枚の絵を持ってきた。銀版写真で描かれた牡丹。本物の花に近いのは、誰が見てもイギリス人の方。天幇のボスと商人は、どちらが立派な牡丹を描けるか二人で賭をしていたの。かわいそうに、お父さんは怒った大哥に殺されちゃった。この絵は父が殺される前、むりやり写真で撮られた絵。筆で描くんじゃないそうよ。科学っていうカラクリで、誰でもそっくりな絵が描ける。そんな馬鹿げたやり方で最後の姿を残されるなんて、屈辱的な話よね」
イギリス製の靴下が中国人にはさっぱり売れず、焦った商人が仕組んだゲーム。天幇は負けをきっかけに西洋科学に関心を持ち、技術指導を受ける代わりに阿片の小売りに乗り出した。
「だからホテルを襲うのは、私の大事な大事な復讐。西洋人に手を貸した売国奴たちも同罪よ。誘拐なんて、のんきにやってる場合じゃないの」
レミリアは相づちを打つでもなく、口の中の飴玉を音を立てて転がしている。人の身の上話にはそれほど興味がないらしい。
「ホテルは上海の権力の象徴。天幇の本部もあの中にある。昨夜、あなたが泊まったおかげで幹部連中は大騒ぎ。港で空を飛んだ話はとっくに広まってるからね。どんな力を持っているのか、組織で利用できるのか、とことん素性を調べたわ。大哥も今頃、慌てているはず。予定の時刻を過ぎたのに、私が帰ってこないんだもの」
秋霜はレミリアの手を取って、ぎゅっと強く握りしめた。
「見えない神って言ったけど、あなた、ちゃんと見えるじゃない。こうやって手もつなげるわ。西洋人と天幇は政府や軍隊を抱き込んで科学の力も手に入れた。打ち負かすのに、まだ知られてない力が欲しいの。あなたならきっと太刀打ちできる」
「ガリッ」
黙って聞いていたレミリアの口から飴の砕ける音がした。破片がすべて溶けるまでしばらく時間をおいてから、ようやく答えが返ってくる。
「科学、咲夜が心配してた。人の知識の集大成。魔法と別のやり方で不可能を可能にする手品。あの子は奇跡を起こすと言うけど、ただの子供だましじゃない」
秋霜は首を左右に振って、小指ほどの長さしかない細い木の棒を取り出した。近くの壁にこすりつけるとシュッと微かに音がして、小さな炎が燃え上がる。
「マッチっていう発明品。どこでも簡単に火がつくの。科学ってこんな具合にね、難しかったみんなの夢をいともたやすく叶えてくれる。手品みたいなインチキじゃないわ」
レミリアは別に驚くでもなく、黙ってマッチを見つめてる。風が一瞬、強く吹き、炎があっけなく消えた。秋霜は次のマッチをこするが、何度やっても火がつかない。
「……これもあなたの仕業?」
レミリアは秋霜の質問に答えず、可笑しそうにクスクス笑う。
「フフッ、だから言ったじゃない。弱くて脆くて目も当てられない。それでも科学は凄いって言える? あなたに証明できるのかしら」
「力を貸してくれるなら、たっぷり味わせてあげる」
自信ありげにほほ笑んでみせる。しかし、よくよく観察すると両手をぎゅっと握りしめ、足元は小刻みに震えていた。何と言っても目の前にいるのは、人を簡単に殺してしまえる、人と相容れぬ吸血鬼。身がすくんでも無理はない。まともに視線を合わそうものなら五分と精神が持たないはずだ。
「ぷっ、くくく、あはははははは」
根負けしたのかレミリアが顔をゆがめて再び笑う。突然のことに戸惑う秋霜。レミリアはひとしり笑った後、涙を拭いて向き直る。
「うーん。そうね、そんなに言うなら。あなたの遊びに付き合ってあげる」
「えっ、本当? でも、なんで」
「だから、さっきも言ったでしょ。社会科見学とかいうヤツで、見聞を広げなきゃいけないの。旅のしおりもあるけどさ、筋書き通りじゃ退屈だもの。咲夜にばれたらそのときはあなたが代わりに説明してね」
秋霜はパッと笑顔を浮かべてレミリアの体に抱きついた。
「わっ、なんだっ。離せ人間」
華奢な手足をバタつかせ、逃れようともがくレミリア。
「西洋式のハグってやつでしょ」
「違うっ、使う場面が違うっ」
暴れ回るレミリアに負けじと顔を引き寄せる。偶然、触れた小さなおでこが焼けた石炭みたいに熱い。
「あれ、もしかして熱ですか? どこか具合、悪いんですか?」
レミリアは秋霜を遠ざけようと何度も必死に手を振るが、その動きには力がない。秋霜はレミリアをおんぶして近くの茶館に部屋を取る。中華服のひもをゆるめて、汗を拭いたり手であおいだり。レミリアは目を閉じたままぐったりとして動かない。時々、ひどくうなされながらポツポツつぶやくところによれば、長い時間、日光に当たると調子が悪くなるらしい。部屋でそのまま寝かしつけ、一時間ほど回復を待つ。再び目覚め、落ち着いたところで話の続きを持ちかけた。
「それで、報酬なんですが」
「報酬? そうか、お金のことね。そんなの別にいらないわ。勘違いしてるみたいだけど、私が協力しようがしまいが大勢に影響ないからね」
予想外の一言に、ピクリとまゆを動かす秋霜。
「話が違うと言いたげね。ああ、これだから人間は。私が誰かに手を貸すなんて、まずありえないことなのよ。それだけで感謝しなくっちゃ」
あっけにとられる秋霜を見て、愉快そうに笑うレミリア。
「復讐になんて興味ない。面白そうなのは科学の方よ。期待を裏切らないように、せいぜい楽しませてちょうだい」
「……ええ、もちろん。もちろんよ。とことん付き合ってもらうから」
秋霜は表情を固くして、絞り出すように吐き捨てた。
美鈴たちの騒ぎのおかげですべての行事が中止になったこの日の新世界大酒店は、日が暮れるころになっても営業再開どころではない、物々しい雰囲気に包まれていた。事件の引き金を引いたとみられるメイドと少女を探すべく、ぐるりと規制線が張られ、天幇直属の組員たちが情報収集に駆けまわる。近くにいたはずの秋霜はいつまでたっても姿を見せず、男たちの表情に焦りと疲労が色濃くにじむ。
滅茶苦茶にされたラウンジは大規模改修が必要だったが、建物全体からすると損壊の規模は軽微だった。それでも次の襲撃を恐れてホテルは当分の休業を宣言。さすがの上海社交界も束の間の休息を得ることになる。情報提供を呼びかけるビラが至る所に張り出され、懸賞金もかけられた。誰もがそわそわ落ち着かず、見たこともない犯人についてまことしやかに話し合う。上海の町全体が、まるで戦争前夜のような不穏な空気に満ちていた。
事件にかかわった美鈴はというと、すぐにホテルの奥に呼ばれて、幹部とおぼしき男たちから事情聴取を受けていた。夜になるまで洗いざらい話し終えると、別の場所に案内される。
建物の中央に位置するそこには、静かな中庭が広がっていた。
広い洋館の敷地の中で、西洋でない唯一の場所。
海に見立てた池があり、東西南北それぞれに四つの島が浮かんでいる。四季の植物が生い茂り、島から伸びた四本の橋が水上の楼閣につながっている。漆喰の壁、朱の柱、緑に彩られた瓦。そこら中にちりばめられた中国伝統の佇まい。満月にはまだ早い十三夜の月の光が優しく水面に影を落とす。瀟洒な楼閣の屋根の下、一人の老人が待ちかまえていた。
「おや、これは噂以上に可愛らしい娘さんじゃ。今日は大変じゃっただろう」
「可愛いっ!? 今の本当ですか?」
「フォ、フォ、待たせてすまんかったの。もちろん、男に二言はない。ほれ、甘いお菓子でもお食べ」
老人は机に置いてあった月餅を一つ差し出した。美鈴は遠慮なく手を伸ばし、熱いお茶で流し込む。
「フォぉぉッ、甘すぎてほっぺが落ちる」
「おや、そんなに気に入ったかね。食べながらでいい、聞きなさい。呼び出したのは他でもない。軽く残業を頼みたいんじゃ。お前さんと行動していたうちの秋霜が帰ってこん。見つけて連れてきておくれ」
めがねをかけた老人は質素な服に身を包み、胸までひげを生やしている。旧市街地の片隅で日なたぼっこしてそうなごく平凡な年寄りなのに、妙に存在感がある。美鈴は容易に想像できた。この人物こそ天幇のボス、上海租界を影で操る大頭目の大哥だ。
「なんだ。結局、人捜しですか。あまり得意じゃないですけど」
「彼女はうちでも一番の手練れ。ほかに頼める人材がおらん」
「ええっと、つまり、どういうこと?」
「わしの勝手な想像じゃがの、秋霜はお前さんにこう言うはずじゃ。天幇に帰るつもりはない、とな。もし、本当にそう言われたら彼女をこの世から消してほしい。お前さんならできるはずじゃ」
月餅を持つ手を止めて、ごくりとつばを飲み込む美鈴。嫌とは言わせぬ無言の力が肌にひしひし突き刺さる。
「……裏切り者を始末しろ、と?」
「簡単に言えばそういうことじゃ。これを彼女に渡しておくれ。今まで立派に働いてくれた。私からの餞別じゃ」
美鈴は小袋を受け取って、恐る恐る質問する。
「あの、一応なんですけど。お名前、聞いてもいいですか。仕事の依頼を受ける時には必ず聞くようにしてるんで」
「この業界は長いんじゃろう? 目星はとうについとるはずじゃ。無事に仕事を済ませてきたら専属契約の用意をしよう。阿片戦争での活躍は、たっぷり聞かされとるからのう」
初対面のはずなのに、素性を知ってる風な口ぶり。美鈴は途端に血相を変え、音をたてて立ち上がる。大哥が肩に手を置いて席に着くよう促した。
「ま、そう熱くなりなさんな。腕が立つのに悪い癖じゃ」
愉快そうにフォ、フォ、と笑い、庭の奥へ立ち去った。
大哥と別れた美鈴は、素性がばれたいきさつを徹底的に調査するべく、ごった返す旧市街地を一目散に引き返していた。阿片窟に飛び込むやいなや夕食中の師父に駆け寄り、あらん限りの呪詛暴言、罵詈雑言を浴びせかける。
「キィーーーッ、このアンポンタン。人でなしのタヌキおやじ。どうして天幇の大哥が私の正体知ってるわけ?」
「え、なんだって? 話が見えん」
「さっきホテルで会ったのよ。私の素性を知るやつなんて師父以外にいないじゃないか。あんたがばらしたんでしょうっ」
「待て。少し落ち着きなさい。わしはバラしてなんかない。たぶん、昔から知ってたんだ。図体のでかい組織だからな。色んな情報が集まってくる」
「今まで偽名で仕事を受けても、向こうは何も言わなかったわ」
「知らないふりをしてたのさ」
美鈴はジっと師父をにらみ、「わざと、わざとか……」と思案する。しきりに首をかしげていたが、そのうちどうでもよくなったのか、あっさり話題を切り替えた。
「だけど、酷いと思わない? 大哥に頼まれた仕事のことさ。昨日まで仲間だったのに、秋霜を始末しろだなんて」
普段、仕事に関しては愚痴を言わない師父も、さすがに渋い顔をする。
「まあ、俺だって本当のところ、大哥の考えはよく分からん。一つだけはっきりしてるのは、逆らえばみんなああなるってことだ」
想要信息(情報求む)と漢字で書かれた秋霜の絵、指名手配の張り紙が壁に何枚も張られていた。
「本人が目の前にいるみたい」
「写真っていって、西洋人の技だそうだ」
紙に描かれた秋霜はまつげ一本に至るまで、まるきり本人の生き写しだった。美鈴は顔を近づけて、よく表情を観察する。瞳の奥まで生き写しだが、彼女が何を考えているのかうかがい知ることはできそうにない。
「彼女、本当に裏切ったのかな。私がホテルで戦ったのって、あの娘がどこかに逃げるため、時間を稼ぐためだった?」
師父は急須にお茶を入れ、美鈴の前の湯飲みに注ぐ。
「人は見かけによらんからな。そういつまでも気にするな」
「悪い娘には見えなかった。やっぱり人間って分かんない」
美鈴はしょんぼり肩を落とし、湯呑みを抱えてズズズとすする。すぐに「そうだっ」と立ち上がり、大哥に渡された小袋を出した。
「これ、秋霜に持って行けって。危うく忘れるとこだった」
中には粉の固まりと煙管が一本入っていた。師父が粉をぺろりと舐めて、すぐにしかめっ面をする。
「純度が高い。上等な阿片だ。売れば相当な金になる」
「退職金の代わりかしら」
「馬鹿、もっと頭を使え。これから殺す相手だぞ」
「馬鹿!? 馬鹿とは失礼な……!? 秋霜は阿片中毒者、とか?」
「そう。それしか考えられん。阿片が欲しけりゃ戻ってこいって。わざとらしくも分かりやすい、ある種の最後通告さ。おかげで、秋霜の立ち寄る場所はかなりのところまで検討ついた。首尾よく見つけ出せるかどうかは、お前のがんばり次第ってとこか」
「ん、それってどういうことよ?」
「つまり、張り込みしろってことさ」
その後の必死の抵抗もむなしく、美鈴は上海郊外の人もまばらな荒野の茂みに姿を隠す羽目になった。目と鼻の先に廃屋がある。師父の業界情報によれば、上海で唯一、天幇ルートを通さない阿片の取引場所だという。普段は無人で、密売人が日時を指定し、品物と代金を交換する。やってくるのは、天幇に顔を知られたくない訳ありの客ばかりだった。お尋ね者になった秋霜は、手持ちの阿片を使い果たせば禁断症状に襲われる。そうなる前に手に入れようと必ず姿を現すはずだ。そのタイミングで接触するのが、師父と美鈴の筋書きだった。
ところが、すでに一週間。人の出入りは皆無だった。
「ふわぁ、眠っ。退屈だ」
思わずあくびが飛び出す美鈴。
「不眠不休の見張りとか、やっぱり向いてないよね、私。絶対、眠くなるんだもん」
流れる雲を目で追うほかに、やるべき事が浮かばない。
(まったくもって世話が焼ける。三食保証されてんのに、どうして裏切ったのかしら。)
秋霜の事を考えるうちに、うとうと眠り込んでしまう。
美鈴の素性は妖怪で、人間みたいに寿命はなかった。老いることもないせいで、一つの場所に長く留まることができない。それでも人と関わり合うのは、彼らがときおり垣間見せる家族や仲間、友との絆に無意識に憧れてるからだった。きっかけは劉師父との出会い。初めて顔を合わせた時、彼は十六の子供のくせに、美鈴を妖怪と知りながら危険を冒してかくまってくれた。きっとあの時、師父は妖怪でなく人として美鈴を扱ってくれたのだ。素性を知られた人間とその後も関係が続くのは、それが初めてのことだった。
天幇よりも大切なもの。今の美鈴には昔と違って、この町で暮らす理由がある。
秋霜にだって、あるはずだ。
(家族か友人にかくまわれ、身を潜めてるに違いない。地元住民を敵に回せば、見つけ出すのはまず不可能。彼女がここに姿を見せなきゃ、この残業は失敗ね。どこかに高飛びでもするか。お尋ね者になっちゃう師父は縄をつけてでも連れていく。たっぷり貯め込んでるはずだから、旅費の心配はしなくていい。)
「こらっ、紅花。仕事さぼるな」
「どわっ」
跳ね起きて前を見ると、目と鼻の先に秋霜がいた。少しも悪びれた様子を見せず、得意げな顔で見下している。
「ふふ、怠けちゃ駄目ですよ。それじゃ一流を名乗るのは無理ね」
(あんた、自分が追われてるって自覚に欠けてるんじゃないの?)
美鈴はそんな声が出るのを必死にこらえてため息をつく。一週間も待ち続けたのだ。今さら愚痴ってもしょうがない。
「ごほん、ええっと、よく分かったね。せっかく巧妙に隠れてたのに」
「遠くからでも丸見えでした。内偵、向いてないですね」
「ぐっ、それは言わないで。これ、大哥から預かってきた。そろそろ切れるころだって」
秋霜は袋を受け取ると、煙管を出して阿片を詰める。慣れた手つきで火をつけて、ふわりと煙をはき出した。
「吸わないって決めていたけど、そうそう、うまくはいきません」
「やめられないの? どうしても?」
「入り口はあっても出口はない。意志でどうにかなるものじゃないです。あなたも見てたら分かるでしょう? 町中、阿片、阿片ばっかり。クスリのことしか考えてない」
確かに秋霜の言う通り、町は阿片に蝕まれ、元に戻るにも手遅れだった。煙を燻らす秋霜に美鈴は動揺を隠しきれず、慌てて次の話題に移る。
「空飛ぶ二人はどこにいるの? あなたの似顔絵、写真ってのが上海中に張り出されてた。今ならきっとなんとかなるから、早く天幇に戻ってきなよ」
「私は二度と戻りません」
秋霜は即座に断ると、思いもよらぬことを言う。
「そんなに天幇の肩を持つなら、私の後釜に座ります? 推薦状くらい書いてあげます」
予想外の一言に目を丸くする美鈴。自分が裏切ったばかりの組織に、どうして人を勧誘するのか。まったく訳が分からない。
「えっと、……ありがたい話だけど、私、もともと流れ者だし。他にもいろいろ事情があって」
美鈴の言葉を途中で遮り、秋霜がさらに突っかかる。
「紅花さんの実力ならば大哥も納得するはずです。お給料も悪くないから、食うに困ることもない。物乞いしたり、体を売ったりしなくて済むでしょ?」
「パンっ」
美鈴が秋霜をぶった。怒りに肩を振るわせて、目には涙を浮かべてる。
「なんだ、馬鹿にしやがって。そりゃあ、食うに困ってるわよ。飢え死にしなくてもお腹は空くし、毎日貧乏、その日暮らし。だけどどうにか自分なりに必死になってやってんだ。お前なんかに分かってたまるか」
そこまで一気にまくしたて、美鈴ははっと我に返る。自分が手を出したことに気付いて、バツが悪そうにうつむいた。
「大哥と会って話したわ。あなたのこと、腕が一番立つんだそうよ。すごく信頼されているのに、どうして天幇を離れたの」
秋霜はうずくまったまま、美鈴の問いに答えない。
「せめて、どこかに高飛びすれば。ヨーロッパならいいじゃない。せっかく英語しゃべれるんだし。ね、それでいいでしょう?」
何も答えぬ秋霜に、美鈴は次の言葉が浮かばず、立ちつくすよりほかになかった。人間みたいに説得なんて、うまくやりきる自信はない。
どれほど時間がたっただろう。
「紅花さんって妖怪ですよね」
秋霜がゆっくり立ち上がり、美鈴に向かって話し始めた。
「本当の名前は紅美鈴。この仕事に取りかかる前、大哥に教えてもらいました。敵は空飛ぶ西洋人。ただの人間が捕まえるなんて、どだい無理な話ですから、あなたにお鉢が回ったわけです。噂に聞いてはいましたけどね。前の戦争で活躍し、伝説になった請負人。なんでも、ぜったい死なないんだとか」
美鈴は観念したように、肩をすくめて頷いた。
「書庫で記録を調べました。場数がはんぱないですね。それも難しいヤマばかり、全て一人でこなしてる。さすがの私もかないません。それだけ力を持ちながら、どの組織にも属さずに、師父を通してしか仕事を受けない。彼とは親しいようですね」
「別に。ただの雇い主よ」
「本当に、ただの、なんですか?」
「……師父のためになればと思って」
「そう、まさしくその通り。師父と組んで働くことで彼の評価も上がります。それって、私と違います。私が天幇で働くのはね、誰かのためになんかじゃない。生きるための手段です。湿っぽい感情なんて、入り込む余地ありません」
――遠い昔。美鈴が人に雇われて初めて仕事を請け負った、あの頃のような感覚だろうか。美鈴は秋霜の言いたいことが少しだけ分かるような気がした。
「初めてあなたに会った時、少しだけうらやましく思いました。あなたと師父の間には特別な絆があるように見えた。あなたみたいに生きるのなら、きっと私のいるべき場所はこことは別のどこかでしょう。それはつまり、できないってことです」
「あなたの家族や友達は?」
「汚れ仕事をこなすのに、どちらも邪魔になりますからね。私は天幇の組織における、唯一無二の歯車です」
「あなたが、それを望んでいるの?」
「人は誰もが気付かぬうちに、望まぬ一生を過ごすもの。案外、普通のことですよ。だけど妖怪のあなたは違う。自由になれる力があるのに、よりによって天幇の汚れ仕事を請け負うなんて、私には理解できません。組織や世間に縛られたいの? 妖怪のくせに人間ごっこ? 自分に絶対にできないことを、代わりにしろって言うんですか。それがどうしても許せない。だから一発、殴らせて」
不意をつかれた美鈴は頬に強烈な一撃を食らい、そのまま後ろに吹っ飛んだ。
「私は飼われていただけよ。あなたに分かるわけがない」
「くっ。そんなの分かんないじゃん」
「誰? そのみすぼらしい女」
突然、知らない声が響いた。
秋霜の頭上、ちょうど太陽と重なる位置に幼い少女が浮かんでいる。ホテルのラウンジで食事していた西洋人の女の子。戸惑う美鈴に目もくれず、秋霜に向かって話しかける。
「いつまで油売ってるの。さっさと町に戻るわよ」
「はい……すぐに終わります」
秋霜は受け取った阿片の残りを美鈴に向かって投げ返す。
「私にはもう、いりません。大哥にそう伝えてください」
「それじゃ、あなたが困るじゃない。……阿片、切れるときついんでしょう?」
秋霜からの返事はなかった。少女がふわりと着地して、黙って秋霜と手を繋ぐ。
「では、美鈴さん。さようなら。次に会いにくるときは、ちゃんと殺しに来てくださいね」
少女と並んで歩く秋霜。美鈴はその場に座り込み、声をかけることさえできない。
春の柔らかな日差しだけが、辺りをのどかに照らし続けた。