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 昨日より少し早い時刻、コンビニに行くため家を出た。冷蔵庫の中が空のままだからだ。

 会計を済ませて出ていく瞬間、自動ドアの向こうにあの人が見えた。そう思ったのにただの気のせいだったらしい。そこには誰もいなくて軽快なメロディーが降ってくるだけだった。

 あの人が部屋にいる保証はなかったけど念のために音を立てないように階段を降りたせいで、腰と脚の筋を違えた気がする。じわじわと内側が痛い。鉢合わせを懸念して身体を痛めることになるとは。ついでに胸焼けのような症状が出ているのは、らしくないことを言ったせいだろう。

 煌々と照る夕日を背に歩く。引きこもりの肌も汗ばんで、柔らかくなった日差しさえ痛みに変わる。でもあの人に比べれば、なんて考えているこの頭が一番痛々しい。



 酒の勢いが出た。手を出さなかったという点では合格だと思うが、俺の言葉を聞いてどう思っただろう。ありがとうございますと深々と頭を下げた姿を思い出す。それはまた昨日のように助けを求めると断言できる要素には少し足りなかった。

 次に会った時、酔っていたから忘れたと言ってもらえるとほっとする。ほっとはするが、本心から言った言葉だ。寂しくはある。それに同じことがもう一度言えるかというと素面では厳しいものがあるだろう。浮かんだものを全て言葉にできる年頃はもうとうに過ぎている。だけどあんな風に助けたいと思った相手は数少ない。どんな仕方でも助けてやりたいと思ったのは初めてかもしれない。

 同情ではなくて、同情ではないんだけど、それなら俺を動かそうとしているのは一体何だ?


 行動を起こすためには理由が欲しい。行動を起こした後ならまたその理由が欲しい。何となくってのは嫌いだ。動機付けが欲しい。どうして、何のために、あの人のことを気にかけるのかを俺自身が知りたい。

 恋なんて答えはすぐさま却下だ。だってほら、三十三だし。初恋も未経験の中学生でもあるまいし、恋した時の気持ちくらい自分で分かる。それにタイプだってある、ちょっと派手めな方が好みなんだ。だから、違う。

 あぁ分かった、多分あれだ。ヒーローに憧れる年頃なんだ。……それがいつかは知らないけど。




「夜這いにはちと日が高いの」

「ばあさん襲う気なんか更々ねぇよ」

「なんじゃ、覇気がないのぅ。珍しくそっちから出向いたと思ったら。まぁ入んな」


 部屋に戻らずコンビニ袋を下げたまま大家さんの部屋の窓を叩いた。そこはばあさんの特等席で、ばあさんに会いたい時は直接窓を叩いて呼び出す。以前にも何度かしていて今では大家さんの公認になっている。

 大家さんの家の中に入ったのは随分久し振りだ。いつもは中と外で話をするから。中に入ると汗をかいた身体にも適温で心地いい。そろそろ部屋のクーラーを直してもらった方が良さそうだな。

 ばあさんは特等席に置かれたマッサージチェアに腰かけて、畳に寝転んだ俺の脇腹を爪先でつつく。


「して、何かあったんか?」

「蹴んなよな。……そんな大したことはねぇけど」


 口篭る俺を見下ろして、手拍子を始めるばあさん。何だと見上げれば歌を口ずさみだした。


「はーるよこい、はーやくこい」

「だから恋じゃねぇっての!」


 身体を起こして叫ぶと、皺だらけの目を細めてこれ以上ないほどの不機嫌さをアピールをする。何だよ、とまだ食ってかかればその小さな体を丸めて重たい溜息をつかれた。


「ばばぁはただ和ませようと思って(うと)うただけなのに怒られた……。季節の春呼んだだけなのに。恋の話とかしとらんのに。

 やっぱりあれかな、心が荒んどんのかな。誰かこんな怖い兄ちゃんの心を癒してくれる、髪が長くて優しゅうて料理上手で二階の端っこに住んどるような人、居らんかな……」

「丸っきり新川さん想像しながら言ってるだろ」

「お、あの娘が居ったの! 早速呼ぶか!」

「やめろって!」


 本当にやめてほしい。今一番逆効果だよ。受話器を掴んだ手を素早く下ろさせると、ちゃんと話をするために深呼吸をする。わざわざ訪ねてきたのは年の功に頼れば何とかなるんじゃないかという思いが確かにあった。でも実際何が知りたいのかもよく分からない状態で、何をどんな風に聞けばいいんだ。そして俺はどんな答えが得られれば満足なんだ?

 

 意識してあの人の表情を思い出す。痛みに耐える顔、涙を堪える顔、泣きながら礼を言う顔。初めに出てくるのはそんな悲しいものばかりで、笑った顔はほんの少しだ。それも俺に合わせただけのものがほとんどだろう。話を聞いた後ではそれが前の男のせいであることは明白だが、それを覆せるほどの技量が俺にあれば良かったようにも思う。実際ないのだからどうしようもないけど。

 それでふと確認したくなった。


「女を泣かす男って」

「最低じゃな」

「……まじか」


 即答されて、だよなと零す。分かってたことだけど改めて言われると結構傷付くな。泣かせたんか、と聞かれたからそんなつもりはなかったけどと返した。いつだってそんなつもりはなかったけど、俺の目の前で泣いたのだから大差ない。年下の女に泣かれるのって、やっぱり気分は良くない。


「傷付けたんじゃないなら気にすることはない」

「傷付けてはないと思う。でもつらいことを思い出させた、かな。いや、忘れられなかったんだから思い出させたわけじゃない、のか? んん、分かんねぇ」


 脳の日頃使わない部分がひたすら思考を続けるけど散漫としてひとつにまとまらない。女の気持ちを考えるのってこんなに難しかったか? まだ知り合って間もないから難しいんだろうか。もっと長く時間をかければ分かるようになるんだろうか。

――俺は一緒にいたいんだろうか?


 人のことを慮るのはいくつになってもビギナーじゃ、とばあさんが俺の頭を読んだように言う。突然出た横文字に違和感しかないが、それに言葉を返せる心理状態ではなくて、結構弱っているらしいと気付かされる。

 今日みたいに避けていていいとは思わない。大きなことを言ったけど酒のせいにするようなことではないから。必要な時には頼ってほしいし、ああしてまた一緒に飯を食いたいと思う。同情ではないのと同じように、俺の寂しさを紛らわせてくれたからというのでもない。そこは偽りなく、あの人のためにしてあげたいと思っているんだ。

 どうしたらいい? 思わず口から出た声は情けない。それでもばあさんは笑わずに、簡単なことじゃ、と手を叩いた。


「泣かせたことを後悔しとるなら、その分笑わしてやればいい。嬉し涙に変えてやればいい。泣かせた原因がはっきりしとって、泣かせたことも後悔しとるなら上等。笑わせ方は無限にあるからの」


 まずは一緒にいること、会うために時間を取って面と向かえば自ずから方法は見えてくる、と言ってのけた。

 本当にそうだろうか。ばあさんを疑うわけじゃなく俺は“俺”に自信がない。昨日誘われた理由も気付いてやれなかった、一週間そのことでずっと気を揉んでいたくせに。多分今のあの人なら泣かせる方が簡単だ。弱った心を抉るのは誰しも考える以上に一瞬のことだ。それに比べて笑わせるのは、その見た目以上に複雑で。俺といて確かに笑っていた瞬間もあったけど、俺が見たいのはそんな気遣いからの笑みじゃなく意識せずともそうなってしまうような笑顔だ。それを思うと目の前の壁は高い。……かと言って嬉し涙なんて以ての外だけど。


「早くいい人が見つかればいいのにな……」


 前の男のことを忘れて笑える相手が早く見つかればいいと思う。そうすれば俺が悩む必要はなくなる。

 そうか、ヒーローとは違うな。今の俺は捨て犬を見つけた子供みたいな心境で、拾ってやったはいいけど俺には飼い主の素質はなくて、代わりに飼ってくれる里親が見つかるまでは面倒を見てやろうなんて、そんな気分になっているだけなんだ。だから失ったものは早く補ってやらなくちゃ。

 そんなことを呟いた俺に、立候補するんじゃないのか、とばあさんが聞く。そう思われてるだろうとは思っていたけど。


「別に俺はあの人と恋をしたいわけじゃないし」

「なら、嫌いか?」

「嫌いじゃねぇけど、問題は好きかどうかだろ」

「どうした、まともなこと言うようになったな」

「俺のこと何だと思ってんだ」


 嫌いじゃない。人としてもああいうちゃんとした人は好きだ。それでも恋愛となるとそれだけではどうにもならないものがある。双方の気持ちが成り立たないと、一方的な感情は恋愛にはならない。するならちゃんとした恋愛がしたい。


「初めから面倒だって分かる恋愛に手を出すほど無謀じゃない」

「それはあの娘を面倒だと思ってると?」

「そうじゃねぇって! ……ただ、でっけぇ穴を塞ぐのは簡単じゃないし、俺みたいな甲斐性なしじゃどれだけ時間があっても足らねぇと思うし」

「逃げてるだけに聞こえるがの」


 ばっさりと切られて息が詰まる。そうじゃないって言いたいのにその言葉が出て行かない。俺を無視してばあさんは続ける。


「誰でも大きさは違えど穴を抱えとる。失わずして得られるもんはないからの。あんただってそうじゃろ? しかしそれを完全に塞いでくれる相手を求めるのはただの馬鹿じゃ、パズルみたいにぴったり嵌まるもんは他の誰も居らんのじゃから。

 でもな、それを覆ってくれる人を見つけた時に幸せになれる。一度空いた穴は戻らんが、その穴でさえ大事にしてくれるもんが居ればそれ以上幸せなことはない」

「でも俺は……助けたいとは思うけど、そんな」


 穴を覆う。包んで大事にする。それは穴を埋めるのと比べてどれほど簡単と言えるのだろう。俺にそんな芸当ができると本気で思っているんだろうか。俺はそんな風に器用じゃない。忘れられない想いを抱えていると知りながら、それすら守ってやるなんて、そんなできた奴じゃないのに。

 恋愛って確かもっと、汚かった。衝動的に欲しくなる時もあれば打算的に近付くこともあった。その気もないのに触れてみることだってあった。どろっとしてて、欲が走って、刺激が欲しくて。恋愛って、そうだろ? なのにこんな、真水みたいなさ。


「……こんな綺麗なの、知らねぇもん」


 泣きたくなった。多分声は震えていた。ばあさんが窓の外に目を向けてくれていたのが救いだった。人前で泣くなんて格好悪いだろ、あの人だって必死で耐えたのに。

 硬く目を瞑って、頭を振る。脳が揺れる感覚がする。涙が浮かぶのも遠い昔のことすぎて、ここまで疲れるものだったなんて忘れていた。頭が痛い。今何があれば笑えるだろう。涙の意味は違うけど、泣くのをやめて笑いたくなるには何が必要だろう。土手で見た一番綺麗な笑顔しか浮かんでこなかった。

 ばあさんが外を向いたまま、ゆったりとした口調で話しだす。


「欲しがるばかりが恋じゃない。与えたくてする恋もあろう。出会いもきっかけも十人十色、人の数だけその形はある。あんたの持っとるもんが恋かどうかは誰にも分からん。決めるのはあんた自身じゃ」


 それでも目を逸らすな、と向き直ったばあさんの小さな目が力強く俺を映した。


「初めから決めつけては大事なことを見落とす。大事なものを失う。失ってから気付くんじゃ遅すぎるじゃろ。ちゃんと自分の思いを見直せ、失っていいものかどうか心に聞いてみぃ」

「俺に、分かる?」

「分かるとも! 思い出せばいい、重い荷物を持ってふらついているのを見てどうしてすぐ動いた? 何を思った? 自分のためのものが用意されているのを知った時は?

 ひとつずつ思い返せばいい。感情なんてのは意外と単純じゃ、入り組んで見えても行き着くところの数は知れとる。大丈夫、あんたはいい子じゃ」

 

 ガキ扱いするなよな。歯のない笑顔はどうも間抜けだ、なのに、温かい。

 どう思ったかなんて色々あるけど、そうだな、思っていたより単純かもしれない。初めから決めつけて遠ざけようとして、それでも振り切って走り去ることができなかったのは、本当は初めから気付いていたからなのかもしれない。見失ってはいけないと心が留めておいてくれたのかもしれなかった。

 あぁ、面倒だ。内側をこんなに揺さぶられるなんて。面倒だ、けどこういうのも、ありだよな。

 ばあさんを見上げると、満足そうな面持ちで頷いてくれた。全部お見通しなんだろうと思うと居心地は悪いが気分はいい。ひとりじゃないと示すことはきっと、こういう気持ちを与えることだ。


「気付いたなら、迷わずないて(・・・)こい」

「やだよ、いい歳して泣くもんじゃないだろ」

「さんずいの方じゃない。口に鳥の“鳴く”じゃ」


 ますます意味が分からない。顔に出してそれを伝えると壁に貼られていた鳥の絵を指差した。


「こんな巣の中のひな鳥を見たことがあるか?」

「そりゃあるよ」

「なら、親鳥が餌を持ってきた時、ひなはどうしてる? 静かに順番を待っとるか?」


 そんなはずがない。餌をもらおうと煩いほど鳴く。絵にある通り、首を伸ばして必死の形相で。そうしないと餌にありつけないからだ。親鳥が持って来られる餌の量には当然限界があって、一度にあげられるのは一羽だけ。だからそれを貰えるようにひなは耳に痛いほど強く鳴くんだ。


「人の心もそうじゃ。たったひとつ、あるだけ全部欲しいなら恥も外聞もかなぐり捨てて伝えなきゃならん。上手く言えなくてもいい、伝わるかどうかに言葉の上手さは関係ない。相手が他の誰かにそれを与えてしまわないように、あんたの声で精一杯鳴け」


――大丈夫、あんたはいい子じゃ。

 ついさっきも聞いた言葉をばあさんは繰り返した。そんな風に言ってもらえるほどちゃんとした奴じゃないけど、頭を撫でる手の優しさは感じられる。それに背中を押される。

 まだ未完成なこの想いは、恋だの愛だの定義付けるには足りないものが多すぎる。不透明で、不鮮明で、それでも伝えたい気持ちはすでに芽を出して伸びようと上を向いていた。少しも惑わされない酔いの中で確かに強く思ったように、今伝えたい思いがある。

 頭の上に置かれたままの手を取ってしばらく握ると、俺は立ち上がった。



  

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