Dream.01 春眠の転校生 〈2〉
「……っ!」
何かを感じ取った様子で、硝子が閉じていた瞳を勢いよく開く。
「何? 今何か」
顔を上げて周囲を見ると、そこは見慣れた自分の教室だった。朝海を起こそうとしたが起こせず、起こし疲れていつの間にか自分の机で眠ってしまっていたようである。教室には相変わらず眠ったままの朝海以外に人気はなく、廊下や校舎の外からも特に変わった声は聞こえない。
「気のせいか。って、もう四時!?」
前方の壁に掛けられた時計の時刻を見て、硝子が慌てた様子で立ち上がる。朝海を起こすことを諦めてから、一時間近く眠ってしまっていたようである。
「ヤバっ、早く帰って晩御飯作らないとお姉ちゃんに怒られる。ええっと、とりあえず日下部君を起こしてって、えっ……?」
朝海の方へと視線を移した硝子が、大きく目を見張る。朝海の机を通り過ぎ、窓際へと駆け寄る硝子。
見上げた空は真っ暗で、星一つ瞬いていなかった。
「四時って、こんなに暗かったっけ……?」
冬場ならともかく、今はもう四月だ。夕暮れは五時から六時の間くらいのはずである。だが実際に見上げた空は真っ暗で、日が暮れたばかりとも思えないほどの闇がどこまでも広がっていた。
言いようのない不安が胸に込み上げ、硝子はそっと眉をひそめる。
「アサミ、居るかぁー!?」
「え? あ、はい!」
廊下から大声で呼ばれ、硝子が慌てて振り返る。
「何っ……」
硝子が教室の後ろの扉へと駆け寄り廊下へと顔を出すと、そこには何よりも目を引く派手な金色の短髪に、射るような吊り目が印象的な少年が立っていた。水無月のような整った顔立ちではないが、野性的な雰囲気のその少年もなかなかの男前である。
『誰?』
少しの沈黙の後、互いを見合って硝子と少年が眉間に皺を寄せる。
「あれ? 今私のこと呼んっ……、あ、もしかしてアサミって」
朝のホームルームで同じ名を名乗っていた転入生のことを思い出し、硝子が振り返ってまだ寝ている朝海を見る。
「あ、居た居た。ったく、まだ寝てんのかよぉ? 朝海!」
硝子の視線を追って朝海を見つけたのか、その少年が他クラスであるというのに何の遠慮もなく教室の中へと進み、朝海の席へと向かっていく。そのまま廊下に居ても仕方ないため、硝子も大人しく自分の席へと向かった。
「朝海、起きろー! 学校来たって一日寝てばっかじゃ友達出来ねぇぞっ」
「んん……」
朝海の背中に右手を置き、大きく体を揺さぶって起こそうとする少年であったが、その行為にも朝海が目覚めることはなかった。なかなか起きない朝海に苛立ってきたのか、少年は背を叩く手に力を込め始め、さらには頭や頬まで全力で叩き始める。
「朝海? 朝海ぃ~!?」
「あ、あの!」
「へ? あ、さっきの」
硝子が思わず止めるように声を掛けると、少年が硝子の方を振り向く。
「何もそんなに叩かなくても」
「平気平気。こいつ、これくらいのことじゃ起きないから」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
頭や頬を引っ叩くことについて特に気にした様子のない少年に、硝子が顔を引きつる。
「ってか起きてもらわねぇと困るんだよ。夢現空間が出たから、もうすぐ夢喰が来ちまうっ」
「ユメバミ?」
少年が発する聞き覚えのない言葉に、硝子が戸惑うように眉をひそめる。
「ユメバミって」
「そういえば、君も“アサミ”ちゃんっていうの?」
問いかけようとした硝子の声を遮るように、少年の方が硝子へと問いかけてくる。
「あ、うん。浅見です、浅見硝子」
「ふぅーん。じゃあ硝子ちゃんね、アサミじゃややこしいし。俺は仲河晃由、今日二年A組に転入してきたんだ。よろしくね」
「転入?」
その言葉にまた戸惑いの表情を見せる硝子。転入生がそう何人も居るとは考えにくいので恐らく、この晃由という少年が麗華の言っていたA組の転入生なのだろう。二人が知り合いなのであれば、こんな中途半端な時期に同時に転入というのも頷ける。
「で、硝子ちゃんはさぁ」
考え込んでいる硝子へと晃由が鋭い視線を向ける。
「なんで起きてんの?」
「へ?」
晃由の問いかけに硝子が目を丸くする。
「なんで、起きてる?」
晃由の質問の意味がわからずに、硝子がその問いを繰り返す。
「おっかしいなぁー。夢現空間の中じゃあ、俺らみたいな特殊な人種以外は眠っちまうはずなんだけど」
「特殊な人種? それって、どういう」
「お、来たっ……!」
急に険しい表情となって窓を開き、そこから身を乗り出す晃由。晃由の視線の先を追うように、硝子も窓の外を見る。
「なっ……!?」
次の瞬間、硝子が大きく目を見開く。
「ひ、羊……?」
窓の外、正門から校舎へと続く前庭に姿を見せたのは、巨大な黒色の獣であった。
ふさふさとした体毛に全身を覆われ、頭部から二本の鋭い角を伸ばしている。黒一色の体の中では金色の角と、赤く光る瞳だけが一層際立って見えた。一見、黒い羊に見える獣だが、もっとも驚くべきはその大きさであった。グランドを包むネットを余裕で越える背丈は、恐らく四、五メートルはあるだろう。硝子たちは二階に居るというのに、獣の頭部を見上げる形となっていた。
「今回はヒツジさんかぁー。カワイイねぇ」
「な、何なの? あれっ」
暢気にその巨大黒羊を見つめている晃由に、少し取り乱しながら硝子が問いかける。
「あれは夢喰。その名の通り人の夢の力を喰らって暴れ回る、まぁ要は化け物ってやつ?」
「人の夢を喰らう?」
「そ。夢を喰われた奴がほら、あそこに居る」
晃由の指先を追い、硝子が羊の顔面へと視線を移す。体毛に覆われていない顔の上部、額の部分に埋め込まれた透明の水晶のような物体。その中にはっきりと人影が見えた。
「あれはっ」
その水晶体に閉じ込められ深く瞳を閉じている人物に、硝子は見覚えがあった。今朝、硝子より遅く登校し、風紀委員に遅刻の取り締まりを受けていた西口だ。
「今朝の」
<永遠ニ、夜デイイ……>
獣から発せられる確かな言葉に、硝子が戸惑うように眉をひそめる。
<朝ナンテ、来ナケレバイイ>
聞こえてくる言葉に、ハッとした表情を見せる硝子。
――――朝なんて来なけりゃいいのになぁ――――
それは今朝、西口が発していた言葉と同じものであった。
「夢喰の現れた周囲には、夢喰が喰らった夢を実現させた“夢現空間”が形成されるんだ」
「だから、夜にっ……」
四時だというのに広がる暗い空を見上げ、硝子が一層険しい表情を見せる。
「しっかし、結構面倒な夢見てくれてんねぇ」
少し困ったような笑みを浮かべながら、晃由が窓枠の上へと軽々と登る。
「な、何する気!?」
焦ったように問いかける硝子の方を振り向き、鋭く笑う晃由。
「勿論、化け物退治っしょ」
「えっ……」
「さぁ、行こうか」
射るような瞳で羊を見据えた晃由が、右手を胸の前で構える。晃由が中のシャツごとブレザーの袖を捲りあげると、晃由の手首に太陽のような黒い紋様が浮かび上がった。
「“輝”!」
「ううぅっ……!」
晃由が左手で右腕に浮かび上がったその紋様に触れた途端、晃由の体から強い金色の光りが発せられた。すぐ目の前から放たれるあまりに強い光に、硝子が思わず仰け反り、目を閉じる。
瞼の向こうから照りつける光りが収まったことを感じ取り、硝子が再びゆっくりと瞳を開いた。
「あっ……!」
開いた瞳のすぐ目の前に現れた、金色の獣。
「狼? でも」
全身が金色に光り輝くその獣は、狼のような鋭い瞳と牙を持ってはいるが、まるで象のように耳が大きい。大きさも外の羊ほどではないが、その背に人が二人は乗れそうな、現実の動物でいうライオンほどの大きさで、狼と呼ぶにはかなり大きく見えた。その大きな耳を羽のように翻して、獣は窓の外の宙に浮かんでいる。
「あ、こいつは危険な奴じゃねぇよ? こいつは俺の“獏”」
硝子の不安げな表情を察してか、晃由が問いかけられてもいないが答える。
「獏?」
「そう」
聞き返した硝子に頷きながら、晃由が愛しそうに輝と呼んだ獣の頭を撫でる。
「さぁーて行くか、輝!」
窓枠の上から飛び出した晃由が輝と呼ばれたその獣の上に乗り込むと、輝は大きな耳を翻し、勢いよく外に居る羊の元へと飛び出していった。
<朝ナンテ、来ナケレバイイ……!>
飛び出してきた輝の姿を見つけたのか、再び言葉を発した羊がその場で前足だけをあげ、体の前半分を空中へと持ち上げて、後ろ足を一気に回転させる。
その場で勢いよく回り始めた羊の巨体から、ふわふわとした毛の塊がまるで弾丸のような速度で次々と輝の元へと飛び出していく。
「んなもん、当たるかよっ!」
その無数の高速体毛弾を、素早い動きで瞬く間に避けていく輝。
羊が回転を止め、その場に再び前足をついたそこへ、すべての体毛弾を避けた輝が辿り着く。
「一気に喰らうぜ、輝!」
晃由の言葉に輝が耳を広げ、さらに高く飛び上がる。大きく口を開き、牙を光らせた輝が、一気に下降し、羊の背の中央へと容赦なく歯を立てる。
「うぇっ?」
だが突き立てた牙に手応えはなく、輝の上で晃由が少し間の抜けた声を漏らす。
<永遠ニ、夜デイイっ……!>
「うおっ!?」
再び前足をあげ、勢いよく回り出した羊に、晃由が輝ごと背中から放り出される。輝は近くにあったグランドのネットを突き破り、そのままグランドの砂の上へと落ちた。
「痛ってぇ~」
輝の背からグランドへと落ちた晃由が、打った後頭部を押さえ、砂で汚れた制服を払いながら表情を歪める。
「毛がモサモサ過ぎて身が喰えねぇ。結構苦戦すんな、こりゃあ」
頭を掻きながら、晃由は気の抜けた笑みを浮かべた。
「すっごい。夢でも見てるのかな……?」
輝と羊の交戦を見ながら、唖然とした表情を見せる硝子。目の前で起こる二匹の獣の戦いはあまりにも現実離れしていて、硝子は瞳には映してもこれが現実だと実感することは出来ないでいた。
「うううぅ……!」
グランドに座り込んだままの晃由と輝に、羊が先程と同じように無数の体毛弾を向ける。今度はさすがにすべてを避けることが出来ずに、晃由がさらにグランドの奥へと吹き飛ばされていく。
「あ、仲河君っ……!」
窓枠に両手を置き、思わず身を乗り出す硝子。
「このままじゃ、仲河君と狼さんが羊にっ」
「んっ……」
硝子の焦りの声にか、外の衝撃音にか、朝からずっと動かなかった朝海の背がゆっくりと動く。漏れるその声に、硝子がすぐさま振り向く。
「あっ」
振り向いた硝子が、思わず目を見張る。
「晃は?」
ゆっくりと周囲を見回しながら、どこか気だるげに問いかける朝海。そのゆっくりとした口調は朝、わずかに話した時と同じだが、決定的に違うのは目の下にあった黒い隈がきれいになくなっていることだった。青白かった顔色も健康的な色に戻っており、その表情はまるで別人のようだった。
「隈がなかったら、普通にかっこいい……」
「へ?」
「あ、ううん!」
まだ少し呆けた様子で聞き返した朝海に、硝子が勢いよく首を横に振る。
「仲河君なら狼さんに乗って下にバーンて飛び出していって、でも今羊にバーンてなってて」
「そう」
あまりにも激しい戦いを何と言葉にしていいかわからず、硝子が身振り手振りで何とか伝えようとするが、朝海は特に理解に困った様子も見せずにあっさりと頷いた。
ゆっくりと椅子から立ち上がった朝海が、すぐ横の窓を開け、窓枠に登りあがる。
「あ、あのっ」
「君は」
声を掛けようとした硝子の方を、朝海がゆっくりと振り向く。朝海のまだ少し眠たげな瞳が、まっすぐに硝子を捉えた。
「ここで、“待っていて”」
「……っ!」
朝海から向けられたその言葉に、硝子が大きく目を見開く。
――――ショウ、僕を待っていて……――――
「え? あ違っ、ここ二階っ……! あ、あれ?」
思い出された言葉を振り払い、窓から身を乗り出し下方を見つめた硝子であったが、硝子の心配とは裏腹に、朝海は何事もなかったかのようにスタスタと中庭を羊に向かって歩いていっていた。
「どうなって……?」
――――“待っていて”――――
首を傾げていた硝子が、再び思い出される言葉に険しい表情を見せる。
遅刻してしまいそうなほどに、何度も見て来た夢。顔も見えない誰かがいつも言っていた言葉。重なった言葉はどこか懐かしく、だが無性に不安を煽った。
「ダメなんだ。きっと、待ってるだけじゃ」
硝子が呟きながら、両拳を強く握り締める。
「行かなきゃっ……、行かなきゃ!」
自分を奮い立たせるように声を発すると、硝子は教室の扉から勢いよく廊下へと飛び出していった。
「うぅぅおっ!」
羊に咬みつこうと試みた晃由であったが、先程よりも高速で回転をし始めた羊に近寄ることすらも出来ずに吹き飛ばされ、またしてもグランドに着地する。
「チェっ、羊も喰えねぇとか肉食男子のプライド傷つくぜぇ。なぁ、輝」
立ち上がり輝の長い耳を撫でながら、晃由が悔しげに唇を尖らせる。何度も体毛弾を浴びたからか、晃由の体は所々傷つき、破れた制服には血が滲んでいた。輝もまた同様に、長い手足や大きな背に細かい傷を負っている。
「随分苦戦してるんだな」
「んあ? おっ」
右方から聞こえてくる声に振り向いた晃由が、すぐさま笑顔を見せる。
「ようやく起きたか。おっはようさぁ~ん」
「おはよう」
その場に現れたのは、先程教室から飛び降りた朝海であった。
「危なかった~。朝海がこれ以上爆睡してたら、俺結構ヤバかったぜ」
「もう少し寝ておけば良かったな」
「うわっ、そういうこと言っちゃう? 大事なお友達が傷つきながら戦ってるっていうのに」
素気なく言い放つ朝海に、晃由が拗ねたような口調で言葉を返す。
「折角、グラドルの天井シャンデリアちゃんと水着デートしてる夢の途中だったのに」
「うわっ、そりゃ貴重な夢の最中に悪かったな! ってか、俺も見てぇ」
緊迫した状況であるというのに、あまり緊張感のない会話を繰り広げる朝海と晃由。その間にも朝海はゆっくりと前方の巨大羊を見回した。額の水晶体の中の西口の姿と、星一つ見えない真っ暗な空を確認する。
<朝ナンテ、来ナケレバイイ……>
「……成程」
羊から聞こえてくる声を聞き、朝海が納得したように頷く。
「なかなか厄介な夢だ」
「だろ? もうこの真っ暗お空のお陰で朝力半減よぉ。なぁ、輝」
輝へと声を掛けながら、晃由が少し困ったように肩を落とす。
「喰えないのか?」
「毛が邪魔で牙が届かねぇ」
「なら毛を刈ればいい」
「まぁ、そりゃそうなんだけど」
「早く喰ってくれ。でないと俺は夢媒者を起こせない」
晃由に急かすように言葉を向けながら、朝海が左手でそっと輝の右耳に触れる。
その瞬間、強い金色の光が輝を包み込んだ。光が収まると、輝が負っていた傷はすべてきれいに消え去っていた。輝の傷と連動するように、晃由の傷も消える。そして輝は傷が消えただけでなく、全身が帯びる金色の光が一層輝き、先程よりも力が増しているように見えた。
「さっすが」
そんな輝の姿を見つめ、満足げな笑みを浮かべる晃由。
「頼むぞ、テル」
「あいよ!」
朝海のその言葉に答える晃由の横で、輝も言葉を理解している様子で大きく頷く。
「んじゃあ行くか、輝!」
晃由が再び輝の背中に乗り込むと、輝は耳を広げて飛び上がり、前方の羊へと勢いよく翔け抜けていく。
「毛刈りしてやんぜっ」
輝が晃由の言葉に頷くと、輝の右前足の金光が強くなり、鋭い爪が一気に伸びる。
「いっけぇぇ!」
晃由の声が響く中、輝が大きく身を捩じらせ長く伸びたその爪を奮って、羊の右半身の毛を勢いよく刈り落としていく。黒い体毛が羽のように幻想的に舞う。
「よし喰うぞ、輝!」
毛が刈られ剥き出しとなった羊の皮膚へと、輝が今度は牙を伸ばす。
その時、羊の瞳が赤々と光り、金の角が輝いた。
羊の全身を覆っていた柔らかな毛が一気に抜け落ちると、剥き出しになった皮膚からまるで刃のような鋭い毛が一斉に突き出す。
「何っ……!?」
その羊の変化に大きく目を見開く晃由であったが、咬みつこうと接近していた輝を下がらせる時間はなく、突き出した鋭い毛が容赦なく輝に襲いかかった。
「ううぅああああっ!」
「晃っ……!」
輝と共に刃の毛に突き刺され、吹き飛ばされていく晃由の姿に、朝海は焦りの表情を見せた。