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明治十七年の上海租界  作者: 抄十録
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第二章

 紅魔館の主と従者が上海に着いた次の日の昼、旧市街地の片隅を若い赤毛の娘が一人、しょぼくれ顔で歩いていた。なにやらブツブツつぶやきながら、食堂の前を行ったり来たり。

「食うべきか、食わざるべきか……って、うわあああああっ食うに決まってるわよ。これ以上お腹すいたら、マジで何しでかすか分からん」

 周囲を気にする余裕もないのか、「うおおぉぉぉ」と店に駆け込んでいく。

「炒飯、かに玉、水餃子。あと、麻婆豆腐と北京ダックも大至急」

「あんた、そんなに食えんのかい」

 白菜を洗う店の主人は、殺気だった娘を見ても少しも動じるそぶりを見せず、ゆっくり顔を上に向けた。

「あれ、私をご存じない。ほら、前の戦争でイギリス軍を蹴散らした、紅美鈴って私です。あっ、サイン欲しいんですか?」

「しっ、とっとと出ていきな。どうせ文無し宿無しだろうが。てめえみてえな貧相な女、うちはこれでも忙しいんだ」

 客は一人もいないのに、超バレバレな嘘である。美鈴は「ふぁたーっ」と奇声をあげて突きや蹴りの演舞を見せた。

「ね、なかなかやるもんでしょ?」

 主人はお玉を手に取って中華なべをガンガン叩き、コツンっと美鈴の頭をこづく。

「お前が本物だとしても、とっくの昔に死んでるはずだ。それに結局、あいつらのせいで俺たちゃ戦争に負けたんだ。ただで食わせる義理なんてない」

「で、でも、回鍋肉……」

「帰れ」

 にべなく外に追い出され、美鈴は大声で悪態をつく。

「くそハゲ親父。げんこつで勝負だ」

 ガツっと壁に蹴りを入れると、水の入ったバケツを片手に親父が店から飛び出してきた。

「うわっ、ちょい待ち。話せば分かる」

 バシャッと水をかけられて美鈴は全身ずぶ濡れになり、立ちつくすよりほかになかった。髪から水を滴らせ、貧民街へと歩き出す。

「へくちっ、寒っ。どうにも参るね。昔は『美鈴ちゃん、可愛いね』とか言って、みんなでおごってくれたのに……」

 とぼとぼ歩く後ろ姿は、みじめそのものと言ってよかった。けれども四十二年前、彼女は今と変わらぬ姿で、敗けっぱなしの中国を救う美少女ヒロインだったのである。とっくに死んでいるはずだ、と主人が言うのも当然だった。時がたっても美鈴の姿が変わらないのは、彼女が妖怪だからである。

 どんな妖怪?と聞かれても、「人が良くて力自慢」とあいまいにお茶を濁すしかない。もっと優れた力があれば他に言いようがあるけれど、「気を使う程度の能力」では自慢にだってなりはしない。世間に溶け込み人間として、平凡な日々を過ごしていた。

 麦の刈り入れに精を出し、後宮に仕えたこともある。何をやってもドジを踏み、三ヶ月だって続かない。ひょんなことから武術を学び、これだけはどうにか物になった。先の阿片戦争では中国義勇軍に入り、イギリス軍の戦艦を強襲。その名をとどろかせたのである。

 けれどもいくら活躍し、人間として認められてもしょせん美鈴は妖怪だった。どれだけ周囲に馴染んだところで、仲良くなった友達は一年ごとに歳を取り、くしの歯が欠けるように死んでいく。一人、姿が変わらぬ美鈴は自分の素性がばれないように、姿をくらませるしかなかった。

 仕事も暮らす家もなく、食を求めてさすらう毎日。ご飯がなくても死にはしないが、お腹の虫が大騒ぎして今日も美鈴を困らせる。


「空腹を感じない程度の能力、どっかに落ちてないかなあ」


 ふぬけた言葉を繰り返し、たどり着いたのは町はずれにある阿片窟。入り口近くの道ばたにたくさんの人が倒れていた。阿片が買えず動けなくなった末期中毒の患者たち。踏みつけぬよう注意しながら「王国的館(天国の家)」と書かれたくたびれきった建物に入る。薄暗い奥の番台に目当ての老人が座っていた。

「劉師父っ、元気だった?」

「んん、美鈴か。また金をせびりに来たのか」

 師父と呼ばれた老人は途端に顔を曇らせて彼女の方を見向きもしない。

「ここは商売する場所だ。ただでやる物なんてない」

「いいから何か食べさせて。お昼の残りでいいからさ」

 美鈴は勝手に奥へ上がると台所周辺を漁り始める。

「お、じゃじゃん。蒸し団子発見。これ、売り物じゃないでしょう」

「一ヶ月前のお昼の残りだ。干からびちまって、無理だろう」

「私の胃袋、鉄より固いの。だから遠慮はいらないわ。もちろんちゃんと仕事するから、そんなにけちけちしなさんな」

 美鈴は長いすに腰を下ろし、人の頭ほどもある大きな団子と格闘を始める。

「固っ、何これ。人間用? ガジガジ……そいで、どうなったのよ。街じゃ大騒ぎしてるけど、私の力がいるんでしょう?」

「騒ぎだって? 一体なんの」

「空を飛んだっていうじゃない。女が二人、西洋人。子供だって知ってるわ」

「なんだ、全部聞いてきたのか。そうさ、お前と同じだ。人外の力を持ってるらしい。大哥がいたく気にしていてな、少しは金になるかもしらん。ほら、ここに描いてある」

 美鈴は受け取った人相書きをひと目見るなり破り捨てた。

「ううぅ、また人探し。最近、その手の仕事ばっかり。私これでも武闘派よ? 聞き込みとか尾行とか、あんまり得意じゃないんですけど」

「今度はお前にぴったりの仕事だ。詳しいことはあいつに聞け。指示も全部あいつから出す」

 現れたのは秋霜と名乗る十代後半の小姐だった。華奢で体の線は細いが、身のこなしから一目で武術を使うと分かる。店員が着るチャイナドレスで、うまく正体を隠していた。

「秋霜といいます。どうぞ、よろしく」

「劉紅花よ、はじめまして」

 劉紅花とは美鈴の偽名。師父が付けた通り名だ。秋霜はその名を耳にするなり、かすかに首をかしげてみせた。

「紅花というのは本名ですか?」

「別に、仕事をちゃんとこなせば名前なんてどうでもいいでしょ」

「失礼、おっしゃる通りですね」

 秋霜は軽く受け流し、すぐに話題を切り替えた。

「時間が無いので手短に、用件のみを伝えましょう。今回、あなたにお願いするのは天幇(てんぱん)直轄の案件です。明朝8時、ホテル・ニューワールドのエントランスに来てください。さっきの紙に描いてあった西洋人の連中と一戦交えてもらいます。詳しい話は明日朝に」

 娘はそれだけ伝えると、周囲の視線を気にするようにそそくさと外に出て行った。

「今のは? 初めて見る顔だけど」

「俺も本当の名前は知らん。なにしろ天幇(てんぱん)直属だ。昨晩、突然やってきて、お前が来るのを待ってたんだ」

「まだ若いのに、雰囲気あるわね」

「修羅場をくぐってきたんだろう。余計な詮索しなさんな。お前さんだって似たようなもんだ」

 そうたしなめる劉師父は、美鈴が人でないと知る限られた人間の一人だった。阿片窟の仕事のかたわら、上海マフィア「天幇(てんぱん)」から裏の仕事を引き受けて時々美鈴に紹介する。四十年の付き合いになる頼れる仕事仲間だった。

「それを言われちゃ立つ瀬がない。あーあ、どんな相手だろ。体、なまってなきゃいいけどな」

 美鈴は首をボキボキ鳴らし、口をくわっと大きく開けた。攻めあぐねていた蒸し団子をぱくっと丸呑みしてしまう。

「……さすが妖怪、やることが違う」

 師父はあきれてつぶやくのだった。



 新世界大酒店、もといホテル・ニューワールドは、中国を旅する欧米人なら誰もが一度は憧れる最高級のホテルだった。

 もともと築二百年になる贅を尽くした迎賓館で、中国全土の金持ちが夜な夜な宴にふけった場所だ。阿片戦争終結後、イギリスから来た貿易商が建物を丸々借り上げて、ヨーロッパで流行していたアール・ヌーボー様式に改築。随所に中国の意匠も残し、上海らしい豪華なホテルに仕上げていた。

 そして、おしゃれな建物以上に大きな特徴と言えるのが社交場としての機能だった。カジノ、デパート、ダンスホール、オペラハウスに屋内プール。高級娼館のフロアまである。あらゆる娯楽を詰め込んだ世界の楽園といったおもむき。社交クラブの会員たちの胸に輝くピンバッチは、現地の西洋人の間でステータスになっていた。美鈴のような庶民にとっては雲の上の場所である。


 そんな訳で約束の朝、美鈴はホテルに到着すると玄関前から恐る恐る中の様子をうかがってみた。

「なにぶん、初めての場所だからね。下見はセオリー、セオリーよ。断じて、気後れなんかじゃない」


 案外、小心者である。


 とっくに朝日が昇っているのに、夜会服で着飾った西洋人が出入りしていた。社交界では目立つのが一番。時刻に合わせた服装なんて、いちいち気にしてられないらしい。ポーターに指示してるのは、母国に帰る客だろう。荷物を次々積み込んで、準備ができた馬車から順に港の方へ走り出す。

 ホテルの従業員を除くと、中国人の姿はなかった。秋霜の姿も見当たらない。場違いではと気後れしつつ、入場手形をドアマンに見せる。秋霜にあらかじめ渡された物だ。いぶかしんでいたドアマンは、途端に態度を一変させて、すんなり中へ通してくれた。どうやら話が付いてるらしく、一階のラウンジに案内される。秋霜が窓際のテーブルで優雅に紅茶を飲んでいた。周りの客に合わせたのだろう。生地にレースをあしらった小粋なドレスをまとっている。昨日着ていた中華服とは随分、感じが異なるが意外と様になっていた。

「なんだ、先に来てたんだ。洋服だから気付かなかった」

「イギリス人のホテルですから、望むべくもありません」

 秋霜はそう言い、肩をすくめる。テーブルの上にはベーコン、マフィン、スコッチエッグ、数々のジャムに新鮮なミルク。温かいスープや果物まである。美鈴は黙って席に着き、スコーンを手づかみでほおばった。

「どうです? なかなかの味でしょう」

「ムぐッ、ゲホッ。のどに詰まった……私、洋食初めてで。こんなまともな食事自体、ずいぶん久しぶりなのよ。お腹が空いてりゃなんでもうまいわ」

「それは結構、たくさん召し上がってください。このホテル、従業員から調度品まで西洋式でそろえてあります。働いてるのは地元の中国人ですが、きちんと訓練されてるでしょう? 英語だってしゃべれます」

 秋霜は近くのウエイターに「How are you ?」と声をかけた。

「Fine, thank you Miss. May I help you ?」

「ね? うそじゃないでしょう?」

「はうあゆうって……あんた一体、何者よ。そろそろ正体、教えなさい」

「紅花さんと同じです。どこにでもいる請負人。困ったときの何でも屋。そんなことより目の前のスコーン、早く食べちゃった方がいいです。そろそろ敵が来ちゃいますから」

 秋霜はナプキンで口をぬぐうと、フォークを一本手に取った。突然、あさっての方向に投げる。

「ちょっ、あんた何やってんの」

「ふふっ、面白い冗談ですね。フォークなんか目じゃない相手とこれからひたすら戦い続ける。勝っても負けてもいけません。それがあなたの仕事です」

 秋霜はテーブルの下に隠れ、小声で「加油がんばれ!」と声援を送る。「誰を」と尋ねる暇もなくナイフが美鈴の前髪をかすめた。

「ひぃぃ、投げたの私じゃないのに」

 美鈴の出した大声めがけて、ナイフが次々飛んでくる。割れる皿、逃げまどう人、数え切れないいくつもの悲鳴。何もかもがごちゃ混ぜになり、ラウンジは混乱のるつぼと化す。美鈴はせっかくのごちそうを前に退散せざるをえなかった。さしあたっての問題は、敵の姿が見えないこと。相手の居場所が分からなくては防戦一方にならざるをえない。丸いテーブルを抱き起こし、転がして動く盾にしながら安全な場所に避難する。大きなソファの死角に入るとようやくナイフの嵐が止んだ。従業員も逃げ出して、辺りを包む奇妙な静寂。窓から差し込む朝の光が舞い上がったほこりに反射し、キラキラ光り輝いている。


「コツ、コツ、コツ」


 乾いた靴音が静けさをやぶった。


「いきなりフォークを投げつけるなんて、やはり中国。野蛮だわ」

 靴の音はだんだんと美鈴の方に近づいてくる。ラウンジ中央辺りだろうか。音がぴたりと鳴りやんだ。

「変ねえ、人の気配がしない。ナイフで死んじゃったのかしら。さ、お嬢様、行きましょう。これ以上、人間といてもろくなことがありません。こんなホテル、キャンセルしちゃって早く船に戻らなきゃ」

 その口ぶりから察するに、ヨーロッパからやってきた豪華客船の乗客らしい。空飛ぶ少女とそのメイド。美鈴が聞いた噂話にどうやら嘘はないらしい。倒す相手に間違いないかはっきりさせたいところだが、秋霜の姿は見あたらない。戦うように言われたからには、仕事をこなすだけである。

 美鈴は服のほこりを払うと、ひょいとラウンジ中央に出た。

「も、モーニン。ハロー、 ハロー。言葉、ちゃんと通じてる?」

 白いエプロンドレス姿で両手にナイフを握る女が、鋭い目つきで睨んできた。

「ナイフ投げたの、あんたでしょ。ナ・イ・フ・あ・ぶ・な・い、オーケー?」

 最後の言葉が終わらぬうちに、再びナイフが飛んでくる。

 美鈴は前に倒れ込み、波状攻撃をかいくぐりながら敵との距離をじわじわ詰める。フォークを拾い、飛びかかった瞬間、女の姿が見えなくなった。気付くと羽交い締めにされ、刃を突きつけられている。

「待った、じゃなくてタイムっ、タイムっ。いやいや、絶対おかしいって。ぜったい仕留めたはずなのに」

 美鈴のとぼけたセリフにも、敵の女は何も答えずナイフを持つ手に力を込める。刃先が動く直前に、美鈴は肩の関節をはずして相手の腕から抜け出した。渾身の蹴りをお見舞いすると女はうっと声を上げ、二、三歩よろけて後ずさる。

「中国のくせにっ、手を焼かせる」

「劉紅花っていうのよ。あんたね、空飛ぶ西洋人。怪しい力を持ってるんでしょう」

 乱れた呼吸を整えるために女はしばらく間を置いてから、ようやく重い口を開いた。

「……人であることに間違いないわ。生まれた国? そんなのいちいち覚えてない。名前は、十六夜咲夜って言うの」

 背が高く、彫りの深い顔立ちに透き通るような白い肌。何より目を奪われるのが、長い年月を経たような色が抜けた銀色の髪。けれども肌にはしわ一つなく、全体的な容姿からは十代か二十代にしか見えない。

「ただの人間じゃなさそうね。その服だって、そんなフリフリ見たことないもの。イギリス人の兵隊たちは、もっとぴしゃっとしていたわ」

「これはメイド服と言って、ヨーロッパでは大体こうよ。なに訳分かんないこと聞いてるの。目的はお金? それとも中国じゃ、空を飛んじゃいけないって法律でもあるのかしら」

 咲夜と名乗る目の前の女は、あきれ顔で問い詰める。

「ふっふっふっ、よくぞ聞いてくれました。私、一番下っ端で、言われた事をこなすだけでしょ。本当に申し訳ないけれど、肝心の目的はさっぱりなの。あ、愚痴ってる訳じゃないのよ。つまり、これが私の仕事で、だから、えーと……咲夜さん。もうちょっとだけ付き合ってっ」

 いきなり攻撃をしかける美鈴。回し蹴りの二連発、肘打ち、掌底とたたみかける。すべてひらりとかわされて、首にナイフを振り下ろされた。とっさに右手のフォークで防ぎ、軌道をそらして巧みに避ける。

「ちっ、いつまでもきりがない」

 そんな声が聞こえた刹那、敵が後ろに飛び退いた。

 (遠距離からのナイフ投擲!)

 美鈴がとっさに構えた瞬間、視界が闇に閉ざされる。気付くと床にうつぶせで倒れ、絨毯が血で染まっていた。

 (っツ、あれ? いつ刺された?)

 お腹に深い刺し傷がある。体に力が入らない。

 (タイミング的に…あり得ない。何か、特別な間合い、が……)

 視界が再び暗くなり、美鈴の意識はそこで途絶えた。


 ようやく敵にとどめを刺して一息ついた十六夜咲夜は、床に散らばるナイフに目をやり、「あー、だいぶバラけたな」とめんどくさそうにつぶやいていた。気怠そうに腰をかがめて一本一本拾って回る。口調がぼやき気味なのは、ナイフをたくさん投げる度、繰り返される回収作業に辟易してのことらしい。とはいえ、投げた本人以外にやってくれる人などいない。刃に息を吹きかけて磨き、スカート下のホルダーに収める。後片付けが済んだところで、動かなくなった美鈴の顔をしげしげ見つめ、思案する。


 ――時間を操る程度の能力。


 常識外れも甚だしい彼女に備わるそんな力をあらかじめ知る人などいない。何が起きたか分からぬうちにケリを付けてしまうのが、彼女のいつものやり方だった。


 (私がここまで手こずるなんて、初めてなんじゃないかしら。)


 素性が気になるところだが、騒ぎが大きくなる前にここから離れるべきだった。滅茶苦茶になったラウンジを歩き、愛する主人の姿を探す。


「お嬢様っ。終わりましたよ。どこですか。すぐに部屋の荷物をまとめて……あれ? お嬢様?」


 主人の姿はどこにもなかった。


 カリスマの陰に隠れがちだが、行動パターンの九割は見た目通りの十歳児。咲夜と美鈴の戦いに飽きて遊びに出たに違いない。

 咲夜は階段を駆け下りて、脇目もふらず玄関へ走る。突然、前につんのめり、そのまま派手にずっこけた。仕留めたはずの美鈴の右手が咲夜の足首をつかんでいる。

「あなた!? 死んだはずなのに」

「へへ、普通の人間ならね。けがの治りが速くて、ほら。こういう時は便利よね」

 死んだはずの美鈴が笑顔でお腹をさらしてみせた。血がべったりと付いているのに、傷はどこにも見あたらない。

「くっ、いつまでも付き合ってられない」

 咲夜は再び時間を止めて、脇目もふらず外に出る。

「あっ!? 今度はどこいった?」

 美鈴は何度も目をこすり、慌てて敵の姿を探す。割れた皿、壊れた机。がらくたばかり散らばって、どこにも人の気配がない。

「うーん、いなくなっちゃった……ってことは、これで仕事お終い?」

 ふうっと大きく息をつき、隠し持っていたビスケットをかじる。

「モグモグ、洋風の煎餅か。ちょっとパサパサしてるなぁ」

「ガタッ」

 近くで物音がして、ウエイトレスが顔を出す。騒ぎが大きくなる前に、かくれて難を逃れたらしい。

「あら、生きてたの? ちょうどよかった。お茶を一杯くださいな」

 冗談めかした美鈴の言葉にウエイトレスはビクッと震え、目をそらしたきり動かない。美鈴が再び「お茶っ」と叫ぶと、断り切れぬと観念したのかようやく首を縦に振る。どうやらホテルの襲撃犯だと思い込んでいるらしい。血でどす黒く染まった服は、確かに『血みどろの殺人鬼』を連想させるのに十分だった。

 (あらまあ、あんなに怯えて震えて)

 心中ほくそ笑むうちに、つい出来心からからかってみる。

「やっぱりお茶はもういいわ。あなたが一番最後だし、楽な死に方を選ばせてあげる。のどを掻ききるか、首絞めか。好きな方を選んでいいよ」

 ウエイトレスは「死に方」と聞くなり悲鳴をあげて卒倒する。

「ありゃ? 最近の若者はこらえ性が足りないね。ほらっ、起きなさいっ。朝ですよー」

 つまらぬ冗談でクシシと笑い、残りのビスケットをほおばった。

「ンぐっ、づまっだ(詰まった)。いぎ(息)ぐるぢぃ(苦しい)」

 ウエイトレスを起こそうと何度も肩を揺さぶるが、いまさら後の祭りである。水で流し込むために蛇口を求めて走り出す。

 自業自得の一人芝居。取るに足らない茶番だったが、美鈴と人間はいつだって、大体こんな感じだった。まるで水と油のようにうまく噛み合うことがない。陽気に振る舞ってはいるが、彼女自身もそのことに薄々、気付き始めていた。


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