第二話 立花
二十一歳の私と五十歳の彼は、手を繋いで坂道をゆっくりゆっくり歩いた。あの日を恋の完結として、私は彼の部下であることを全うした。正しい選択をした自分を、ただ褒めたいと思う。彼に握られた手を、もう一度自分で握ってみる。
記憶と同じだった。大きくて厚い掌は暖かく乾燥していて、とても優しかった。
技術系の専門学校を卒業して入社した設備会社で、女性の技術職採用は初めてだった。大手の設備会社であれば珍しくないのかも知れないけれど、少なくとも私の打ち合わせ相手に女性はいなかった。技術職とはいえ機械の設計をするわけではなくて、主に配線図面や施工図面を計算して作り上げるのが仕事で、男でなくてはいけないものなどなかったはずだ。
それでもまだ建築設備は男社会で、採用する側もされる側もビクビクして様子を見ながら業務を進めるような状態だった。
「女だからって、脳味噌の機能が違うわけじゃない。茶汲みなんか、飲みたい奴がすりゃいいんだ」
清水さんが自分よりも年下の上司に言ったことを、今でも覚えている。毎朝私にコーヒーを頼むのが日課の人で、彼自体は技術職ではなく仕事の割り振りと管理が業務だった。
「立花に茶汲みをさせるんなら、伊藤にも田代にもさせるべきだろう。社員等級は同じだ。違うのは性別だけなんだから」
つけつけと言ってしまう清水さんが昇級しないのは、多分そんな部分が大きかったのだろうと思う。仕事は早く丁寧な人なのに、社内の評価は驚くほど低かった。それでも世慣れない私には、そうして同年代の男の子たちと差をつけないで接してくれる清水さんが、とても頼もしく思えた。
他の課の女の子たちが、残業を免れて帰って行く。自分の手が空いていても、空いているからこそ知識を詰め込むために雑務をこなせと言われ、プリントアウトした先輩の図面を指で辿る私が感じていたのは、不思議な優越感だった。
忙しくて可哀想だとか、女の子なのに見逃して貰えないとか、そんな同情は不要なの。私は仕事で有用と言われるようになるんだから、一人前と言われるようになるんだから、女の子扱いされなくたって大丈夫。
肩肘を張っていただけかも知れないけれど、当時の私には多分必要な優越感だったのだ。
入社して半年ほど経った頃、清水さんは私に小さなビルの図面を出して、自分一人の力で空調図面を起こせと言った。負荷計算も配管もすべて自分の力だけでと。
「期限は明日中、手直しは俺がする。立花がつけた力を見せろ」
小さくてもビルで、試験めいてはいるけれども商業に乗る図面だ。利益を生み出す第一歩を、清水さんは私に期待してくれているのだ。すぐさま手をつけると、自分の知識は思いの外浅かった。半泣きになりながら負荷計算し、ダクト径を出し、配管の位置を考えた。二日目の午後に自分の計算の間違いに気付き、もう一度やり直す。あっという間に定時なんて過ぎて、煮えてしまった頭をコーヒーで宥めながら図面に向き合った。
そして二十二時を回ったころ、ようやっと自分でチェックを終えた。課内にはもう、私を待つ清水さんしか残っていなかった。
「終わりました。チェックをお願いします」
プリントアウトしたものを差し出すと、清水さんは大きく頷いた。
「ざっと目を通した限りでは、大丈夫だ。修正は明日指示する。遅くまで、よくやったな。立花なら応えてくれると思ってた」
下げた頭に、清水さんは労いの手を置いてゆっくりと撫でてくれた。ただそれだけのことで、私はその手の持ち主に恋をした。もう一度頭を撫でて欲しくて。
褒められたくて認められたくて、厳しく指導される毎に夢中になった。新しいことをクリアすれば次の課題を提示され、また次のことへ。
家庭のある人だとか彼とベッドを共にしたいとか考えていたのではなく、ただただ清水さんの労いの手が欲しかった。