第一章
半年に一度、ヨーロッパからやってくる豪華客船を一目見ようと、港の前の広場には大勢の人が集まっていた。普段、餌をもらおうとしつこく頭上を飛び交うカモメも、あまりの人数に驚いたのか、春のやわらかな風に吹かれて水面で羽を休めている。人で溢れた待合所から沖に突き出たタラップは、そんな海からの潮風に何十年もさらされて、すっかりぼろぼろに腐っていた。ペンキが剥げてささくれ立ち、木の板はたわんでしまっている。船が港に到着すると、しびれを切らした乗客たちが目一杯の荷物を抱えて一斉になだれ込んできた。足を一歩踏み出すたびに、さびの浮いた鉄くぎがギィギィ苦しげな音をたて最後の抵抗を試みる。フランス人の乗客が、最新式の自動車をゆっくり前に進めたところでどうやら限界が来たらしい。
「ミシッ、バキッ」
タラップは真っ二つに折れ、車は着飾った持ち主とともに暗緑色の海に沈む。巻き添いになった乗客が救助され、予備のタラップが来るまでの間、船に残った人間はたっぷり待たされる羽目になる。
怒号や罵声、悪態が飛び交い騒然となる甲板上。詰め寄る客を必死になだめ、事態をどうにか収拾しようと右往左往する船員たち。
そんな騒ぎを完全に無視して、船から少女が降りてきた。
淡いピンクのワンピースに上等な革靴。強い海風に飛ばされぬよう右手でしっかり帽子を押さえ、ゆっくり広場に近づいていく。
タラップはまだかかってない。
ふわりふわり、当然のように宙に浮いているのだった。
気付いた人たちが大声を出すが、少女は気にするそぶりも見せず静かに地面へ着地する。周囲の景色を一瞥してからくるりと後ろを振り向いた。
「なんだか血なまぐさい町ね。フランが遊んだ後みたい」
話しかけられた瀟洒なメイドは、自身もそっと陸に降りると同意を示すほほえみを浮かべ、やさしく丁寧にそれに答える。
「最近、戦争があったそうです。ヨーロッパから軍艦が来て、こてんぱんにされたとか。もっと北の方ですが」
ぴくり、と少女の肩が動いた。
「負けたの? ふーん。へえー、そう。あなたが言ってたジパングも、そう大したことないじゃない。今のボチャーンといい、この国大丈夫なんでしょうねえ」
ギロリと不機嫌なまなざしは、並の人間ならそれだけで参ってしまいそうな鋭さ。だが、メイドは表情を変えず少女の言葉を訂正する。
「船でさらにさらに東へ。日本と呼ばれる島国が私たちの目的地です。ここは上海。清という帝国の、あっ」
少女はちっとも話を聞かず、一目散に駆け出していた。向かった先には屋台が一軒、こぢんまりとたたずんでいる。腰の曲がった老人が、火で柔らかく熱した飴を次から次に細工して店の前に並べていた。手先でチョコチョコいじくるたびに、琥珀色の塊がみるみる人形に近づいていく。命を吹き込むようだった。中国人の子供に混じって少女も瞳を輝かせ、その瞬間を見逃すまいと背伸びしてのぞき込んでいる。
置いてきぼりにされたメイドは、主人の目線に合わせるためにしゃがみ込んでいたのだが、天真爛漫な態度にもすっかり慣れっこといった感じで「よっこらしょ」と立ち上がり、日傘をかかえて後を追う。その表情には優しさと、少女を守ってみせるという固い決意が溢れていた。
(それでもやはり駄目かもしれない。どうか、今回の決断がすべてうまくいきますように。)
時を操る使用人。従順なメイド、十六夜咲夜は主人の強大な力でも太刀打ちできないかもしれないこれから先の運命を思い、胸の前で十字架を切った。
とっくの昔に忘れたはずの、神に祈りを捧げる動作。
永遠に紅き幼い月。主人のレミリア・スカーレットにとってイエスは天敵だったけど、そんなことも忘れるくらい心配でたまらないらしい。
(最後に勝つのは私たちだわ。)
咲夜はもう一度お祈りしてから財布の中身を確かめた。ポンドとフランしか用意がない。主人を店から引き離すために、まずは両替商から探さなければならなかった。
世紀末が間近に迫った1884年、日本では明治十七年。
自由の女神像建造が始まり、グリニッジ天文台が世界標準時を制定。鹿鳴館の舞踏会に大勢の人が詰めかけたころ、中国の海の玄関口、上海では阿片戦争から四十二年たち、欧米の軍隊と商人が租界を築きあげていた。
キャッチコピーは「治外法権」。スローガンは「本国のままに!」。
町一番の目抜き通り、外灘路の大通りにはレンガづくりの商館が並び、御者が操る四輪馬車が猛スピードで駆け抜ける。のどかな午後の昼下がりには、着飾った紳士淑女たちが公園で優雅なお茶会を開き、ダンスホールのドアからは音楽が深夜まで流れてくる。初めてこの地を訪れた人は「ここ、本当に中国?」と誰もが声を上げるほど隅から隅まで母国と同じ。スローガンの「!」にはそんな人々の驚きと、町を作った先駆者たちのささやかな自負が込められていた。
一方、華やかな都心と違い、表通りから路地に入ると粗末なバラック小屋が並ぶ旧市街地区がある。住むのは大半が中国人。試しに一軒、窓をのぞくと土間でしなびた菜っ葉を炒めて分け合う家族と目が合うだろう。儲かる仕事にありつけるのは、欧米人と取引のあるほんの一握りの商人だけ。ほとんどはその日暮らしの労働者で、生活苦を紛らわそうと阿片に手を出す者も多かった。北京政府は賄賂に夢中で上海のことなど眼中にない。阿片商人とチンピラが町の顔役にのし上がり、身寄りをなくした老人は寒さに凍えて路上で眠る。豊かさと貧しさがせめぎ合い、後に魔都と称される中国、上海租界だった。
そんなお国の事情など知るよしもないレミリアは、コウモリの形をした飴を屋台で特別に作ってもらい、ご機嫌で通りを歩いていた。
「かーわいっ。ねえ食べちゃだめ? これって観賞用かしら。記念に飾っておくものなの?」
握りしめていた飴を顔の前で太陽に透かし、咲夜の方へ向き直る。
「どうでしょう。この国の風習は私にもよく分かりませんから、パチュリー様にお聞きになっては」
「パチェ? 船から出る気ないわよ。それに何か聞いたって、本に顔を突っ込んだきり一ヶ月は動かないじゃない」
レミリアは飴をぱくりと頬張り、「ん、おいし」と笑顔を見せる。
「あらあら、ベタベタじゃないですか。ちょっと、動かないでください」
レミリアの手をつかまえてハンカチでよく拭いてやり、咲夜は通りに視線を移す。港から伸びた道路沿いには、西洋風の豪華なホテルがいくつも軒を連ねていた。
(船室暮らしも飽きたわね。陸で休むのもいいかもしれない。)
船はこれから十日間、港に留まる予定だった。
二人はホテルを見て回り、一番大きくて新しそうな「The Hotel New World(新世界大酒店)」で足を止める。中に入ると、天井が高く吹き抜けになった立派なホールが広がっていた。植物をかたどったガラス製のシャンデリアは、最近、欧州で流行している最先端の品物だった。ひとことで言ってセンスがいい。レミリアもいたく気に入ったようで、ロビーのソファに腰を下ろし、近くの給仕を呼びつけて紅茶とケーキを頼んでいる。咲夜はすぐに従業員を呼び、キャンセルするよう言いつけた。毒味してない食べ物を口にしてはいけないと何度も注意してるのに、なかなか聞いてくれないのだ。言うべきことはきちんと言い、それでもダメなら実力行使。これぞメイドの鑑である。主人を思う気持ちがなければ、なかなか出来ることではない。
フロント係に案内されて宿泊の手続きをしていると、待機していたポーターたちが荷物を運びに近づいてきた。咲夜は、助けはいらないと片手を振って合図を送る。不意を突かれたポーターたちは、ならばと帰る訳にもいかず、その場に立ちつくしてしまう。彼らをはじめ、ホテルの人間は現地採用の中国人だが、正確で丁寧な英語を話すし、しつけもきちんと行き届いていた。いわば一流のプロであり、レミリアの世話を任せると咲夜の仕事が無くなってしまう。「時を操る能力」を使えば、船から荷物を運ぶ作業もあっという間にすむことだった。事実、ポーターの目の前には、たった数分前までは無かったはずのトランクの山がいつの間にか置かれている。
「スイートルームが欲しいのだけど、部屋の場所はどこかしら」
従業員がとんぼ返りして鍵と宿帳を持ってくる。
「お部屋は最上階になります。ご用があれば申し付けください。あ、あの、マドモアゼル、荷物は本当によろしいのですか?」
こわごわ尋ねる従業員に「必要ないわ」とにこやかに答え、咲夜はレミリアと階段を上る。置きっぱなしのトランクは一瞬、目を離した隙にどこかに消えてなくなっていた。中国人のポーターたちは、確かにこの目で見たはずの1ダースはある荷物の行方と怪しげな客の正体を巡り、この後、大騒ぎするのだった。
一方、騒ぎを起こした咲夜はいつもと全く同じように時間を止めて荷物を運ぶ。せっせと手足を動かしながら、港で起きた騒動についてあれこれ愚痴をこぼしていた。
「理屈じゃ分からないこともこの世にたくさんあるというのに。どうしてあんなに騒ぐのかしら。いちいち大げさすぎるのよ」
懐中時計にチラリと目をやり、過ぎた時間を確かめる。ドレスにしわが寄らないように備え付けのクローゼットに移し、ガラス戸棚の扉を開けて食器類をしまい込む。一人きりの作業だが、ちっとも寂しくなんてなかった。主人に時を捧げるために彼女は生きているのだし、なによりお目当ての日本まであと少しの所まで来たのだから。
――鉄、蒸気、産業革命。
十八世紀初めに起こり、ヨーロッパ中に広がったそれは、労働者を生み資本家を育て、大量生産・大量消費というライフスタイルを創り出していた。「科学万能」の謳い文句がどこまで本当か知らないが、彼女たちが乗ってきた船も蒸気で動く外輪を備え、ここ上海に到着するまで一ヶ月しかかかってない。道中、船を観察し、その性能を知れば知るほど「はぁ……科学万能ねえ」と咲夜はついついこぼしてしまう。これまでにない社会のうねりは、目に見えない人の意識まで確実に変化させていた。
啓蒙思想、と言うのだそうだ。
「理性の勝利」の名の下に古い迷信は追いやられ、吸血鬼などと口にすれば精神病院に送られる始末。咲夜にとっては不愉快きわまりない話だった。
ところがレミリア・スカーレットは、どれだけ迷信呼ばわりされても顔色一つ変えることなく、人の存在そのものを無視してしまっているかのよう。人を殺める悪戯もずいぶん長いことご無沙汰だった。紅魔館のほかの住人、フランドールや小悪魔も同じ。パチュリーだけはどういうわけか毎朝新聞を読むけれど(……どこから配達されるのだろう)、ただ読むだけで人と接することはない。人の力に打ち勝つためには、人間社会や科学について詳しく調べる必要がある。咲夜は一人、悶々と悩み、ある日レミリアに提案した。
「あの、お嬢様。突然ですが、社会科見学しませんか」
やはり、想像していた通り怪訝な表情を浮かべるレミリア。
「見学? 何それ必要ないわ。私に何を学べと言うのよ」
機嫌が悪いわけじゃない。いつだってこんな感じなのだ。十歳ほどの外見におよそ似つかぬ仕草、振る舞い。だが、それが最高にいい。咲夜は内心、身震いしながら、決して顔には出さぬよう慎重に話を先に進める。
「はるか東、シナより先に日本という国があります。マルコ・ポーロがジパングと呼んだ、いにしえより由緒ある土地です。人々は信心深く、礼儀正しい。鬼や妖精、神様だってたくさんいると聞きました」
「未開の土地に興味ないわ。どういう風の吹き回し?」
「移住、いえっ、その……ただの愉快なピクニックです。ここ最近は人間だってあちこち遠出することですし、世界一周したのだと自慢する者もいるくらい。ああ、フジサンってご存じですか?」
主人は「?」と首をかしげる。
「パリで人気のウキヨエの中に出てくるんです。空高くそびえ、天に一番近い山とか。不老不死の薬というのが今でも燻っているそうです」
「はっ、山登りしたいわけ? 空を飛べばいいじゃない」
「スシ、テンプラ、ウナギ、スキヤキ。ジャパニーズフード、ナンバーワンっ」
「この娘は何を言ってるのかしら」
「では、こういうのはいかがです? 日本中の魑魅魍魎をお嬢様が従える。固有種もいてコレクションにはちょうどよいかと。出来がよいのは下働きにして、現地の神は……まあ、どうってことないでしょう」
「コレクションねえ。まあ、いいわ。それならさっさと支度をなさい。パチェにも相談しなくちゃね」
咲夜は「はいっ」と頷いて部屋のドアノブに手をかける。レミリアがぽつりとつぶやいた。
「でも、ふふふ。私の相手が務まるやつが、一体どれほどいるのかしら。せめて、遠足のおやつくらいにはなってもらわないと困るわ」
すっかりその気になった様子で、咲夜は胸をなで下ろし主の部屋を後にする。実は彼女は始めから日本に引っ越すつもりでいた。もう何年も何十年も人との接触が途絶えたまま。もしかすると、主人の力が衰え始めているのではないか? レミリア自ら人を避けているのだとしたら、十分あり得ることだった。
夜空の星を自由に動かし、森を根こそぎなぎ倒す。
そんな伝説の数々も「科学」が出現してからというもの、色あせていく一方だった。吸血鬼という存在が誰からも忘れられた時、自分たちがどうなってしまうのか想像するのも恐ろしい。
紅魔館の一行はただちにマルセイユ港に駆け込み、フランス貴族の令嬢が遊学するとふれこんで特等船室を準備させた。道中あちこち見て回り、咲夜が出した結論は、人の力も侮れない、というものだった。個対個の戦いならば、いまだ相手になりえない。けれども人は集団で動く。技術の進歩も新たな思想も、社会全体に広まって初めて意味を持つらしかった。つまり、敵は一人ではない。戦う相手が分からなくては、いくら時間を止めた所で手の打ちようがないではないか。
ヨーロッパから最も遠い東の果てのジパングが、人でない者を信じる国ならそのまま居付くつもりでいた。産業革命からだって逃れられるに違いない。
(けれども本当に逃げ切れるのか? 目と鼻の先の中国にだって、もう、こんなに文明が……)
メイド長の悩みは尽きない。
荷物をすべて運び終えると、咲夜は白磁のカップを出して紅茶をいれる準備にかかる。
「甘いものはありませんが、ゆっくり体を休めてください」
「ありがと。あなたも下がりなさい。夜まで一眠りするといいわ」
主人がベッドに入るのを待ち、咲夜も別室のソファに落ち着く。日が暮れるまで、つかの間の自由時間だった。
「とはいえ、やることないのよねえ。ここじゃ掃除の必要もないし」
咲夜はそんな愚痴をこぼして、一人ホテルの外に出る。町を歩いて、主人が喜びそうな場所をチェックしておくつもりらしい。ホテルの従業員と同じで、彼女も仕事熱心な一人の人間に過ぎなかった。確かにレミリア・スカーレットは人の生き血が好きだけど、咲夜にとってはそんなことさえ取るに足らないことでしかない。たまたま主人が吸血鬼なだけ。長い間、悩んだ割にはシンプルすぎる結論だけど、それゆえ思う存分に力を発揮できるのだった。