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インターフォンは正常に響いて、しかし返答はない。留守だろうか。居留守なら……考えたくない。握ったコンビニ袋の中身がごそりと動く。ここでずっと待っているのはやめた方が良さそうだ。もし居留守を使われていたら怯えさせてしまうかもしれない。自分の見た目に爽やかさなんてないことはよく分かっている。恥も外聞も、と言われても引かれたくはないから、一度部屋に帰ることにしよう。
連絡先を聞いておけば良かった。番号でもメールでもSNSでもいい。今どこにいる? とかちょっと会えない? とか、そんな風に気軽に使えるもの。階段を下りるだけで会えると思っていたのはどうも浅はかだったらしい。
階段を上がりきって角を曲がる。そしてドアの前に置かれた物体に驚きのあまり声を上げた。
「うわあぁ!!」
「あ、金山さん……!」
それは置き去りの無機物ではなく、背中を丸めてしゃがみ込んでいた新川さんだった。そして俺に気付くとすごい勢いで近付いてきて、ぱっと花開いていたはずの顔をくしゃくしゃと震わせ始めた。
何だ、俺何かしたのか? そもそもどうしてここにいるんだ? 混乱する頭に呻くような途切れる声しか出てこない。
「良かったぁ……」
「お、え?」
「昨日のこと、お礼を言いたくて。でもいなくて。全然帰ってこないから、あんな話聞かせたせいだと思ってぇ……」
「いや、違うって! コンビニ! ほら、コンビニ行ってただけだから! その後ばあさんとこに寄っててさ、それで遅くなっただけだから、そんな、泣くなよ……」
「安心しただけなので、気にしないでくださいぃ」
気になるだろう、目の前で大号泣されたら。理由が「安心したから」で良かったけど。泣きじゃくる姿は小さな子供のようで決して綺麗ではないのに、少しだけ可愛いと思ってしまった。自分のために泣かれているからだろうか。そうだとしたら何やらとても恋らしい。
とりあえず部屋に上がって。そう言おうと思ったけどふと考える。部屋が汚いということは今のところない。自分の部屋に入れたからって昨日の今日で手を出す気もない。が、安全地帯があるのに敢えてこちらを選ぶ必要もないだろう。
「話をしたいんだけど、部屋お邪魔していい? うち、ちょっと汚くて」
鼻を鳴らしながら、どうぞと頷く。灰色のカーディガンは拭った涙を吸って濃く色付いている。まだ頬も睫毛も中途半端に濡れたままだったけど何とか落ち着いてきたようだ。それに引きかえ、部屋に押し入る言い訳っぽくなかったかと考える俺だけが挙動不審で落ち着かなかった。
「すみません、自分でもあんなに泣くとは……」
昨日と同じ位置に腰を下ろして、謝罪の言葉を聞いていた。もう泣き止んでくれたのだからそれは気にするほどのことではなかったんだけど、こんなに謝らせているのは俺の表情のせいかもしれない。やけに緊張しているんだ、顔が強張っているのも感じる。たまにこちらを見上げる顔が様子を窺うようで、困らせているんだろうと思う。
「怒ってるわけじゃないんだ、ごめん。別に泣いてくれていい。悲しくて泣くんじゃないなら、堪える必要もないと思う。むしろ心配させてごめん」
「いえそんな! 改めて冷静に考えて、人様に話すようなことじゃなかったなって反省してたんです。だから面倒臭いって思われても仕方ないと思いましたし」
言う通り、面倒だ。他の男のことで泣く女を慰めることほど面倒なことはないんじゃないかと思う。でもそれはこの人にとって必要なことだ。目を逸らしては見えないものがあるように、向き合って泣かなければ進めない道もあるだろう。どんなに面倒に思えても、この人のためになるならそれを見届ける価値はあると、今は思うよ。
どんな説明をすれば分かってもらえる? 自分でも曖昧で中途半端な胸の内を、どんな言葉なら表せる?
人生最初の告白を前にしたような、慌ただしい鼓動が鳴り止まない。それなのに頭の中はひどく冷静で、黒目の色が濃いんだなとそんなことを考えていた。
「あの、金山さん?」
「昨日は話してくれてありがとな」
「え、いえ、ご迷惑じゃ……?」
「そんなことない。言っただろ、話聞くって」
そう言うと控えめに頭を揺らした。まだ納得がいってないんだろうな。多分また社交辞令だと思っている。もっと素直になればいいのに、自分の苦しみに声を上げればいいのに。それができなかった日々を思う。俺の知らない土地でひとりで痛みに耐えているのを想像すると、心臓の辺りが掴まれるようだ。
言いたい言葉はまとまらない。伝わるかも分からない。それでも聞いてほしい気持ちがある。
「俺が言ったこと覚えてる?」
問いに頷かれて少し安堵していることに気付く。忘れてくれていたらほっとする、なんて多分嘘だ。それ以上自分を踏み込ませないための嘘。いつからこんなに臆病になったんだろう。以前はもっと余計なことさえ簡単に言えていたのに。
酒を入れたい。アルコールで脳の芯まで鈍らせて全部吐き出したい。そんな衝動に駆られるけど、本当に伝えたいことはそんな風に何かに頼っていては駄目だ。きっとまた誤解させて、酔いが醒めて後悔して、冗談だって誤魔化してしまうだろう。逃げているのは格好悪い、恥も捨てて鳴くよりもっと。
嘘じゃない。そう言った声は迷いがなく、自信に変わる音がした。
「そのどれも嘘じゃない。同情でもないし、社交辞令でもない。純粋に力になりたいって思ってんだ。
俺の言う“純粋”じゃ信じられないかもしれないけど」
「そんなことないです!」
髪をうねらせながら大きく首を振ってくれる。俺とは違ってこの人が言うと本当にそうなんじゃないかって思ってしまうけど、いいのかな。
「嘘だなんて、疑ったりしてません。金山さんは優しいだろうからそう言ってくれてるのかなとは思ってましたけど……。でも金山さんの言葉に嘘があるなんて思ったりしません!」
「まだ知り合って一週間なのに? 本当はいい顔してるだけかもよ?」
「確かに見る目に自信は、ありません。前だって信用しきって裏切られましたから。それでも金山さんが本当に優しい人だってことは信じられます。どうしてって聞かれてもそう思うからとしか答えようがないんですけど。
でもひとつ、騙そうとする人は自分を疑わせようとはしないと思います」
人を信用するのにちゃんとした理由はいらないのだろうか。真っ直ぐに答えてくれる眼差しを受ける。いつかは弱く濡れていたそれも今は真摯に信じていることを示してくれる。
ちゃんとした理由はいらないのだろうか。そうだとしたら行動するための理由もいらないのだろうか。この人がただ俺を信じようとしてくれているように、ただこの人のために行動したいと思うのはおかしなことではないのだろうか。
「与えたくてする恋もある」。まだこれを恋と呼ぶには早すぎる、それでもその言葉から生まれる感情は少しだけ分かる気がする。この人を貪欲に欲しいと思う気持ちはほとんどない。しかしこの人のためにしてみたいことは思い付く。連れて行って教えてやりたい場所も、紹介してやりたい人も。料理に喜ぶ俺を見ていたあの嬉しそうな顔は、心底料理が好きな人の顔だ。また当たり前のように好きなことができる日々を送らせてやりたい。それを近くで見れたなら……多分それを幸せと呼ぶのだろう。
「それなら、何でも言って。俺のことを信じてくれてるなら」
「でも……」
「俺に気を遣う必要なんかない。荷物持ちだってするし、家具家電の取付だって任せろ。もしばあさんに絡まれて大変な時は代わりになってやってもいいぞ」
俺を見つけたら他の人はすぐ解放されるから、と言えば想像したのかくすりと笑う。そうだ、そうして笑っていてくれないか。
「全部ひとりでやろうとはしないでくれ。見ていて心配になる」
「ありがとうございます。心強いです。だけど頼りきりになるのはやっぱり駄目ですよ」
きっちりした人だな。俺がしたくてするだけでも、この人にとってはやってもらっているというのが大きいのだろう。頼れるものは何でも使う、そんな意識を持っていないからやってあげたくなるのも当然のはずだ。納得してもらう材料は何かないかと、考えるまでもなくひとつのことが思い浮かんだ。
「そんなに気になるなら、代わりに俺の飯も作ってくれないか? 頼みたいことがある時だけでいいから」
「ご飯、そんなことでいいんですか?」
「あぁ。新川さんが作ったご飯でエネルギーを貰う、俺はそれで新川さんのために動く。それなら問題ないだろ」
当然食費は半分出すよ。そう言えば、貰えませんと断られた。
「飯屋に行って金を払うのは当たり前のことだろ? 今は休業中だからってプロの飯に金を払わないのは駄目だ。こう見えて金には真面目だからな」
「プロなんて、そんな大層なものじゃないですし。お金をいただくのは違うと思うんです」
「んん、結構強情だな……」
譲りませんよと表情が訴えていた。飯を用意してくれるのは決まりで良さそうだが、意外なところで頑固な性格を知ることになるとは。でも俺だってタダでというのは気が引ける。俺がやってあげられることに対しての対価にこの料理の腕は釣り合わないからだ。どうしたらいいものか。
気付けば何の気負いもなく話していた。口論というには弱い小競り合いがまだ続いている。どうして受け取れないのか、どうして払われなくてはいけないのか。そんなことを言い合っていると色んな表情が見える。子供の我儘を叱るような顔つきの時もあれば、親を言い負かして胸を張るような時もあって。それを見て俺自身がこの状況を楽しんでいるのを知る。いつまでも苦しまないように願っていたつもりが、俺の方が楽しませてもらっていた。何を気にするでもなくただ楽しいと思える時間をいつから過ごさなくなっていたんだろう。この人もこの時間を楽しいと思っていてくれたら、それだけでいい。そう思えた。
しかしこんな言い合いを続けていては望まない喧嘩に発展しかねない。仕方ないと膝を打って、妥協案を提示することにする。
「分かった、じゃあこうしよう。一緒に飯を食う時は俺が酒を用意する、勿論良い酒な。それからデザートも付けてやろう。この辺りは有名な菓子屋が結構あるんだ。随時リクエストにもお応えできますが、それでいかがでしょう?」
「分かりました、それで手を打ちましょう。こちらもリクエストをお受けしますね」
ふたりして笑った。堪えきれずにどちらともなく肩を揺らして、声まで上げて笑った。敢えてした口調も、そこに返ってきた言葉も、たった一週間の知り合いとは思えなくて。馬鹿みたいな話だけど、今を幸せだと素直に思ったよ。
目尻を拭いながら呼吸を落ち着けるのを笑いながら見ていると、視線が上がる。それを聞くのが当然とでも言うような自然さで問いかけられた。
「でも、何でこんなに良くしてくれるんですか、それこそ知り合って間もないのに?」
出会いはあまりいいものとは言えなかった。ある意味で劇的な出会いではあったけど。
最初に抱いたのは罪悪感だった。申し訳なくて、何かしたくて。何でも面倒だと投げ出していた俺を動かすくらいに、その一瞬の表情が頭から離れなかった。そこに隠れていた理由を知って、何よりもまず力になりたいと思った。最初に抱いた罪悪感はとうに消えていた。
どうして力になりたいと思うのだろう。他の誰といても掠めもしなかった"幸せ"ってやつを、この人を前に願ってしまうのは何故だろう。答えは単純で、その実とても複雑で、一言では言い表せない。それでも「鳴け」と背中を押されるから、浮かぶ言葉のたったひとつだけ取り上げて声にしてみる。
「ただ一緒にいたいからかな」
俺の顔をじっと見つめる表情は驚きのあまり呆けていて、薄く開いたままの口を閉じることも忘れている。面白いが瞬きはした方が良さそうだ。顔の前で手を振ると、はっとして忙しなく瞬きを繰り返した。何か言いたげに唇を震わせて、そこら中に視線を散らばせる姿はやっぱり小さなリスのようだ。
しかしそうか、一緒にいたいのか。言葉にしてから自身の気持ちを知る。そうして知ると、空気を見つけた風船のようにみるみるそれが膨らんでいくのを感じた。――ただ一緒にいたいだなんて、まるで。
「そ、それって、まるで……」
「告白みたい?」
「……もうっ!」
言い当てられたからか頭を抱えるように小さくなった。これこそ冗談だと思っているんだろうな。でも本気で怒ってはいないところをみると、不快にさせてはいないようだ。いつの間にかそんなに信用されていたとは、少し気恥ずかしい。いい兆候だと思うことにして、俺より更に恥ずかしそうなその人を眺めていた。
勢いよく、何かを振るい落とすように身体を伸ばす。そして納得したように頷いて、高らかに宣言する姿はまるで愛しいものに見えた。
「ご飯を、食べましょう! 一日の始まりはご飯からですもんね!」
「もう夕日も沈むとこだけど?」
「い、いいんです! 一日の終わりだってご飯ですし。……それに、始まりは朝日だなんて決まってませんから」
逃げるようにして小走りに去っていく。台所に立つ俯き加減の顔も下から見上げれば丸見えで、赤く染まっているのがよく分かる。俺の背中を照らす夕日がその原因でないことも。
足音を立てながら右往左往する様を見ていると、自然と笑いが込み上げてくる。穏やかな光の中で、ふと視線を合わせてまだ恥ずかしそうにはにかみながら目を逸らすのを見れば幻のようで、その景色に溶け込んでみたくなった。
この人を「好きだ」とは、まだ言えない。勿論嫌いじゃないし、一緒に過ごしたい気持ちは本当だけど、多分それを言うのはもっと先の話だ。この人がもう少し前を向いて、何でもなく笑える瞬間が当たり前になる頃。その頃には俺の中のこの人の位置も恐らく定まっているだろう。それからでも遅くはないはずだ。
でもそれまでじっと黙っているつもりはない。たとえ体裁が悪くても、言うより先に気付かれても、傍にいたい気持ちは何度だって伝えよう。恥も外聞もかなぐり捨てて、柄にもないことは重々承知で。
すぐにでも触れられる距離で、まだ触れないままに何度も俺は。
「手伝うよ」
さえずるように君を呼ぼう。