第三話 保坂
階段室の扉を開けると、立花さんの声が聞こえた。
「うん、八時くらいには到着できると思う。迎えに?それよりも、夕食の仕度して欲しいな」
華やいだ声は、遠距離恋愛中の恋人との電話だろう。扉をそっと閉めて、エレベータに向かった。もうじき結婚する人の邪魔は、しちゃいけない。
僕はずっと、立花さんは清水さんが好きなんだと思っていた。清水さんの前に立つとき、立花さんは常に緊張しているみたいに見えた。普段から生真面目で隙を見せようとしない立花さんが、さらに気を張って清水さんと対峙する。まるで中学生が、生徒会長に立候補する演説をするときみたいに。
難しい図面を開いて助言を乞うとき、新しい知識のための講習の場面、立花さんはいつも清水さんの表情を見ていた。だから僕は、立花さんに個人的に声をかけることは、できなかった。
結婚が決まったから辞めると聞いて、耳を疑った。誰よりも仕事熱心な立花さんが、結婚退職するなんて思ってもいなかった。清水さんを好きだから結婚せず、浮いた話もないのだと思い込んでいたせいもある。尤も、二人が恋愛関係だと思っていたわけじゃない。二人はきちんと上司と部下で、それ以上にプライベートで踏み込んでいる様子なんてなかった。二人の結びつきがそれ以上に見えていたのは、僕の思い過ごしだったのかも。
だとすれば、僕は思い過ごしで臆病になっていただけだったのか。あの頃の立花さんに声をかければ、僕にもチャンスはあったのだろうか、なんてね。ないよ。彼女は僕を後輩としてしか、扱わなかっただろう。
清水さんが定年退職を迎え、会社を去っていく。後姿になった清水さんを追ってデスクから立ち上がった立花さんは、思い詰めたような顔をしていた。そのままなかなか席に戻らない立花さんを気にしていたのは、僕だけだったと思う。退職の決まっている立花さんに、新しいプロジェクトは来ない。後輩の指導と補佐、そして来週からは有給の消化に入ってしまう。清水さんと立花さんは、一緒にいなくなる。
「辞めるタイミングまで合わせなくていい。そんなとこまで小清水か」
新しい上司に肩を小突かれ、立花さんはただ笑っていた。清水さんが丹精を籠めて立花さんを育てたのは、社内全員が知っている。あんな風についてきてくれる部下は羨ましいと、酒の席で他部署の上司が言っていたのを聞いた。立花が真面目で仕事熱心なだけだと、清水さんは言った。男以上の仕事を要求しても、応えようと努力してくれたと。
僕が入社したとき、立花さんは僕の指導担当だった。自分が仕事を覚えていく過程で作ったさまざまなメモを惜しげもなく僕に譲り、自分はもう覚えてしまったからと言う。マニュアルや基礎本のページ数まで記載されたノートは僕の後輩に渡り、今もまだ課内で重宝されている。右肩上がりの文字は持ち主が変わるたびに追記されて、残っていくのだと思う。
仕事に取り組む姿勢とは別に映画を観ることや食べることも大好きで、時間が合えば社内で誘い合っていた。男ばかりの部署にいるからと遠巻きにしたがる事務職の女の子たちに、自分から入って行ってるみたいに。立花さんの成功例があったからこそ、ぽつぽつと若い女の子たちが技術職として採用され始めたんだろう。そんな先駆けが、結婚退職してしまう。
「普通の女子社員みたいに、そんな」
「普通の女子社員だよ、私。異常な女子社員だったことは、ないと思う」
普通の女子社員だったんなら、やっぱり声をかけて誘っておけば良かった。清水さんの下で仕事に打ち込んでいる彼女は凛々しくて、ときどきある笑顔が貴重に見えるくらいに眩しかった。
もう遅い。彼女はもう、社内からいなくなっちゃうんだ。口にも出さずに諦めちゃった感情なんて、なかったも同じ。
いいんだ、他に恋を得たからね。立花さんみたいに凛々しくなくても、可愛くて柔らかい恋人がいるから。それでも、やはり口に出しておけば現在は変わっていたかも知れないと思うと、少し惜しい気がしちゃうんだ。
立花さんのデスクの上でマグに活けられた一輪の花が、ふっと揺れた気がした。