Dream.02 この愛を受けとめて 〈1〉
硝子のクラスに不思議な転校生、日下部朝海が転校して来てから、数日が経っていた。
二年D組一時間目、体育。
「ぐぅー、ぐぅー」
クラスの男子生徒がグランドのコート内を駆け回る中、今日も目の下にくっきりとした隈を刻み込んだ朝海がサッカーゴールの前に立ち、そのままの状態で熟睡している。高い身長が、緑色のジャージ姿になると余計に際立って見えた。何度か揺らめき体が前のめりになるが、倒れるところまではいかずに戻って来る。その動きがひたすら繰り返されていた。
「おい、あれでいいのか? 転校生」
「起こしても起きねぇんだから仕方ねぇだろ。寝たまま出来んのなんかキーパーくらいだし」
朝海と同じ色のゼッケンを身に付けた男子生徒等が、後方の朝海の姿をチラチラと振り返りながら、どこか不安げに言葉を交わす。生徒たちを指導する体育教師の花崎はD組の担任でもあるため、どれほど起こしても朝海が起きないことはすでに把握しており、一応ゲームに参加していることもあってか、特に注意する様子は見られなかった。
「あ、ヤベ!」
味方チームの生徒等が朝海に気を取られているうちに、敵チームの生徒にボールを取られる。敵チームが素早くパスを回し、ゴール前に控えていた風紀委員の水無月までボールが渡ると、水無月が朝海の守るゴールへと勢いよくシュートを放った。
ボールはまっすぐに朝海の顔面目がけて飛んでいく。
「行ったぞ、転校生!」
味方の生徒が朝海へと声を掛けるが、その声に朝海が起きることはなく、ボールはそのまま勢いよく朝海の顔面へと直撃した。
「うわ、強烈っ」
響き渡る衝撃音に、敵も味方も関係なく皆が思わず表情を歪める。
皆が見守る中、見事に朝海の顔面にガードされたサッカーボールが静かにグランドへと落ちた。
『えっ!?』
「ぐぅー、ぐぅー」
明らかにボールが当たった様子で顔面を赤く腫れ上がらせながらも、朝海は目覚めることなくその場で眠り続けていた。
「何かあいつ、すげぇ」
「ああ、確かにすげぇ」
男子生徒が何故か感心した様子で次々と頷き合う。
「…………」
そんな男子の体育の様子を、すぐ横のコートで見つめているのは硝子であった。紺色の短パンから伸びた足を折り畳み、体育座りで未だ眠る朝海を観察している。
女子の授業はハンドボールだが、今は他の生徒たちが試合をしていて硝子は休憩中であった。
「まぁ~たクマ野郎?」
硝子のすぐ横から顔を出した麗華が、しかめっ面で硝子の視線の先を見る。
「普通見るならあっちでしょ?」
麗華に両手で頬を挟まれ、顔ごと無理やり視線の向く先を変えられる硝子。
顔を向けられたその先には、他の生徒たちと笑顔で言葉を交わす水無月の姿があった。
「あ~惜しい、水無月君! もうちょっとでゴールだったのにぃ」
「でもやっぱりカッコいいよねぇ」
他の休憩中の女子生徒も皆、水無月へと視線を向け、ひそひそと黄色い声を発していた。
「私も水無月君はカッコいいと思ってるよ」
「だったら素直にあっち見てなさいよ。あんなクマ野郎に熱い視線送ってないでさぁ」
麗華が硝子の頬から手を離し、呆れたように肩を落とす。
「いっくら隣の席だからって、あんな変な奴、気にかけてやる必要ないんだからね?」
「別に隣の席だから気になってるわけじゃないよ」
「気にはなってるんだ」
硝子の言葉を聞いた麗華が、さらに呆れた表情となる。
「硝子って意外と趣味悪かったのね」
「そうかなぁ」
麗華の言葉に首を捻りながら、硝子が隈のなくなった朝海の姿を思い出す。隈の消えた朝海は鋭く突き刺すような、だがとても優しげな瞳で、目が離せなくなるほどの魅力があった。
「結構普通だと思うけど」
「どこがっ」
「ねぇ、聞いた? A組の由香里の話」
他の女子たちの会話が耳に入り、硝子と麗華が同時に声の聞こえてきた方を振り向く。
「先週、水無月君に振られて以来、学校来てないんだって」
「うっわ、悲惨」
「だからって何も学校休まなくてもいいじゃんねぇー、クラスも違うんだしさぁ」
「水無月君、知ってるのかなぁー?」
次々と聞こえてくる女子たちの物好きな噂話を耳に入れながら、硝子が少し考えるように眉をひそめる。
「モテる人はモテる人で大変そうだね」
「そうそう。私もすっごくモテちゃって困ってるわぁー」
「アハハ」
どこか得意げに頷く麗華に、硝子が乾いた笑みを零す。
「おぉーい、保健委員! 日下部を保健室まで運んでやれー!」
聞こえてくる花崎の声に、硝子が再び男子たちの居るサッカーコートを見る。
「血が出とる。寝たまんまだが」
「うわ、マジだ」
「すっげぇ。痛覚ねぇのかなぁ?」
皆に興味深く視線を向けられた朝海の赤く腫れた鼻から、ボタボタと鼻血が落ちてグランドを汚していた。
二十分後、赤槻高校保健室。
「よし、治療完了っ」
白衣を着た女性が、満足げな笑みを零す。少し癖のある茶髪を後ろで一つに束ねた、まだ若い女性。二十代半ばくらいだろうか。少し垂れ目でおっとりしていそうに見えるが、目鼻立ちのくっきりとしたなかなかの美人保健教諭だ。薄いピンクの口紅が塗られた口元のすぐ傍にあるホクロと、白衣の下から覗く程よい肉付きの白い足が女子高生にはない色気を醸し出している。
「それにしても起きないわねぇ」
椅子から立ち上がった女性の前には、丸椅子に座ったまま寝こけた朝海の姿があった。腫れ上がった鼻の上にデカデカと湿布が張られている。
「お姉ちゃん」
「あ、硝ちゃん」
保健室の扉が開くと、ジャージから制服へと着替えた硝子が姿を見せた。
「どう? 手当て終わった?」
「ああ、この子? もう大丈夫よ、鼻血も止まったから」
「良かった」
女性の言葉に、硝子が安心した様子の笑顔を見せる。
女性の名は、浅見 曜子。この赤槻高校の保健教諭にして、硝子の実の姉である。
「保健教諭になって結構経つけど、熟睡したまま保健室に運ばれてきた怪我人は初めてだわぁ。治療中も一切起きないし」
「治療くらいじゃ起きないよ。サッカーボールが顔面に当たったって寝てるのに」
少し呆れたように言い放つ曜子に対し、保健室に入って来て朝海の顔を見ながら困ったような笑顔を見せる硝子。そんな硝子の様子を、曜子がまじまじと見つめる。
「硝ちゃん、意外と趣味悪いのねぇ」
「麗華ちゃんと同じこと言わないでよ」
曜子の言葉に、硝子が不満げな表情を見せる。
「同じクラスの子?」
「うん、先週転入して来たの」
「ああ、転入生か。どうりで見覚えないわけだわ」
納得したように手を叩きながら、曜子が机の方へと歩いていく。
「丁度良かった。この子の名前教えてくれない? 本人に聞けないから困ってたのよ」
机の引き出しから記録用紙を取り出し、曜子が硝子へと問いかける。
「あ、うん。日下部朝海君だよ」
「日下部……、日下部?」
朝海の名前を書こうとした曜子が、何か引っかかりを覚えた様子で手を止める。
「日下部、朝海?」
「うん」
そんな曜子に戸惑いながらも、聞き返された硝子が頷く。
「どうかした?」
「え? あ、ううん。別に何でもない」
問いかけた硝子にすぐさま首を横に振ると、曜子は記録用紙への記入を続けた。
「それにしてもお姉ちゃん、相変わらず手当て下手だね」
「そうかしらぁ? 今回は結構上手くいったと思ったんだけれど」
朝海の鼻の上に貼られた明らかにサイズの大き過ぎる湿布を見て、硝子が少し呆れたように肩を落とす。その時、保健室にチャイムの音が響く。
「あ、次理科室で実験なんだった。行かなきゃ。日下部君はどうしよう?」
「後で花崎先生に教室まで運んでもらうわ。熟睡したまま実験室行って、何かあっても困るでしょう? 理科の先生に伝えておいてくれる?」
「うん、わかった。じゃあっ」
「しっかり学んで来てね」
軽く手を振り合うと、硝子が足早に保健室を後にする。保健室の扉が閉まり部屋に朝海と二人きりになると、曜子はおっとりとした笑顔を鋭い表情に変えて朝海を見た。
「日下部、か……」
曜子がそっと白衣を開くと、曜子の胸元に太陽に似た形の黒い印が浮かび上がった。刻まれた印は何かに反応するように、鈍く輝きを放っている。
「日の出が一体、こんなところに何の用なのかしら」
まっすぐに朝海を見ながら、曜子は少し憂鬱そうに言葉を落とした。
※※※
「んっ……」
少し隈の薄くなった朝海がゆっくりと瞳を開くと、そこには誰も居ない教室の景色が広がっていた。誰も居ない教室を見つめ、朝海が眠い中鈍い動きで頭を回転させる。
「放課後?」
「ブッブー、まだ二時間目でぇーす。ちなみにD組の皆は理科室で実験中~」
「晃……」
朝海の小さな呟きに大声で答えを返したのは、朝海の前の席に腰掛けた晃由であった。朝海が目を開いた時には丁度死角になって見えなかったようである。
「あ、ちなみにうちのクラスは数学で、俺はおサボり中ねっ」
「何か、痛い」
晃由の言葉など気にする素振りもなく、少し眉をひそめて自分の鼻を押さえる朝海。鼻の上には曜子が治療時に張ったデカデカとした湿布の感触があった。
「あぁー、腫れてんな。湿布デカ過ぎてよく見えねぇけど。どうしたの、それ」
「寝てたからわからない」
「相変わらず痛覚より睡眠欲が勝ってんのな」
朝海の答えを聞いた晃由が呆れた表情で肩を落とす。
「いくら昼間だからって、この学校来てから余計に寝過ぎじゃね? 前の学校の時はもうちょっと起きてたよな」
「この場所は、妙に寝心地がいいんだ」
晃由の問いかけに答えながら、朝海がまだ眠たげに机に広げた両手の上に顔を埋める。
「おいおい、また寝る気かよ?」
晃由の存在など気にかける素振りもなく再び眠りにつこうとする朝海に、晃由が慌てて声をかける。
「天井シャンデリアちゃんと映画デートする夢を見るんだ」
「見るって言って見れるかよ、んな贅沢な夢。ってか寝るなら俺の話聞いてから寝ろよ」
「数学の授業をサボるほど重要な話なのか?」
「あれから硝子ちゃんと何かしゃべった?」
晃由から硝子の名が出ると、顔を埋めていた朝海の頭がピクリと動く。
「別に何も。学校では基本寝てるし」
「その基本がそもそも間違ってるけどな」
素気なく答える朝海に、晃由が引きつった笑みを零す。
「なぁ、なんであの時、夢喰のこと誤魔化したりしたんだ?」
不意に真剣な表情となって、晃由が朝海へと問いかける。
「硝子ちゃん、いや灯子ちゃん? まぁとりあえず硝子ちゃんには日の出の印があった。あれは俺と同じ獏飼いの、お前の力となる者の証だ」
晃由の言葉が続く中、朝海がゆっくりと顔を上げていく。
「つまり、あの子は俺たちと関わりを持って生まれてきた人間ってことだ。あんな風に誤魔化して、遠ざける必要なんて」
「関わりを持って生まれたとしても」
晃由の言葉を遮り気味に、朝海が気だるそうな声を発する。
「関わりを持たなければ、他人のままだ」
朝海のその言葉を聞いた晃由が、わずかに表情を曇らせる。
「それは硝子ちゃんのためってこと?」
「ぐぅー」
「会話の途中で寝んなよ!」
答えの代わりに聞こえてくる鼾に、晃由が思わず突っ込みを入れる。机に突っ伏した朝海は深く目を閉じ、再び眠りについてしまっていた。
「こりゃまた当分起きねぇーな」
規則的に聞こえてくる朝海の寝息を聞きながら、少し困ったように肩を落とす晃由。
「さぁーて、いつまで他人のままでいられんのかね。お前たちはっ」
口元を緩めた晃由は、どこか先を占うように呟いた。
その頃、理科実験室。
「ガスバーナー点けるの、超怖いしぃ」
「あ、僕がやるよ」
「本当!? ありがとぉ~、さっすが水無月君!」
実験室の窓際後方のテーブルでは、水無月がかなり化粧の濃い女子生徒や他の数名の生徒と共に実験に取り組んでいた。率先してガスバーナーに手を伸ばす水無月に、化粧の濃いその女子生徒は浮かれた笑みを向けている。
「ガスバーナーよりあんたの顔の方がよっぽど怖いっての」
「聞こえるよ、麗華ちゃんっ」
隣のテーブルで化粧の濃い女子生徒へと言葉を吐き捨てる麗華に、同じテーブルで実験している硝子が小声で注意する。
そんな実験室を窓の外からじっと見つめる一人の女子生徒が居た。
赤い縁の眼鏡を掛けた茶髪の女子生徒は、まっすぐに水無月へと視線を送っている。
水無月が爽やかな笑顔を隣に座る化粧の濃い女子に向ける度に、その女子生徒は唇を噛み締め、上下の歯の音がぶつかり合う鈍い音を漏らした。
「どうして、私だけを見てくれないの……?」
水無月を見つめたまま、女子生徒が小さく声を落とす。
「どうして、私だけに笑いかけてくれないの……?」
<ソウダネ……>
「えっ?」
女子生徒の言葉に答えるように、どこからともなく聞こえてくる声。その声を耳に入れた女子生徒が、戸惑うように振り返る。だが振り返った先に人影はなかった。
「あれ……」
<ボクガ叶エテアゲル。彼ガ、君ダケヲ見ルヨウニシテアゲル>
「あっ……!」
女子生徒の体から発せられていく黒い煙。
<御夜棲魅……>
「きゃああああ!」
発せられた黒い煙は、一瞬にして女子生徒の体を包み込んだ。