Dream.03 睡眠欲vs食欲 〈1〉
赤槻高校一階、職員室前廊下。
生徒も少ない朝の早い時間、人気のない廊下に経ち尽くし、じっと廊下の壁を見つめているのは硝子の姉であり、この高校の保険医の曜子であった。今日も白衣の下から美しい足を覗かせている。
「あ、曜子先生~!」
そこへ昇降口から硝子たちの担任である体育教師、花崎がやたらと笑顔でやって来る。
「こんな所でどうなさったんですか? はっ、まさか僕が登校してくるのを待ってたりしてくれちゃってたりなんかっ……!」
「花崎先生」
浮かれきった花崎の言葉をあっさりと遮り、曜子が花崎の方を振り向く。
「金曜の放課後、ここの壁に大穴あいてませんでした?」
「はぁ?」
曜子の問いかけを聞いた花崎が大きく首を傾げる。
「いいえぇ。部活動終わった後に通りましたが、穴なんてこれっぽっちもあいてませんでしたよ」
「そうですか」
あっさりと頷く曜子に、また花崎が首を傾げる。
「何か気になることでも?」
「いいえ」
問いかけた花崎に、曜子がすぐに笑顔を向ける。
「夢だったみたいです」
「夢?」
「ええ」
聞き返した花崎に、曜子が大きく頷き返す。
「よく見るんですよ、建物が壊れたり、大きな動物が暴れたりする夢を。最近は特に」
含むように言葉を落として、少し表情を曇らせる曜子。
「へぇ~、結構パワフルな夢を見るんですねぇ。僕なんかしょっちゅう曜子先生が夢にっ……!」
「では、失礼します」
「あ、あれ? 曜子先生?」
締まりのない笑みで自分の夢の内容を話し始める花崎をあっさりと受け流し、曜子が保健室へと戻るべく廊下を進む。
「夢、ね」
そっと呟き、曜子は自嘲するような笑みを浮かべた。
二年D組一時間目、数学。
「寝てない」
「寝てないな……」
「寝てないわ」
数式の山程書かれた黒板よりも生徒たちの注目を浴びているのは、窓際一番後方の席に座る朝海であった。今日も目の下にくっきりと隈が刻まれているが、いつもにも増して青黒く見える。頬はこけ顔色も悪く、今にも倒れ込みそうであった。
だが皆は朝海の体調を心配しているわけではなく、朝海が起きていることに興味を持っているのである。 転校してきて十日あまり経つが、授業中朝海が起きていることなど初めてであった。寝ていることが当たり前と認識し始めたクラスメイトにとって、起きている朝海はとても興味深いものなのである。
「寝ていない」
数学教師の眼鏡の中年男も、授業にまったく集中出来ていない生徒たちを注意するどころか、初めて見る起きている朝海に驚きを隠せていなかった。
「あ、あぁーでは折角なので日下部君、この問題を前に出て解いてもらおうか」
「えっ……?」
教師から指名された朝海が、気だるげにゆっくりと顔を上げる。
「すみません。眠すぎて体動かないんで、黒板まで辿り着けそうにありません」
『ええぇー!?』
朝海の予想外の答えに、教師をはじめ生徒たちからも驚きの声があがる。
「く、日下部君、そんなに体調悪いんなら、保健室でちょっと休んで来たらどうだいっ?」
「保健室までも行けそうにありません」
「だったらもう、授業寝ててくれていいよ!? 先生、もう構わないよ!?」
独特な朝海の空気にすっかり呑まれた数学教師が、自棄とも思える様子で叫ぶ。
「はぁ。あっ……」
教師の言葉に頷くのもしんどそうに答えた朝海の机の上から、小さな消しゴムが転がり落ちる。丸みを帯びた消しゴムはそのまま床を転がり、朝海の隣の席に座る硝子の足元までいってしまった。
落ちた消しゴムに気付き、そっと手を伸ばす硝子。
その硝子を見て、朝海が少し気まずそうな表情を見せる。
「はい」
硝子が拾った消しゴムを朝海へと差し出す。
だがその視線は前方を向いたままで、少しも朝海を見ようとはしていなかった。
「あり、がとう」
向けられない視線に力なく肩を落としながら、朝海が消しゴムを受け取る。
――――今度また硝子を傷つけてみろ。私が真っ二つに斬り裂いてやる!――――
灯子が朝海へと怒りを見せたあの日から、三日の時が流れていた。
※※※
その日、昼休み。
「うっわ、今日は一段とすっげぇ隈っぷりだな!」
購買のパンを片手にD組の教室へと現れた晃由が、朝海の顔を見て思わず表情を引きつる。
一時間目から昼休みまで、すべての授業を眠ることなく受けた朝海は、朝よりもさらに顔色を悪くしていた。医者が横を通り過ぎたら呼び止めるレベルのやつれ具合である。
「何時間寝なかったら、んな顔になるわけ?」
「ざっと六十七時間」
「六十七時間ねぇー。ってお前まさか、この土日一睡もしてねぇの!?」
頭の中で計算を行った晃由が、噛んだばかりのパンを引っこ抜いて驚きの声をあげる。
「っつーか金曜に夢喰倒してから、寝てねぇってこと!?」
「ああ、そうだ」
「馬っ鹿でー」
呆れた表情を見せながら、晃由が空いていた硝子の席へと座る。
「あれで朝力結構使い切ったんだろ? 寝ないと回復しねぇーじゃん。また夢喰が出たらどうすんだよ」
「何回も寝ようとしたけど、寝れなかった」
机に肘をついた右手で重たい頭を支えながら、朝海が活力のない声を落とす。
「何て言って謝ろうかって考えていたら、寝れなかった……」
朝海のその言葉に一瞬戸惑いの表情を見せた晃由であったが、すぐに誰への謝罪なのかに気付くと、今度は驚いたような表情となる。
「ふぅーん。で、考えた末の言葉は硝子ちゃんに言えたのかぁ?」
「目が、合わないんだ」
「はっ?」
返って来る全然違う答えに、晃由が首を傾げる。
「全然、目が合わないんだ。消しゴム二十回落として二十回拾ってもらったのに、二十回とも目が合わなかった」
「二十回も落とすか? 普通」
話の別のところに引っ掛かりを覚え、晃由が呆れた顔を見せる。
「目が合わなきゃ、謝れない……」
いつになく落ち込んだ様子で言葉を落とす朝海を見て、そっと肩を落とす晃由。
「困ったもんだね」
溜め息交じりに呟くと、晃由は再びパンを頬張った。
「はぁー、満腹満腹」
「五時間目の現国、絶対眠くなっちゃうねぇ」
その頃硝子は、朝海と同じD組の教室内の前方の席で麗華や他の数名の女子と固まり、弁当を食べ終わっていた。後ろを気にしながらも実際にはなかなか振り返ろうとしない、見ていてどこかもどかしい動きをしている硝子に、麗華が少し眉をひそめる。
「今日はクマ野郎のこと、全然見ないのね」
「え?」
鋭い麗華の言葉に、硝子が思わず表情を曇らせる。
「クマ野郎もちょっと変だし、いやいつも変か。まぁでもさらに変だし、何かあった?」
「ううん、別に何もないよ」
柔らかく微笑んだ硝子が、麗華の問いにすぐに首を横に振る。
「ただ私が、嫌われたくないだけ……」
「硝子?」
すぐ隣の席に座っていてもはっきりと耳に入って来なかった硝子のか細い声に、麗華が首を傾げる。
「浅見さん」
「へ?」
後方から声を掛けられ硝子が振り向くと、そこには神妙な表情を見せた水無月が立っていた。
「水無月、君?」
「今ちょっといいかな?」
「あ、うん」
真剣な表情で問いかける水無月に、戸惑いながらも頷く硝子であった。