第六話 保坂
モニタから目を離して、立花さんの席を見た。ああ今日は休みだったなと思い出して、気の抜けたような感じをおぼえた。そうか。どちらにしろもうじき辞めてしまうんだから、課長に提出する前に細かな微調整をしてもらう、なんてなくなるのか。責任者だってもう、図面の段階から施工効率を考えろなんて言う清水さんじゃない。間違ってさえいなければ良いのだけれど、習い性でなんとなく、頭の中に現場作業を思い浮かべてみる。実際は現場で変更なんてことも多いけど、ダクト一本の価格をどうこうなんて考えるのは原価を計算する人だけだ。
立花さんが手を入れた図面ならばノーチェックの清水さんは、本当はとてもうるさい人なのだと先輩たちから聞いたことがある。立花さんはすぐに辞めてしまうだろうと思われていたらしい。まさか一人前になってから辞めるとは思わなかったね、なんて言ってた。まったく期待されていなかった人が今の信頼を得るために、どれだけ戦ったんだろう。清水さんはどれだけ立花さんを指導したんだろう。
それなのに、あっさりと結婚退職してしまうのか。それとももう、辞めるきっかけを探していたのかな。中堅になってしまった会社では、大層な理由が無ければ自分から動くのが億劫だったろうから。
男のものではない足音と佇まい、入社してからずっとあった気配。資料を捲る指先、鉛筆のメモ書き、電話の取次ぎの声、そんなものが惜しいなんて、僕はずいぶん立花さんに憧れていたらしい。けして美人ではないし、華やかな雰囲気でもない。ただ、美しい人だとは思う。背筋をピンと立ててリズミカルに歩き、仕事が詰まって疲れた日でも、他人に苛ついた顔は見せない。
僕の恋人は可愛いけれど、立花さんと較べてしまうと我儘に見えることがある。素直な喜怒哀楽が幼く見えたり、ピンク色のレースの下着がわざとらしく見えたりする。だけど立花さんの下着を見たことがあるわけじゃないし、彼女の職場以外の顔も知らない。
立花さんの恋人は、立花さんをどう扱うのだろう。あの努力家で有能な人が、片田舎の工務店の奥さんになってしまうなんて考えられない。彼女もアイロンの掛かったシャツを脱いで、皺にならないカットソーなんかでエコバッグを持って、僕の母のように布の靴で歩くのだろうか。それとも、作業服で工務店に出入りする職人さんにお茶をふるまう?なんてもったいない。
そうして田舎の主婦になって、緩んだ表情で子育てすることは彼女にとって幸福なんだろうか。
結婚式に、僕は呼ばれていない。遠いからと言っていたが、先輩たちも課長も呼ばれていない。僅かに部長と清水さんが出席になるのみだ。それ以上は交通費の負担が大きくなるからと、招待しなかったらしい。立花さんのお祝い事ならば自前で交通費を出して行こうと思う人もいたろうが、彼女ははじめからそれは念頭に置かなかったみたいだ。
立花さんらしいな、と思う。もう縁の遠くなる人間に、負担をかけさせたくなかったんだろう。せめて来週末の送別会の花束と記念品を、喜んでくれるように祈ろう。女の子たちがこっそり相談している記念品の内容を、僕も知らないけれど。
そんなことを考えながら僕は、自分の恋人に会いに行く。可愛くて子供っぽい、僕を頼ってくれる人。僕には過ぎた恋人だと何人にも言われ、自分も得意になっていたけれど。
彼女との未来は、あるのだろうか。立花さんの姿が薄くなるのを惜しんでいるだけで、こんなことを考えることは間違っている。だから頭を左右に振って、つまらない音は聞こえないことにしなくては。
「保坂くんって、基本的に私を信用してないよね」
恋人に、そう言われたことはある。彼女の頼りなさに、ついあれこれ手を出してしまい、たとえば旅行の手続きですら僕が確認しないと気が済まないことがあった。イレギュラーを楽しむことであってすら、自分の手を入れないと安心できないなんて。
失敗が許されない仕事のチェックは、すべて立花さんに頼っていたじゃないか。立花さんに委ねて、それを信用して。何故、それを恋人に適用できないんだろう。
多分僕は、恋人に対して主導権を握っていたいんだ。自分が何かをしてやるってことに、酔ってるだけなんじゃないのか。
うん、そうか。気がついて良かったな。
「ちょっと仕事の愚痴、言ってもいい? 疲れたんだ、今日」
女々しいような気がして、恋人に疲れたなんて言ってはいけないような気がしていた。
「保坂くんも愚痴なんて言うんだね。聞くだけでいいなら、聞かせて。そんなこと聞ける特権って、嬉しい」
はじめて恋人を可愛いだけの女じゃなく、愛おしいと思った。