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「そこに座布団があるので適当に座ってくださいね」

「あ、ありがとう」


 荷物を置いて料理ができるまで自分の部屋に戻ろうと思っていたが、そう言われては断るのも悪い。置かれていた黄色い花柄の座布団を持って、窓際の隅に腰を下ろした。

 この一週間で引っ越しの荷物はきちんと片付けられているようだ。見えるところにはテーブルと本棚、小さな化粧台のようなものが置いてあるだけ。まだ必要最低限のものしかない印象だけど、どこか女性らしさを感じて自分の部屋との違いに唸った。模様替え、しようかな。


「嫌いなものとかないですか?」


 声に反応して台所に視線を移す。ここは安くて古いアパートではあるが、台所だけは対面キッチンとやらを採用している。大家さんが女性だからかもしれない。噂では入居者の女性たちに大好評の工夫が幾つもあるらしい。自分ではほとんど使ったことがないからよく分からないけど。新川さんは淡いピンク色のエプロンを着けながらこちらを窺っていた。特にはない、とそれだけ答えるのに声が上擦って嫌いなものを隠そうとしていると勘違いされてしまった。嘘でないことを必死に伝えはしたが、本当の理由なんて言えるはずがないだろう。

 少ししてから片手にビールの缶とグラス、片手に小鉢を持った新川さんがこちらに来たが、部屋の隅に固まっている俺を見て可笑しそうに笑う。


「良かったら先に飲んでてください。冷奴もどうぞ」


 テーブルの前に座り直して至れり尽くせりだなと思う。こんな風に招かれたことも振る舞われたこともない。てっきり大皿料理が出てくるものと思っていたからまさかのもてなしに緊張しつつ、予期せず訪れた特別な時間に顔が緩む。いつかも言ったようにお言葉に甘えてと答えて、缶のプルタブを開けた。

 台所で手際よく働く姿をぼうっと眺める。そんな視線に気付いたのかにこりと笑って、すぐに用意しますからねと声をかけられた。あまりじっと見るものだから相当お腹がすいていると思われたらしい。その方が好都合ではあるけど。


――女のエプロン姿って、こんなに吸引力があったっけ?

 玲美も何度かしているのを見たことがあるけど、小柄で赤の短髪だったせいか調理実習の生徒の感じが否めなかった。その前の彼女は料理をしてくれたのも数える程度で、その時にエプロンなんてしていただろうか。

 大きめのTシャツに薄い色のジーンズを着た姿も先週とは全く雰囲気が違うけど、そこにエプロンが加わるだけでどうしてこんなにも見ていたくなってしまうのか。長い髪は後ろで緩く束ねられて、後ろを向かれる度に首元に視線がちらつく。そんな目で見ちゃいけないと何度もテーブルの上に返すけど、気が付けば見つめていて自分の堪え性のなさに溜息をついた。そして気合いを入れる。……酔った勢いとか、取り返しがつかないから。




「すみません、お待たせしちゃって」

「え、この量今の時間で?」

「下ごしらえは終わらせてたので」


 それにしても早い。途中から俺の仕事の話を聞かれていたから時間が過ぎるのが早かったのかと思ったが、実際まだ三十分程度だ。しかし目の前に並んでいるのはメインのポークソテーに葉野菜のサラダ、オクラの和え物にサーモンのカルパッチョまである。他にいるものがあれば言ってくださいと言われても、一皿に盛られた量を見れば全て平らげられるかさえ怪しいくらいだ。広がる彩りと沸き立つ香りに喉が鳴った。エプロンを外して正面に座った新川さんといただきますと声にすれば、少し気恥ずかしくて待ちきれない犬のように料理に飛びついた。


「……うめぇ。まじで美味い。俺泣きそうなんだけど」

「大袈裟ですよ。でも、ありがとうございます」

「店開くべきだよ、このレベルは」


 俺とは対照的に少しずつ食べ進めるのを見ながら、興味本位で仕事はどうするのかと聞いてみた。まだ決めていないと返答が来る。早く仕事が見つかるに越したことはない。働いていれば紛れるものもあるだろう。


「前はどんな仕事してた?」

「小さなレストランで働いてました」

「え、なんだ。プロなんじゃん。通りで規格外の美味さなわけだ。じゃまたレストランに?」


 手に職があるなら使わなければもったいない。これだけの腕前なら欲しがる店は多いだろう。その気になればすぐに見つかるはずだ。

 だけど俺の問いに首を横に振る。


「……当分は仕事で料理はしたくないかな、って」


 僅かに俯いた顔に不安が過る。余計なところに踏み込んだだろうか。それはこの人の心の重たい部分に繋がってしまうのか。

 何かを問う前に、頭を下げられた。突然のことに呆けていると、申し訳なさそうに波打つ目が向けられる。どうした? と聞き返すのが精一杯で、頭の大部分は謝られている理由を考え出そうとフル稼働していた。しかし身を起こしその口が開かれるまで、何の欠片も思い付くことはなかった。


「本当はこんな話しないつもりだったんです。金山さんの迷惑にもなるから。だけど何を始めようにもちらついて、だけど話せる人なんて一人もいなくて……だからこうして来ていただいたんです」


 初めからそう言えば良かったのにと言おうとしたが、それができないからここまで黙ったままになってしまったのだと気付く。

 自分を潰してしまいそうなほどの問題を誰かに預けるのは、痛い。できれば自分の中だけで解決したいと思う、その気持ちは分かる。でも耐えられなくなった。新しい街に来てもそれまでがリセットされるわけじゃないから。そうしてそれらは積み重なって、更に口が重くなる。それほど簡単な話ではないということだ。

 聞くよ。その一言に驚きと安堵の入り混じる複雑な表情が浮かぶ。今度は感謝と共に下がる頭を見る。晩飯は交換条件の役割を果たしていたらしい、すっかり胃袋を掴まれたが当然そのために聞くことにしたのではない。純粋に吐き出す場所になることを決めただけだ。しかしひとつだけ、俺の方もお願いをしたい。


「とりあえず飯を食おう。腹を満たして酒も飲んで、その方が多分話しやすい」


 それは勿論、胸を騒がす俺のためでもあったけど。




 全てを綺麗に頂いて洗い物も済ませておいた。そこまでさせるのはと恐縮されたけど、ふたりでした方が早いと推して、テーブルの上には互いのビールだけが缶のまま置かれている。

 何から話そうかと悩むのを見ながら、それでも俺が何かを引き出そうとするのは違うだろうとじっと待っていた。やがて決心がついたのか勢いよく顔が上がって、気落ちするように身体を小さくしながら話始めた。


「彼が、いたんです。常連客でした」


 正確に言えば新川さんの料理を食べてから常連になったのだと言う。男は来る度にわざわざ指名するほどその味に惚れ込んでいたらしい。小さなレストランで厨房は丸見え、客席から声をかけるのは簡単だった。そうして男が声をかけてくるようになり、ふたりは友人になり、しばらくして恋愛感情を持つようになった。男もそれは同様で、恋人になるのにそう時間はかからなかった。

 客としてでなく恋人として男に料理を作る時が一番の幸せで。そんな幸せがずっと続くと信じていた。でもそんな当たり前の望みは一瞬にして打ち砕かれた。街中で偶然、見知らぬ女と肩を寄せる男の姿を見たために。


「最初はお姉さんだと思ったんです。でも腕を組んで歩いていて、人混みの中で隠れるようにキスをしているのを見ちゃったんです。

 私はあの人の二番目でした、だけどずっとずっと遠い二番目。だって一年付き合って、手を繋いで歩いたこともなかったから」


 それでも幸せだったのに、と唇を噛む。男にとって自分はただの家政婦のような存在に過ぎなかった、好きの言葉も笑い合った時間も全ては嘘で、きっとそれが代金の代わりだったんだと言葉を絞り出す。その姿は血を吐いているようで、目を逸らしたくても逸らせなかった。

 ふと近くに置かれていた財布を手に取って、いっそ雇われている方が楽だったのに、と呟く。そこに愛情表現が一切なければただの勘違いだったとすぐに忘れられたのだろうか。どちらにせよ男が取った選択は明らかな間違いだった。

 力の入らない手から床へと財布が落ちる。軽く叩きつけられたがま口が口を開けて、中から小銭が転がり出た。慌てて拾い集めるのに倣って手を伸ばすと丁度同じものを目指していて、向こうの手が躊躇したのを見て押さえつけるようにして止めた。追いかけたのは十円玉だった。

 

「……吹っ切れそう、って言ってたのは?」


 十円玉を踏みつけた。泥まみれになったそれをどこかが痛むような表情で拾ったのに、これで吹っ切れそうだと思ったのは何故だ。それもその男に関係しているんじゃないのか?

 躊躇いなく俺は聞いた。先に手にした十円玉を顔の前に差し出すと、指先で触れて、その瞬間またあの顔をする。摘み上げた十円玉を見つめる表情は既に元通りで、むしろ呆れるように口角を上げた。


「恋は十円玉に乗るんです」

「十円玉に?」

「その人が言ってたんです」


 集めた小銭を大きい順に上へと重ねていく。くすんだ十円玉の上に乗った五円玉が妙に光っていて、我が物顔で頂点に立っているように見えた。

 お参りに行ってご縁とかけて五円玉を入れる人っているでしょう、と聞かれて素直に頷いた。よく聞く話だ、特に女はそういう言葉遊びが好きそうなイメージがある。しかし男が言ったという話とどう関係するのだろう。


「五円玉はご縁を呼んでくれて、その沢山あるご縁の中の数少ないものがこの小さな穴を通って、それが恋になるんだって。だから恋は十円玉の上に乗っていて、それってすごく奇跡みたいなものだと思わないかって言ってたんです」


 率直な意見として、いまいちピンと来なかった。こういうのをロマンチストと言うんだろうか。この出会いが運命だとのたまうような。恋を美化して、相手を捕らえて、でも実際の振る舞いはどうだ?

 言葉は簡単で嘘つきだ。同じ言葉をそいつは多分誰にでも言える。運命だの奇跡だの、息を吐くように言ってしまえるだろう。それがひとりの女をどれほど傷付けるのかも考えずに。

 握った拳が震える。何にこんなに苛立っているんだ。そいつが男の風上にも置けないような奴だったからか? 上っ面だけの言葉で飾り立てて、それに苦しんだ人を目の前にしているからか? ビールとは違う苦いものが喉の奥に込みあげてくる。

――それなら、俺はいつだって清廉潔白だったのか?



「私はまだ社会に出たての未熟な子供で、その言葉を信じて疑わなかった。彼が奇跡だと言ったら奇跡だと思ったし、この十円玉の上から落ちないようにしないとってそんなことを思ってたんですよ。

 でも全部分かって、別れてひとりになった時にふと思い出して気付いちゃいました。あれは本当は、こんなに小さな、十円玉に乗るくらいの気持ちしかあげられないよって意味だったんだぁ、って」


 話はまだ続いていた。男の真意を知ることはもうできない。この人が言うような含みがあったのかは考えても想像がつかない。でもそう思っても不思議ではない。自身の目で自分よりも親密に寄り添う姿を見てしまったんだから。

 男が語った"恋が乗った十円玉"を俺は踏みつけて、泥までつけた。それはこの人の胸の内で未だ燻る感情を踏みつけたのと同等だった。だから言いようのない愁傷の思いを掻き立てて、しかしその程度のものなのだと納得できそうでもあって。

 見る度に思い出すのはどれほど重いだろう。どのくらいの時間が経てばあんな顔をせずにいられるようになるのだろう。

 酒に酔って口調も解れた代わりに、涙腺も緩んでしまったらしい。天井を見上げる瞳は溺れるように潤んで、鼻を啜る音が大きくなる。

 話すことを決めたのはこの人だ。だけど泣かないように助けてやることもできたのかもしれない。ただ聞くだけじゃなく、つらい思いばかり抱えなくてもいいように何かできたかもしれない。今更思っても遅いのは重々承知で、それなら今から何がしてあげられるのかを考えよう。……それなら数限りなくあるじゃないか。


 瞳を潤ませたまま、下手くそな笑顔が向けられる。馬鹿みたいですよねと言ってそれから、駄目じゃないですかと頬を膨らます。


「約束したのに。笑い飛ばしてくださいって」

「……悪いけど、その約束は守れない」


 いよいよ泣きそうに歪んだ目元に、それでも逸らさずに俺は言う。


「本気で好きだったんだろ、そいつのこと。だからそんなに苦しんでるんだろ。

 必死に愛した時間も想いも、他の奴が笑っていいようなもんじゃないだろ」


 どんな日々を過ごしてきたかなんて俺が探るようなことじゃない。でもこの人が確かに愛して、そこに確かに幸せを感じていたのなら、俺も、他の誰も笑っていいはずがない。他人の愛情を結果だけを見て笑うなんて、そんなことをしていいはずがない。

 だから約束は守れない。笑い飛ばしたって、心が軽くなるわけがないんだから。


「ゆっくり忘れていったらいい、覚えているのもつらいなら。俺に何ができるわけでもないけど、話は聞いてやれる。飯も一緒に食ってやれる。冗談言って笑いたいなら付き合うし、耐えられなくて泣きたくなったらハンカチくらい貸してやる」


 それがどの程度の助けになるかは分からない。それでもひとりでいるのが苦しくなれば俺を呼べばいい。別に荷物持ちでもいいんだ。必要だと思った時、ひとりじゃないって証明してやるから。だから。


「思い出しても笑えるようになった時には、一緒に笑い飛ばそうな」


 だから、俺を呼べよ。



  

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