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 翌朝、あまり眠れなかった頭を振るって部屋の掃除を始めた。悶々とどこの誰かも知らない人――今やここ(・・)の人ではあるが――の言葉に頭を抱えてしまうのは部屋が汚いからだと思うことにしたのだ。実際、掃除機もろくにかけていなかった部屋は掃除してみるとその汚さに一瞬息を忘れるほどだったけれど。

 有難いことに今日も良い天気で、放っておけばカビも生えそうな万年床も干すことにした。掃除している間換気もできたし、こんなに清々しい心持ちになるのもいつ振りだろう。やはり掃除は大切だな、下の人のことももう気にならないし。

 ……どうして墓穴を掘ったんだろう?


「あー、くそっ! 何だよ、何でこんなに気になってるんだよ」


 好みかというとそうでもない。綺麗な顔立ちをしてるとは思ったけど、華がないというか幸がない? 化粧も確かに薄かったけど、笑っているのに全然楽しそうじゃなくて作り笑いって感じがどうももったいなかった。

 好みじゃないなら何かと考えてみてもよく分からない。あの表情が引っかかっているのだろうか、それとも「吹っ切れた」という言葉だろうか。面倒事も頭を使わないといけないような人間関係も、なるべく避けるようにしていたのに。どうしてあの"十円女"のことが気にかかるのだろう。……三十三にもなってこれを恋の予感だなんて勘違いする気は更々ないが。


「考えるのやーめた。買い物だ、買い物行こう」


 奮発してやる、と誰に向けているのか分からない対抗心で出掛ける準備を始めた。久し振りの買い物でも気に入っている服がないわけじゃない。押し込められたクローゼットの中で一番洒落たやつを選別する。こうなったらナンパも予定に入れてやる。しばらく放置していたシルバーアクセサリーも身に着けて、戦闘体勢を整えていく。三日ほど伸ばしたままの髭も綺麗に剃ると、うん、悪くない。玄関でいい靴がないことに気が付いたが、叩いて埃を払えばそれなりになる。出先でいい物に出会えば買えばいい。本当に何かと戦うような気持ちで、行ってきますと声を上げた。




 小一時間、以前よく行っていた店を回って一式、いや二式くらい揃えることができた。真新しい靴は履き心地が良くて、普段は絶対にしない散歩に興じてみたくなる。昼も過ぎたところだし、飯屋を探しがてら歩いてみようか。

 晴れた休日の遊歩道はいつもの通勤ルートにはない爽やかさがあった。太陽の光を受けて光る川は「まるで宝石」と大袈裟に歌っても許されそうだったし、土手でいちゃつくカップルに「お幸せに」と声をかけるのが善のような気さえしてくる。ひとりぼっちで川を眺める女性にはそっとハンカチを渡すのが礼儀だろうか……。

 反射的に引き返そうとした足を止めてしばらく逡巡した後、気持ちを落ち着けるための咳払いをして近付いていく。何を言うかは考えていない。それでもとりあえず隣に座ってみた。不思議そうな顔でこちらを見たその人は、あっと小さな声を漏らした。


「ども。こんなとこで何やってんすか?」


 当たり障りなく、同じアパートの住人としての心持ちで話しかけた。自然な感じが出せただろうか、ちらりと見た表情に拒絶の色は見えなかったから少しは話ができそうだ。


「昨日は引っ越しの作業で手一杯だったので、今日は近所を歩いてみようと思って」

「昨日入居だったんすね。俺、全然知らされてなくて」

「もしかしてご迷惑かけたんじゃ」


 そういう意味ではないと首を振る。大抵何でも前もって知らせてくれる大家さんが何も言ってくれなかったことへの不満なのだと言うと、わずかに安堵したらしい。笑うと可愛くなるが、まだわざとらしさが残っている気がした。

 呼び掛けようとしてまだ名前を知らないことを思い出す。流石に本人を目の前にして"十円女"と呼べるはずがない。そんなことになれば俺の方も、昨日の醜態を引き合いに出される可能性は大きい。できるなら抹消してほしい記憶だった。


「俺、金山っていいます。金の山が流れるって書いて、金山流(かなやまりゅう)。お名前聞いてもいいすか?」

「はい。新しい川の未来で、新川未来(あらかわみく)です」

「それで土手に座ってこの川の未来を案じてくれてたんすね」

「金山さんが毎日一つゴミを拾えば、この川は安泰でしょう」

「俺かよ!」


 意外にも冗談に乗ってくれて、昨日とは違う一面を垣間見る。まだ出会ったばかりで知らないことの方が当然多いのだけど、悲しい顔や不安定な笑顔だけでないと分かって安心する。こうしてちゃんと声を上げて笑ってくれると、会話する意味を感じられる。

 思えば友達は大抵結婚したり仕事の都合で会えなくなってだんだんと疎遠になったし、職場の同僚と仕事以外の話をすることもほとんどなくなっていた。大家さんやばあさんと話すのだってそんなに頻繁ではない。誰かと冗談を言い合うのってこんなに楽しかったっけ?


「折角だし、お近付きの印に食事でもどうっすか?」


 もう少し話をしてみたくてそう提案した。が、迷う素振りを見せる。もしかしてナンパだと思われているのか。三十過ぎの男が頑張っちゃってるとか思われてる? 下心なく純粋な気持ちで知り合いたいと思っただけなんだけど。そう思っていると、新川さんが動き出す。こちらからは見えなかった身体の向こうから大振りのトートバックを取り出すと、その中から答えを迷わせる原因を示してくれた。


「弁当を作って出てきちゃったんです、天気が良かったので」

「でもそれ、一人で食べるんすか? っていうか、その量一人分?」


 聞くと恥ずかしそうに苦笑いを溢して、作りすぎちゃってと言う。そんなこともあるか、とは思わない。作り過ぎてもわざわざ全てを詰めてくる必要もない。自分が食べるだけを入れてくれば良かったんだ。それなのに出てきたのは明らかにふたつの弁当箱だった。ピンクと水色の、夫婦茶碗のような配色で。それは初めから食べさせる相手が決められているように思えた。

 危ない、踏み込んではいけない陣地だったらしい。


「そっか、俺お邪魔っすよね。彼氏さん待ってたわけだ。まぁ上の階ってことで良かったら共々仲良くしてやってください」


 後から来た彼氏に誤解されて一悶着なんてごめんだ。この際ナンパだったと思われてもいいから早いとこお暇しようと立ち上がった。しかし新川さんがそれを制す。またあの泣きそうな顔を一瞬だけ見せるから、言葉がなくても思わず動きを止めてしまうんだ。瞬きをして見返した時にはもう表情は変わっていて、胸の中がざわざわする。


「もしお嫌でなければこれ、消費してもらえませんか?」

「でも……」

「お恥ずかしいんですけど、間違えて二人分作っちゃったんです。もう、ふたつ用意する必要ないのに」


 ひとつの恋が既に終わっていることを知ることになった。そしてそれがこの人にとってはまだ終わっていないことも。

 だから俺はすぐさま元の位置に座り直して、お言葉に甘えて、と元気よく手を出したのだ。



「うまっ! 料理上手なんすね」

「金山さんこそお上手(・・・)ですね?」

「いやいや、久しく美味しい手料理なんて食べてないんで、胃が踊ってますよ」


 お世辞でもなんでもなく、素直な感想として美味かった。こういうことは比べるものじゃないが、前の彼女より数段上だ。あれを我慢して食べていた頃を思うと、この味に涙も滲んできそうになる。毎食のコンビニ弁当がこれに変わったら夢のようだな。

 俺を気遣ってか、敬語じゃなくていいですよと告げられた。相手は女性だし昨日のこともあってあまり気安くしない方がいいかと思ったが、そう言ってもらえるなら助かる。年下の女性とどんな風に接したらいいか、いまいち掴めないでいたんだ。そんなことを言うと、意外だと返されてしまった。


「何、俺ってチャラく見える?」

「そういうんじゃないんですけど、今日の雰囲気からすると誰とでもフランクにお話しできる方なのかと思ったので」


 つまりチャラくはないが軽そうには見える、ということなんだろうな。そう思われても特に不都合があるわけでもないが決して嬉しくはなくて、今日だけ頑張ってんだ、と白状しておいた。すると堪らないという風に笑うものだから、摘み上げた卵焼きをもう少しで落とすところだった。

――もっとちゃんと知り合っていけば、素直に笑ってくれる日が来るんだろうか。

 その心の中で失恋が尾を引いているのは言うまでもない。だけどそれは本人が乗り越えていくしかないものだ。失恋を癒すのは次の恋だと言うが、そこに名乗り出たいと思うほどで図々しくはない。少しずつ笑う顔が可愛くなっているとは思うけど、まだそこまで。傷が深いなら安易にそこに触れるのはとても、面倒だ。


「まじで美味かった。ご馳走様でした」

「お粗末様でした。喜んでいただけて良かったです」

「醤油切らしても貸してあげられないけど、作り過ぎたのはいつでももらってあげるよ」

「ふふ、助かります」


 念のためにと仕事の終わり時間を聞かれたから、いつも昨日と同じくらいだと答えた。十円玉のことを思い出してしまうかと思ったが、それに関しては表情ひとつ変わらなかったからそっと息を吐いた。

 深く突っ込んで聞くのは憚れるから、鈍感なふりをして冗談に変えていこう。そう思うのに俺の気遣いを知ってか知らずか自分から爆弾を投げてきた。


「本当に助かります。まだしばらくは作り過ぎちゃいそうなので」

「ああっと、そう……」


 俺の様子に気が付いたのか謝られた。そこで謝らなくていいからと言おうとして、口を噤む。違うな、なんか。故意にだとしてもそうじゃないとしても、思わず口から出たものなら本当は吐き出す場所を探してるんじゃないか。言いたいけど誰にも言えなくて、引っ越してきたのもそんな理由で。まだ二十代半ばだろう、華奢な身体の中に色んな思いを抱え込んでいるのかもしれない。それはどこかで吐き出さないとつらくなったりするんじゃないだろうか。……あぁ、面倒だな。


「もし誰にも話せなくてつらいなら、俺聞くよ?」

「え?」

「何の事情も知らない人になら話せることもあるだろうし、全面的に新川さんの方を支持して慰めることもできる、必要なら。

 それで全部の不安分子が取り除けるなんて思わないけど、一ヶ所くらい吐き出せる場所作ってもいいんじゃないかと俺は思うよ」


 面倒だ、他人の色恋沙汰なんて。首を突っ込むものじゃない。そう思っていたはずなのに吐き出せる場所になんてなろうとしているのは、久々にした無駄な会話がいやに肌触りが良かったからなのかもしれない。

 昔から肌に触れて心地良いものは好きだ。ずっと触っていたくなる。機嫌がどんなに悪くても一番気持ちいい毛布に包まればぐっすり眠れて機嫌が直ったし、どんなにぐずっても抱き心地のいいぬいぐるみを渡されればいい子になった。もちろん会話とそれらがイコールになるとは思わないが、実感としては確かに同じような満足感が胸の内に広がっていた。

 面倒だ、こんなの。誰かの気持ちを考えたり自分の心情に気を回したり。そんなの久し振り過ぎて。


「ありがとうございます。でも大丈夫です。自分で解決していくしかないことですから」


 そう答えた顔を俺はじっと見つめた。細められた瞼の隙間から感情が零れ落ちそうな気がしたから。だけど実際は、俺は必要ないと突っぱねられただけだった。

 そりゃそうだよな、昨日会ったばかりの得体の知れない男に話すのは憚られるよな。心の隅が萎むような感覚がして、ほんの少し舞い上がっていたようだと気付く。馬鹿らしい、こんなことならつまらない毎日の方が平穏だな。

 何か冗談を言ってこの場を紛れさせたいと思うのに、これといったものが浮かばなくて焦る。気まずくなるのは嫌だな、ご近所付き合いは続いていくんだから。

 でも、と続く声にまだ話が終わっていないらしいことを知る。思わず唾を飲み込んだのは、向けられた笑みが今にもほろほろと崩れそうに儚かったから。


「もし、どうしようもないくらい重くて動けなくなったら、笑い飛ばしてもらえますか?」


 俺はただ呆けた顔をして、頷くことしかできなかった。



 

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