第五話 立花
お風呂から出たら、健也はもう眠っていた。翌日も仕事だものね、お疲れ様。彼の仕事は土曜日に休みって習慣はなくて、私もこっちへ戻れば多分そうなる。企業の括りとは違った田舎の生活は、休みが少なくても疲労感が少ない。常に緊張を強いられるような満員電車も、外出するときに作る外向きの顔も、もう要らなくなる。
寂しいかと自分に問いかけてみる。十二年弱、自分に課してきた習慣を手放すのは、寂しい?うん、少しね。この町には、気に入ったカップでコーヒーを出してくれるようなカフェもない。
サンダルを履いて、二階のベランダに出て星を見る。空が綺麗だなと、帰省するたびに思う。ここで生活していたときは気にもしていなかったのに、あんなに小さな星まで見えることに驚いたりする。
都会に変わってしまっていた自分の基盤を、ここに戻すんだ。向こうに残したものは、何もない。
花束を抱えて後姿になった人を、思い出していた。今日の昼の出来事なのに、何年も前みたいに感じる。会えなくなることは、悲しくない。あの会社で、あの社会でしたかったことは、今日終わった。
「清水さんがいるから、仕事してるんだもの。他の人の評価なんて、どうでもいいんです。清水さんさえ認めてくれれば、誰も評価してくれなくてもいいんです。清水さんさえいれば」
課内の飲み会の後に、駅までの道で二人になった。酔った言葉に煽られて、自分に歯止めが利かなくなったあの日。頭の中の冷静な部分が、それを口にしてはいけないと警報を鳴らした。言葉を止めると代わりに涙が溢れ、私は子供みたいに拳で拭った。あの時の清水さんの困った顔は、はっきり覚えている。小娘をどう宥めたら良いのだろうと、ただ戸惑った顔だった。
「一駅、歩くか」
そう言って清水さんは、私の手を曳いた。
「自分の子供より若い立花に、そんなことを言われるとは思ってもみなかった。俺は口うるさいクソ親父だ、そうだろう?」
苦笑いの口調は、やさしかった。困るんだ、困らせているんだ。応えて欲しいと思っているわけでもないのに、私の一方的な感情を見せることすら、彼を困らせることになるんだ。
「立花は努力家だ。これからもっと期待してるんだ」
清水さんの言葉は上司としてのもので、私はそれに満足しなくてはならない。私が欲しいのはこの手だけなのに、この手は彼の家庭とか立場とか、そんなたくさんのものに繋がっている。
この手を夢見ることは、今日でお終いにしよう。彼の大きな手は、私の手が覚えている。次の駅までの長くて緩い坂道を、五十歳の清水さんと二十一歳の私は、ゆっくりゆっくり歩いた。
あの日を恋の完結として、私は清水さんの部下であり続けた。清水さんの下で仕事をすることが、私の会社生活の目的だった。
だから今日、目的はすべて果たした。良い部下だったと言われたことが本当に幸せで、やっと終われたと思った。もしかしたら、今日を待っていたのかも知れない。
部屋に戻ると、健也は布団をはねあげて寝ていた。日焼けした顔が子供みたいで、やけに可愛い。同級生で気心が知れてるってだけじゃないんだよ。生まれ育った場所を離れず、家の仕事を守りながら生きてる健也に共感を覚えたんだ。私もそうするつもりで、実家に戻ろうとしていたんだから。
明るくて人づきあいが良いのも、ちゃんと知ってる。仏壇の花を庭から切ってきてるのは、健也だよね。そういうマメな部分を見習いたいとも思ってるし。
もう二週間で、私と健也は夫婦になる。健也のお父さんも私の両親も、心から祝福してくれてる。ドラマチックな大恋愛じゃなくて、私たちは互いに補い合う関係でいたいと思う。
幸福になろう。きっと、緩やかに穏やかに幸福になろう。