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青インク一滴  作者: 春野きいろ
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第一話 清水

 まばらな拍手が起き、女子社員が花束を持ってくる。既に年休消化に入っていたので、久しぶりの出社だった。今晩は娘家族が来て、祝ってくれる予定だ。デスクの中には、もうボールペン一本として入っていない。


「清水さん」


 引導を渡してくれるのは、君か。花束を抱えたその表情は、俺を惜しんでくれる気持ちが見てとれる。ありがとう、君は本当に良い部下だった。万年課長の俺の下で、主任なんて肩書きしか持たせられなくて申し訳なかった。まだ男社会の業界では、男には理解できない軋轢もあったろう。

 目蓋を赤く腫らしていた日、唇を噛みながら日報を書いていた日、目頭を押しながらCADを動かしている横顔。本当に良く育ってくれた。


「ありがとう、立花」


 もう一度拍手が起きて、大きな花束を受け取る。最後の挨拶をしなくてはならない。


「本日は、ありがとうございます。社会人として定年までここで業務に携われたことを、私は大きな誇りとします。風通しの良い、素晴らしい会社でした。どうぞ皆さん、これからもお元気で」


 来月から出社する関連会社は、契約社員の立場でしかない。パートタイマーと同じように、決まった時間だけ図面を眺めて帰る。そんな日々は、充実するのだろうか?もう部下の報告を聞くこともなく、実績金額をチェックすることもなく。空いた時間に宛がう趣味は、これから考える。とりあえずこの会社には、俺の席はなくなるのだ。寂しいと言えば寂しいし、清々しいと言えば清々しい。


 頭を下げてしまえば、もうすることはない。送別会は済んでいるのだし、皆それなりに忙しい。仕事も薄くはないし、自分が送る立場だった頃だって去っていく上司を大層に惜しんでみせたりはしなかったじゃないか。

 老兵はおとなしく、ただ消えて行け。自分にそう言い、エレベータに乗る。気恥ずかしい花束だけが、定年最後の日の証拠のようだ。男の一人住まいには、これは似つかわしくない。娘に持って帰ってもらおうと思う。


 ロビーを抜けようとすると、後ろからヒールの音が忙しく聞こえた。


「清水さん!」


 振り向けば、立花が走り寄ってくる。


「清水さん。今まで本当にお世話になりました。どうかお元気で、またお顔を見せてください」


「何言ってるんだ、結婚式は再来週だろう。二週間程度で老いぼれないぞ。それとも出席するなってことか」


 何か言いたげな顔に、ふと十年前が重なった。この娘の手を曳いて、歩いたことがあった。ただ一度だけ、手を繋いだ。あの頃は家内が存命で、俺ももう少し仕事に対して攻撃的だった気がする。

 あの手の持ち主と、握手をしておこう。あれは俺にも、淡く嬉しい記憶だ。握手を求めた手を、立花が軽く握り返す。その手を一度だけ、強く握った。


「十年ぶりかな、おまえの手を握るの。覚えてるか」


 立花は無言のまま微笑んで頷いた。十年前は専門学校を卒業したばかりの、右も左も抜けっぱなしの娘だった。女の陰影をつけて、彼女はもうじき結婚するのだ。長いようで短い十年だった。

 叩けば叩いただけ伸びていく彼女を、育てることができたことを誇りにしよう。


「忘れるはずがありません。あの日があったからこそ、清水さんを信頼して尊敬できたんです」


「可愛いことを言っても駄目だ。早く嫁に行って、子供の三人くらい生んでみせろ」


 手元の花束から、一本花を折り取った。彼女に残すのは、仕事の手順と俺の持っていた知識だけ。手加減知らずのくせに社内での政治力はまるでない、部下が報われない上司だったと思う。礼にもならない花を渡して、どうしようというのか。


「おまえは努力家の、良い部下だった。この花は、俺からおまえにだ。結婚式を楽しみにしてる」


 まだ何か言いたげな立花を残して、ロビーを後にした。誰よりも可愛かった俺の部下は、美しい女になった。

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