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転がって来た十円玉を泥にまみれたスニーカーで止めたのには、特別な理由なんてなかった。手で追いかけるより早くて確実だったし、あんなに真っ直ぐ向かって来られたら無視するのも難しいじゃないか。十円ぽっち、自分のものにしてやろうなんて気も更々なかったし、だから特別な理由なんて少しもなかったのだ。
だから、だろうか。手を伸ばしたその人の、人生も終わりというような悲愴な面持ちに口篭ってしまったのは。
「あ、……えっと、その」
「ありがとうございました」
足を引くと、泥に撫ぜられた十円玉が拾われた。親指で拭いながら立ち上がったその人は、先程の表情なんてなかったようににこりと微笑んで、長い髪を騒がせながら頭を下げて去っていった。
取り残された俺はというと、とてつもなく悪いことをしたような気になってきてしばらく呆然と立ち尽くしていた。だけどコンビニの自動ドアの前は場所が悪く、明らかに邪魔だと訴える視線が幾つか俺の横を過ぎて行って、やっとのことで我に返る。家までの道中を歩き始めたが注意は散漫として、電信柱に二度ほどぶつかることになった。
*****
独り暮らしの部屋にただいまと投げかけなくなったのはいつからだったろう。玄関には乱雑に並ぶ二足の小汚いスニーカーと傷だらけのサンダル。その中に捻じ込むように足を入れると小さな玄関はそれだけで埋まってしまう。ドアを隔てたワンルームに続く短い廊下には、今朝洗濯機に入れ損ねた黒いTシャツが転がっている。風呂に入る時でいいかとそのままにして半開きのドアを押した。手探りで壁のスイッチを押すと白い光が点滅もせずに部屋中を照らす。ふと考えて昨日電球を変えたのだと思い至る。どおりで見慣れないわけだ。
体温の篭った作業着を脱ぎ去って、万年床に転がるジャージを履いた。着ていた白いTシャツは汗まみれで、しかし着替えるのも面倒だから脱いで作業着の上に投げる。上半身裸のままどかりと座椅子に腰を下ろした。
独りで過ごすことに慣れてくると、汚さへの感覚も薄れてくる。特に毎日作業着を汚す工場仕事をしていると、気にするのも億劫だ。世話してくれる彼女も居ないし、連れ込むような女も居ない。休みはひたすら寝て過ごす生活をしていれば、掃除の概念は消えていくものだな。テーブルに残っていたビールの缶は少し重くて、ただの苦くて不味い水に変わっていた。
体勢を変えれば余裕で冷蔵庫に手が届く。部屋が狭いのはもちろんだが、手足の長さをこんなことにしか役立てられないとはな。中から新しい缶を取り出して、そんな風に自分を揶揄しながら飲む酒は結局大して美味くなかった。
「はぁー」
身体の内側に溜まっていく疲れが出ていけばいいと声に包んで吐き出してみるけど、酸素を吸わないわけにはいかなくて、呼吸する度にまた吐いた疲れを取り込むから意味がない。肺が重い。掃除をさぼってるからとか換気をすればいいとかそういうことじゃなくて、近頃の俺が吐き出す溜息はひどく、淀んでいる気がする。
なんだかな、最近こんなことばかり考えている、それも不毛な。特別何かがあったというのでもない。むしろ随分と何もない。朝起きて、仕事行って、飯食って、酒飲んで、疲れを纏ったまま寝る。そんな決まりきったサイクルの中に取り入れるものもなければ、好き好んで入り込んでくれるものもない。馬鹿みたいに一辺倒で、どうしようもなく下らなく見える毎日は、何のために生きてるか判らなくなる。こういうの、なんて言うんだっけ。
「つまんねぇな……」
そう、そうだ。「つまらない」んだ。ぽつりと自分の口から落ちた言葉に気付かされる。同じことばかり繰り返してはこうして美味くもない晩酌に耽る俺は、世間的に見れば落ちこぼれなんだろうな。……いや、みんな意外と似たようなもんかもしれないけど。
そうしてまた、ビールを呷る。独りで飲む酒に求めるのは喉を通る軽い刺激だけだ。できるだけ強いものを選ぶけど、慣れてしまえば気の抜けた炭酸みたいなもの。二十歳になったばかりの頃は、こんなの飲める気がしないって思ってたのに。
座椅子の背に首まで預けると電球の白い光が目に刺さる。前の黄色っぽい光の方がいいな、あれは直接見ても目に優しかった。古い安アパートに標準装備されていた照明は剥き出しの電球に粗末な笠が付いただけの年季もの。他の住人はそれなりのものに変えているのだろうが俺はそこに何のこだわりもなくてそのまま使っている。しかし電球の選択は間違ったな、安売りに釣られたのは間違いだった。
視線を動かしても追いかけてくる白に気分が悪くて、逃げるようにベランダに出た。緩い風が直接肌をなぞっていく。夏でも夜風は涼しくて、どこかから聞こえる風鈴の音が一層涼を感じさせてくれた。
視界で布が揺らめいて、腰を落ち着ける前に取り込んだ方が良さそうだと手を伸ばす。この一週間は晴れ続きで洗濯物を溜め込まずに済んでいる。毎日していないとすぐに着るものがなくなるというのもあるんだけど。腕に引っ掛け、手に掴んで、代え時を見失って酷使されているよれた洗濯物を見下ろす。そろそろ買い物にも出かけた方がいいだろうか。
ふと視線を上げると、向かいのマンションに目がいく。距離はあるが、五十階建てと聞くマンションは流石の存在感だ。たったの三階建てに住む俺とは雲泥の差だが、その中に明滅する赤い光を見つける。どんなにいいマンションに住んでいたってホタル族が生まれるのだから、やはりこっちもあっちも大して変わらないんだろうな。
侘しくはあるが多少の慰めをもらって、明日の休日は久し振りに活動日にしようと決心する。掃除と、それから買い物だ。代わりにやってくれる人を見つけるためにも小綺麗にするとしよう。そういえば大家さんのとこのばあさんが俺に紹介したい人がいるとか言ってたし、いざその時のためにも。
珍しくやる気が湧いてきたため中に入ろうとしたところで、コツンと何かがぶつかる音が耳に届いた。いつもなら気にも留めなかっただろうに無性に気になって、柵に身体を押し付けて下を覗き込む。確か下の部屋は空室だったはず。ここは角部屋だから考えられる軒数は少ない。でも一階の音にしては近かったし、隣やその下という感じでもなかった。だけど真下は空室……。
「あーあ、割れちゃった。引っ越し早々ついてない」
か細い声が聞こえてきて思わず肩を揺らした。そしてその言葉を脳内再生した後、そこが空室でないことを知った。
引っ越し早々、ってことは昨日か今日入居したのだろうか。日中引っ越しの作業が済んでしまえば俺に知る術はない。ご近所付き合いを望んでいるわけでもないし挨拶回りは期待していない。が、下の部屋ならせめて伝えておいてくれたら良かったんじゃないか、大家さん?
何となく興味本位でまだ下を覗き込んでいた。どんな人なのか、その雰囲気でも知れるかもしれないと思ったからだ。それは別に女の声だったからとかではなくて、明らかに野太いおっさん声でも同じようにした、と思う。多分。
すると、にょきと細腕が薄闇の中に伸びた。隠すもののないそれは細くて、白くて、久しく女っ気のない心に包容力なるものを芽生えさせる。引き続き見ていると、手に持った鉢植えらしきものをぱたぱたと空で払い始めた。土でも落としているのだろう、割れたのはその鉢のようだ。
もう少しで顔が見えそうなのに。正式に対面するのはいつになるか分からない。自分の顔をそれほど悲惨だとは思っていないが、どうせなら知られる前に知っておきたい。そう思って、伸びた腕をずずずと追いかけていたが。
「あっ」
「えっ?」
まだ抱えていた洗濯物の中から一つ、重力に負けて落下していった。それは丁度その人の伸ばした腕に引っかかって止まる。良かった良かった、下まで落ちてもう一度洗う羽目にならなくて。……じゃない。あれは俺の、俺の。
「パンツ?」
「す、すんません! 洗濯物入れてたら落ちちゃって! すぐ取りに行きますんで!」
「あ、はい」
恥ずかしすぎて見上げられた顔を見ることもしないで部屋に引っ込んだ。これから顔を合わせるんだからそんなことに意味はないんだけど。とりあえず向かおうと思い洗濯物を投げたところで、上に何も着ていないのを思い出す。危ない、トランクスを落とした上に半裸で行ったら変質者扱いだ。寝間着代わりのジャージを羽織ってチャックを締めれば大丈夫だろう。サンダルを突っかけて急いで玄関を飛び出した。
それにしてもTシャツならまだしも……よりによってキャラものだよ、しかも前の彼女が買った可愛い系の。羞恥に動揺して階段を踏み外しそうになったのは言うまでもない。
ドアの前に立って、悩んではいられないとインターフォンを押した。どんなに優しく押しても音量が変わるはずもなくて、きっちりとした聞き慣れた音が中から漏れ聞こえてくる。はぁい、と軽い返事が聞こえて、ドアが開いた。
出てきたのは、コンビニで遭遇した"十円女"だった。
「はい、どうぞ」
「え、あ、どうも……」
瞼まで下りていた前髪を今は髪留めで上げていて、つるりとした額が見えている。ノースリーブで丈の長いワンピースは下に行くにつれて濃くなる青のグラデーションで、外では長袖のカーディガンを羽織るのだなと頭の中で比べていた。
「可愛いですね」
「へ?」
「最近は男性ものの下着も可愛いですよね」
そう言われて受け取っていたそれを見る。くるんと綺麗に畳んでくれたらしく、愛らしい顔のキャラクターが上目遣いに俺を見つめていた。どうしてこんな夜更けに女性の部屋を訪ねているのか、その原因を思い出すと、顔にかっと熱が集まる。しかしその相手がこの人だと思うとそれも一気に引いていき、どちらの感情に集中していいか戸惑ってしまう。一先ずその手を背中に回して隠すと頭を下げた。
「あの、本当に申し訳ない、です……」
「いえ、そんな気にされるようなことでは」
「こっちじゃなくて、さっきの十円玉の話で」
勘違いを訂正すると、大きくはないが下がる目尻が柔らかい印象を与える目が、驚きに形を変える。どうやら気付いていなかったらしい。確かに拾う時には十円玉だけを見ていたし、礼を言われた時も目が合っていたかは定かではない。あんなに悲しい顔をした後では踏み付けた相手の顔は見たくなかっただろうか。気付かないままにしておいた方が良かったかと、所在なく後ろ首を掻いた。
そんな俺に、その人は首を振る。礼を言われた時よりも自然に見える表情で、いいんです、と笑って見せた。
「汚れは洗えば取れますし」
「そういう問題じゃ……」
だってあの顔は、ただ十円玉を踏まれただけとは違う、もっと重い感情が込められていたように思う。気にしなくていいとこの人が言うのは、他人に話したくない何かがあるということなのかもしれない。それならしつこく尋ねるのは最低なことかもしれない。十円玉を踏んで止めるよりももっと。
引き下がろうと口を開けたところで、思わぬ言葉が返ってきた。
「むしろこれで吹っ切れそうです。ありがとうございます。では、おやすみなさい」
――吹っ切れる、何を?
疑問を浮かべている間に目の前でドアは閉まって、俺はまたひとり取り残された。不可解で、だけど知りようもなくて。おやすみなさいと小声で返してその場を後にすることにした。