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Dream.08 守れなかった夢 〈2〉

――――三年前、初夏。


「こら、日下部!」

「んんっ……」


 教壇の真ん前の席に突っ伏し、深く眠っていた朝海が響き渡る怒鳴り声にゆっくりと目を開く。中学二年の朝海はまだ背もそれほど大きくなく小柄で、表情にあどけなさを残していた。だが目の下に刻まれたくっきりと深い隈は今と変わらない。

 教壇に立ち、そんな朝海へと鋭い視線を向けているのは固く腕組みをした晴香であった。


「補習まで寝てどうすんのよ! 何のために放課後、一人で残ってんの。あんたはっ」

「ん……、睡眠時間を得るため?」

「睡眠時間は夜、お家で得て下さい! さぁ、補習続けるわよ!」

「ぐぅー」

「寝るなぁ!」


 晴香の言葉を聞くこともなくすぐに寝入ってしまう朝海に、再び晴香の怒鳴り声が響いた。


 この頃から常時、授業中は眠っていた朝海に対し、教育実習でやって来た晴香は他の教師のように放っておくことはせずに、毎日放課後朝海を教室に残しては、その日行った自分の担当教科の授業をもう一度、朝海のためだけに行っていた。

 すぐに眠る朝海を起こしながら行われる晴香の補習が完全に終わるのは毎日、日の暮れる時間帯となっていた。


「熱心だよね、先生も」


 晴香との帰り道、夕暮れに染まった空を見上げながら朝海が感心するように言う。


「もう二週間でしょう? さすがに嫌にならない?」

「そう思うんなら、ちょっとは起きて授業聞いてよね」


 問いかける朝海に晴香が口を尖らせる。


「何でここまでするの? そんなに俺に授業聞いてほしい?」

「そりゃそうよ。教育実習生でも今の私は“先生”だもの。生徒全員に一言一句漏らさず自分の授業を聞いてほしいわ」

「そんなの無理だよ」


 晴香の言葉を聞いた朝海が少し呆れた表情を見せる。


「無理でも無茶でもやってみせる、目指すは熱血教師よ!」


 まるでドラマのように、沈んでいく夕日を指差す晴香。そんな晴香の姿を見ながら、朝海が深々と肩を落とす。


「大丈夫、日下部。私があんたを絶対卒業させてみせるから!」

「俺、二年だから」


 熱く言葉を向けてくる晴香に、朝海は対照的に冷めきった声を返す。


「先生って、先生になることが夢なの?」

「もちろん。うちね、父親も母親も教師なの。二人ともとっても人気の先生で、今でも卒業生からわんさかお中元とか届くんだから」

「え、お中元目当て?」

「違うわよ。そりゃあお中元貰えれば嬉しいけど、私は両親のことをすっごく尊敬してるから、両親みたいな教師になりたいって思ってるの」


 突き抜けるように明るい笑顔で、晴香がはっきりと言い放つ。


「日下部は私にとって初めての問題児だからさ」

「問題児って……」

「誰よりも素敵な人になってもらいたいんだよねっ」


 晴香の満面の笑みに何も言葉を返すことが出来ずに、朝海はどこか気まずそうに俯いた。


「来週くらいは起きて授業聞いてよぉ? 私も実習最後なんだから」

「一日くらいならね」

「おい!」


 晴香と過ごす穏やかな夕暮れが後少なくとも一週間続くと、この頃の朝海はそう思っていた。



 だが数日後、晴香の純粋なその夢は、夢喰に喰われた。


<私ハ教師ダ! 生徒ハ全員、私ノ言ウコトヲ聞ケ!>

「う、うわああ!」

「晃……!」


 晴香の夢を喰らった巨大な黒い象は、その力強さで晃由と輝を圧倒した。晴香の夢により生徒を意のままに従わせる能力を持った夢喰を相手に、朝海と晃由はいつものような力を発揮することが出来ず、予想以上に苦戦を強いられることとなった。


「夜力が強過ぎる。このままじゃ俺には喰えねぇぜ、朝海!」

「夜力を抑えてみる!」


 晃由にそう言って、朝海が象へと両手を向ける。


「朝の光よ、彼の者の夜を鎮めよ!」


 朝海が金光を放って夢喰の夜力を抑えようとするが、象が纏った夜力はあまりにも強く、朝海の放った朝力の方が逆に呑み込まれてしまう。


<生徒ハ、私ノ言ウコトヲ聞イテイレバイイ!>

「ううぅっ……!」

「朝海!」


 完全に朝力を呑み込まれた朝海が、象の放った夜力の黒光により吹き飛ばされる。


「なんて、夜力だっ……」


 背中から地面に倒れ込んだ朝海が必死に体を起こそうともがきながら、険しい表情を見せる。

 夢を見る力が強ければ強いほど、夢喰の力は強くなる。あまりに強い晴香の夢は、皮肉にも朝海を苦しめることとなっていた。


「今の俺たちだけじゃこの夢喰は無理だ、朝海! 一旦退いて“日の出”総家から応援をっ……!」

「ダメだ!」


 晃由の言葉を遮るようにして、朝海が強くその提案を拒否する。


「あんな奴等に任せたら、先生の夢が壊されるだけだ。それだけは絶対にしない!」

「朝海っ……」


 あまり感情を表に出さない朝海の珍しいほどに感情を露にしたその言葉に、晃由は眉をひそめたままそれ以上何も言うことをしなかった。


「先生の夢は、俺がっ」


 朝海が痛みに表情を歪めながら、必死に上半身を起こす。


――――日下部は私にとって初めての問題児だからさ、誰よりも素敵な人になってもらいたいんだよね――――


「俺が守らないとっ」


 自らを奮い立たせるように、強く拳を握り締める朝海。


<私ノ言ウコトヲ聞カナイ生徒ハ、消エロ!>

「あっ……!」

「朝海!」


 まだ立ち上がれてもいない朝海へと迫る象の巨大な足。晃由が必死に身を乗り出すが、象の前足は朝海を踏み潰そうと勢いよく振り下ろされる。


「ううぅ!」


 覚悟するようにきつく瞳を閉じる朝海であったが、象の足はいつまで経っても下りて来なかった。ゆっくりと瞳を開いた朝海が戸惑った様子で顔を上げると、象の巨大な足は朝海の頭上でピタリと止まっていた。


「どうして」

<日下、部……>

「えっ?」


 夢喰が呼ぶ自分の名に朝海がさらに困惑の表情を見せる。象の足の下から移動した朝海は、まっすぐに象の顔を見上げた。象の額に埋め込まれた水晶体の中では、捕らえられた晴香が朝海の方を見下ろし悲しげな笑みを浮かべていた。


「夢喰に夢を喰われた状態で目を覚ますなんて」


 朝海と同じように水晶体の中の晴香を見上げながら、晃由が驚きの表情を見せる。


「先生……」

<日下部>


 水晶体の中で晴香が口を動かすと、それに連動するように低く野太い夢喰の声が、もう一度優しく朝海の名を呼んだ。


<ありがとう>

「えっ……?」


 放たれたその言葉に朝海が戸惑うように声を漏らした、次の瞬間であった。


「……っ!」


 朝海の前に立ち塞がっていた巨大な象は、まるで自ら弾け飛ぶように大量の夜力を周囲に撒き散らしながら、その姿を消し去っていった。掻き消えていく夜力の残骸を視界に入れながら、朝海が大きく目を見開く。


「先、生……?」


 完全に夢喰の消え去ったその場に残ったのは、水晶体に捕らえられた晴香であった。だがその水晶体も朝海が砕こうともしないうちに、黒い光となって掻き消えていく。消えた水晶体の中から解放された晴香がゆっくりと地面に倒れ込んだ。


「夢喰こと、自分で自分の夢を消したっていうのか? 朝海を守るために」


 欠片も残さずに消えていく夜力を見回しながら、晃由が険しい表情を見せる。


「先生っ……、先生!」


 倒れた晴香の元へと、朝海が傷の痛みなど気にすることもせずに駆け込んでいく。


「先生!」

「日下、部」


 駆け寄った朝海の必死の呼びかけに、深く閉じていた瞳をゆっくりと開く晴香。


「明日は授業、起きて聞いて、ね……」


 弱々しく声を発しながら、晴香が伸ばした手で朝海の頬に触れる。


「私の、最後の授業、だから……」


 願うようにそう言うと、晴香は再び深く瞳を閉じた。





 そして翌日。晴香の願い通り、朝海は晴香の最後の授業を眠ることなく聞いた。


「晴香先生、寂しいよぉ!」

「来週からも授業してよぉ!」

「ハイハイ、ありがとうありがとう」


 その日の放課後、受け持ったクラスの生徒たちから花束や寄せ書きを贈られた晴香は、別れを惜しむ生徒たちに囲まれながらいつもと変わらぬ明るい笑顔を見せていた。

 珍しく起きた状態で一日を過ごした朝海は晴香を囲む輪には入ることなく、鞄を持って一人静かに教室を出た。それに気付いた晴香が悲しむ生徒たちを宥め、すぐに後を追って廊下へと向かう。


「日下部!」


 晴香に呼び止められ、昇降口へと向かっていた朝海が立ち止まってゆっくりと振り返る。晴香は足早に廊下を進み、朝海のすぐ前で足を止めた。


「何? あんだけ補習させといてお礼の一つもなし?」

「お礼なら書いた」


 そう言って朝海が晴香の持っている寄せ書きを指差す。晴香が色紙に目を落とし朝海の名前を探すと、確かに色紙の隅っこに“ありがとう。日下部”と短く刻まれた文字があった。


「あんたねぇ、こういうのはせめて十文字以上書きなさいよ」

「“ございました”足す?」

「いいわよ、もう」


 朝海の言葉を聞いた晴香がどこか諦めるように肩を落とす。


「今日はありがとうね」

「え?」


 逆に晴香から向けられる礼に、朝海が戸惑いの表情を見せる。


「初めてよね、日下部がきちんと起きて私の授業聞いてくれたのって。すっごく嬉しかった」

「別に、最後くらいはって思っただけだし」

「うん。私の教師としての最後の授業、日下部に聞いてもらえて良かった」

「最後?」


 そっと聞き返した朝海に、晴香が明るい笑顔を見せる。


「私、教師にはならずに就職するんだ。って言ってもまだ就活してないから、雇ってくれる会社があるかわかんないけどね」


 晴香の言葉に朝海が静かに表情を曇らせる。


「先生、先生にはならないの?」

「うん、元々教員免許取るだけのつもりだったし」


 明るい笑顔は何も変わっていないのに、目の前の晴香は朝海が知っている晴香とはまるで別人のような言葉ばかりを返した。


「教師ってすっごく大変な職だからさ、私みたいな親が教師だから何となく教師かなぁーって中途半端な気持ちの奴はなるべきじゃないのよ」


 晴香のその言葉にまるで痛みを走らせるように、一瞬表情を歪める朝海。


――――無理でも無茶でもやってみせる、目指すは熱血教師よ!――――


 元気いっぱいの声で夕日を指差していた晴香の姿を思い出し、朝海がそっと目を閉じる。


「中途半端な気持ちなんかじゃなかったよ……」

「え?」

「ううん」


 聞き返した晴香に朝海は静かに首を横に振った。


「晴香先生、一緒に写真撮ろぉー!」

「ハイハイ」


 教室から女子生徒に呼ばれ、晴香が朝海から視線を逸らす。


「じゃあ日下部、元気でね」

「うん」


 朝海に笑顔を向けた晴香が朝海に背を向け、教室の中へと戻っていく。


「先生っ」


 朝海の呼びかけに、教室に入ろうとしていた足を止めて振り向く晴香。


「何?」


 笑顔で聞き返す晴香を朝海がまっすぐに見つめる。


「ごめんなさい」

「へ?」


 朝海が発したその言葉に戸惑うように声を漏らす晴香。だが晴香が聞き返す間もなく、朝海は晴香に背を向けて廊下を駆け去っていった。


「日下部?」


 朝海の去っていった方を見つめ、晴香はそっと首を傾げた。




「はぁ、はぁ」


 全力で廊下を駆け抜けてきた朝海は普段運動不足のせいか、短い距離でも大きく息を乱しながら何とか昇降口まで辿り着いた。早めに教室を出て来たからか、昇降口に他の生徒の姿はない。


――――こら、日下部! 補習まで寝てどうすんの!――――

――――大丈夫、日下部。私があんたを絶対卒業させてみせるから!――――

――――日下部は私にとって初めての問題児だからさ、誰よりも素敵な人になってもらいたいんだよね――――


「うっ……」


 晴香から掛けられた言葉を思い出しながら、朝海がその場に膝を折る。


「ううぅ……!」


 きつく閉じた唇から声にならない声が落ちる。


「あぁ……、ううあぁぁっ……!!」


 ただ込み上げる罪悪感に、行き場のない悲しみに、朝海は深く頭を抱え込んだ――――





「そっか。そんなことがあったんだ」


 喫茶Tomoへ行く途中にある小さな公園に立ち寄った朝海と硝子はベンチに並んで座り、朝海がかつて晴香の夢を消してしまったことを硝子へと話していた。朝海のゆっくりとした口調でようやく話が最後まで辿り着くと、硝子が受け止めるように声を発する。


「悲しかったね」

「うん……」


 硝子の言葉に素直に頷きを落とす朝海。


「悲しかった、とても」


 空を見上げながら朝海が小さく呟く。


「いい先生だったから、本当にいい先生だったから」


 晴香の明るい笑顔を思い出し、朝海が少し目を細める。


「本物の先生に、してあげたかったな……」


 静かに落とされる朝海のその言葉からとても深い悲しみと後悔を感じると、硝子もまた痛むように自身の胸へと手を当てた。


「それが、日下部君の“償い”?」


 少し躊躇うように間を置いた後、硝子がそっと踏み込むように朝海に問いかける。


「日下部君はずっと、守れなかった晴香さんの夢に報いるために、皆の夢を守ってきたの?」

「償えるとも報えるとも思ってないけど」


 言葉を落としながら朝海がゆっくりとベンチから立ち上がる。


「誰の夢も消えることがないように、誰の夢も守れるように、強くなりたいと思ってる」


 強い決意を表すように、強く拳を握り締める朝海。


「そっか」


 朝海の決意を受け止めるように、硝子がまたそっと頷く。


「まぁ誰の夢を幾つ守ったところで、守れなかった先生の夢が戻るわけじゃないけど……」

「そうかな?」


 問いかけのような硝子の返事に、朝海が少し戸惑った表情で振り返る。


「確かに、晴香さんの“先生になりたい”って夢は消えてしまったのかも知れないけど、でも」


 振り返った朝海をまっすぐに見つめ、硝子が穏やかに微笑む。


「夢を見るのってきっと、一度きりじゃないよ」


 同じようにベンチから立ち上がって、硝子が目線の高さを朝海へと近付ける。


「だから日下部君が皆の夢を守り続ければ、いつかきっと、晴香さんの新しい夢も守れる日が来ると思う」

「新しい、夢……」


 希望の響きを持った硝子の言葉を繰り返しながら、朝海は再び晴れ渡った空を見上げた。




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