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青インク一滴  作者: 春野きいろ
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第七話 清水

 花束から何本か花を抜いて、仏壇に飾った。あれが生きていたら、お疲れさまと労ってくれたろうか。朗らかで賑やかな性格は、娘に受け継がれたようだ。俺は俺で幸福な家庭を持ったと思っているし、娘もそうであれば良いなとは思う。けれどもう、別の人生だ。


 いろいろな責任から解放されたような気はするが、きっとこれからの時間の責任は今までよりも重い。娘は覗きに来ると言っていたが、この家に住むとは言わなかった。本当に老いぼれてしまえば世話になることになるだろうし、まだ若い世帯と一緒に住むつもりはない。だから、自分の時間を管理し守るのは、自分だけだ。


 カレンダーに書き込んだ赤い文字は、立花の結婚式だ。律儀なことに急行のチケットまで用意して、俺を招待してくれた。申し訳なく有り難く、使わせて貰おうと思う。

 生真面目で一本気で、融通の利かない娘だった。彼女がずっと俺を慕っていてくれることを幸いに、俺は自分が部下に残したかった自分の流儀を叩きこんだ。彼女なら俺よりも上手に指導も誘導もできることに気がついたし、実際俺が叱りつけるよりも彼女を通して話を振った方が課内が和やかに回った。ずいぶん楽をさせてもらったが、彼女自身実家を継ぐという話だから、多分これからの実践に役立っていくだろう。


 うん、良い子だったな。十年前のあれは、本当に驚いたが。


「清水さんに会いたくて、出勤してるんです。清水さんに見て欲しくて、仕事してるんだもの」


 そんな言葉に浮かれるほど俺もバカじゃなかったってことは、惜しいことをしたと後悔する気持ちよりも清々しさのほうが強い。あの時には想像もしていなかったが、家内の晩年に家内を裏切るようなことをしなくて本当に良かったと思う。

 葬儀には立花も手伝いに来てくれたんだったな。喪服で受付に立つ彼女は、綺麗だった。


 立花がなかなか結婚しないことに、少々うぬぼれはあった。一時の気の迷いだと己に言い聞かせてはいたが、まだ俺を好いていて諦めきれずに他の男と結婚しないんじゃないか、なんて。社内でも数人の男が彼女を気にかけている風だったし、保坂みたいに憧れの目を向ける人間もいたから。

 保坂な、あれも詰めは甘いが悪い男じゃない。俺の仕事を立花が伝え、それを後輩に引き継いでいった。まだ見届けたい気はあっても、そうさせるかどうか決めるのは会社であったから、仕方ない。俺はあの会社には必要じゃないと判断されたんだ。人間関係は、こんな年齢になっても拙いままだな。


 立花が頻繁に実家に帰るようになって、てっきり家の仕事の話が進んでいるのだろうと思っていたのは、まだ自分がうぬぼれていたからだ。結婚すると報告されて、はじめて恋人がいたことを知った。

 正直悔しかったし今更ながら惜しいと思ったが、どうすることもできない。女として見ることを長いこと自分に禁じていたのだから、それを貫くしかない。


 良い女だったよ、立花。努力家で賢くて、そしてずいぶん綺麗になった。綺麗になったのが俺のためじゃないことを、惜しくなるくらいに綺麗になった。幸福であってくれと望むことしかできない。


 仏壇に線香を上げ、鈴を鳴らす。あれが笑っているような気がして、写真を覗きこんだ。


 考えてませんよ、考えませんよ。これから先に女と出会うことがあっても、相手の立場とか状況を見ます。まあ、やもめ暮らしのほうが気楽に感じる程度に、俺も充実した結婚生活を送らせてもらった気はするし。

 人づきあいの苦手な俺を支えてくれた家内と、家を出た後も俺の様子を見に来る娘には感謝している。まだ爺扱いされるような年齢ではないのだから、シングルライフを謳歌しようとも思う。


「清水さんを尊敬しているんです」


 俺は尊敬に値する人間じゃないよ、立花。結婚式は、楽しみにしている。

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