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青インク一滴  作者: 春野きいろ
10/10

最終話 杉原、立花

 控室で親父は、お袋の写真を抱えていた。女手のない家は細かいところに気がつかないからと、叔母が母の代わりに桜湯を配って歩く。式前に梓の控室に行こうと思っていたら、それはいけないと引き留められた。花嫁は式場で迎えるものだから、目にするのはそれが最初なのだと。


 ドレスの試着には立ち会ったしブーケも相談して決めたのだから、そんなに格式ばる必要もないじゃないかと思わなくもないが、言うことは聞いておく。自分も着慣れないコートで、胸に花なんか飾って。

 控室の中に、珍しい顔はいない。けれどなんとなく非日常で、今まで何度も出席した他人の結婚式とは違う気がする。


 昨晩から、頭の中に繰り返されるイメージがある。理科の拡散実験で、ビーカーの水の中に青インクを落とした。ゆるゆると広がっていくインクは、最後は水と混ざり合って色が見えなくなる。そのビーカーの水は透明に見えるけれど、落としたインクが混ざっているのだ。透明な水は青インクを抱えている。


 日々の生活の中で抱える喜怒哀楽は、いつの間にか姿を変えて心の底に紛れていく。田舎から出てみたかったなんていう後悔や、かつての恋人と過ごした夏、高校生のころの自転車の帰り道、反抗期のお袋の泣き顔。それは自分の中で拡散し、形を変えてゆらりと漂っているのだ。

 今日もまた、そんなインクの一滴だ。


 祭壇の前に立ち、バージンロードを向く。両側から開けられた扉の中央で、新しい義父ちちと腕を組んでいるのは梓だ。ベールで隠れた顔は見えなくても、ゆっくりと進んでくる足取りは乱れていない。

 ベールを上げれば、ふたりが歩き出す第一歩になる。





 白いドレスの中身は、多分無垢じゃない。現代の日本で、何にも染まっていない純真があるだろうか。あなたの色に染まります、なんて絶対に言わないよ。だって私には私の色があるもの。私だって健也を染めようなんて思ってはいないわけだし、そこはほら男女同権って学んできたし。


 ウェディングドレスを着てこんなことを考えるのは、不埒だろうか。着付けてもらいながら浮かんだのは、マーブル模様の水彩画だった。美術の時間に水を張ったバットに絵具を垂らして、くるりと混ぜてから和紙を乗せた。混ざりきる直前の、色と色が手を取り合うかのような瞬間が、紙を綺麗に染めたのを覚えている。

 今日はきっと、その瞬間なんだ。私の人生と健也の人生が、混ざり合うために手を取り合う日。紙に写し取ったマーブル模様は、婚姻届けだね。


 部長が気恥ずかしいスピーチをしてる。こんなに手放しで褒められたって、どっち向いて良いかわからない。健也の親戚なんて、何言ってるかわからないって顔してるじゃないの。私がどんな仕事をしていたかなんて、みんな興味はないんですよ。でも、ありがとうございます。お世辞交じりでも嬉しいです。


 高砂の席から、清水さんを見た。この前顔を見たのは、二週間前。その前も有給消化のために休んでいたから、もう長いこと一緒に仕事はしていなかった。顔を見ることができなくなる前、清水さんに会わなければ寂しいのじゃないかと思っていた。

 清水さんの不在には、驚くほどすぐに慣れた。それよりもたとえば新しく持ち込まれた図面を見たり、部材を拾うときに、清水さんのやり方を倣おうとしている自分に満足した。私はどこまでも清水さんの部下だった。


 式次第が終わり、両親と並んで参列者に礼を言った。綺麗だね、幸せにね、おめでとう。そう言って通り過ぎていく列の中に、清水さんはいた。


「改めて娘の結婚式に出た気分だったよ。良い式だった。綺麗な立花が見られて、嬉しかったな」


 そう言って、健也のほうを向く。


「自慢の部下でした。今度はふたりで手を取り合って、未来に向かってください。ありがとう」


 返すべき言葉が喉に詰まって、私は清水さんに手を差し出して握手を求めた。私が清水さんを追ったのは、この手があったからだった。


 後姿になった人を目で追うこともできずに、次々と参列者に祝福を受ける。懐かしい同級生の冷やかしに、健也と目を見合わせて微笑みを交わしたりして。普段よりも少し大人びた健也の表情は、頼もしい。私もまた、新しい表情になっているだろうか。



 ドレスを脱いで二次会が終われば、これからは次の生活の入り口だ。ホテルの記念日用の部屋には、華やかに活けられた花と一日の労いのシャンパンがある。傍らに座る健也は、緊張する一日の糸が切れてぼんやりしている。その顔は私に気を許している証拠のように思えて、私も負けずに肩に寄りかかってみたりする。


「梓は、向こうの会社でずいぶん認められてたんだな。結婚はもったいないとか、後悔してないか」


「やだ。部長のスピーチなんてお世辞なんだから、真に受けないで。もう、あの会社でしたいことは全部してきた。これからは健也と仕事を続けるんだから、そっちのほうが楽しみ」


 肩を抱いて私の体重を受け止めてくれる人は、満足そうに溜息を吐いた。こうして体温の暖かさで、ゆっくり幸福になっていく。私と健也の暖めてきた関係は、体温のままで続いていくのだ。燃え上がった火は消火されてしまうかも知れないけれど、必要な温度を保ったままのほの暖かさならば消えない。


 頭の中にまた、描かれるマーブル模様。混ざり合った色は、美しく深い暖色でありますように。



fin.

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