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ゼロ地点


「たーだいま~」

「あ、おか…ええっ!?」



呑気に雑談していた門番達(職務怠慢)は、既に顔馴染みとなった異国の少女が陽気に挨拶する声に笑顔で応じたが、振り返った端から語尾が跳ね上がった。


傍らを駆け抜けた少女の姿に―――正確には、彼女に担がれたもう一人の姿に肝を潰したのだ。


「ひっ、姫様!?」

仰天して叫ぶものの、咄嗟に名前が出てこなかったのは致し方無いと言えよう。辛うじてビアンカだと分かったのは、先刻何やら思い詰めた足取りで門を出ていったのを、不可解に思いながらも黙って見送ったから、纏う衣服で判別できたに過ぎない。


「ねえー、誰かお医者呼んで」

慌てて追い掛けてきた門番と、彼等の叫びを聞きつけて城内から飛び出してきた幾人かの従者に向けて、ルルーが頼んだ。

「骨は折れてないと思うけど、一応見てもらった方がいいよ」

「これは、一体何が!?」

動転した叫びが上がる。誰の目にも異常は明らかだった。


ルルーに背負われたビアンカの上着は踏みにじられて汚れ切っており、力任せに引っ張られた所為で右肩の縫製が千切れかけている。ぼさぼさの髪の合間から見える頬は青黒いあざで斑となり、濡れたような気配と憔悴しきった相様は、何をどう贔屓目に見ても事件か事故に巻き込まれた結果だった。


ルルーの背中で、ビアンカは泣き疲れて半ば虚脱していたが、彼女の僅かに残った矜持は従者に涙で汚れた顔を見られることを拒み、抱き取ろうと伸ばされたいくつもの腕を無視して、濃紺の髪に隠れるように身を縮めた。

「ちょっと!わたしの髪に顔突っ込んで泣かないでよね!そうでなくてもここに来るまで散々濡らしてくれたんだから!」

一向に降りようとしないビアンカに猛然と苦情を投げ付けたが、相手は聞いているのか、いないのか。



ルルーは、何も最初から気前よくビアンカを運んでやった訳ではない。

道中の半分はぐずぐず言っている彼女の手を引き、そんな二人をたまげた顔で見送る(広場の騒ぎには巻き込まれていない)大人達を無視して歩いてきたのだが、涙としゃっくりに注意と意識を持っていかれたせいで、ビアンカは何もない所でスッ転ぶことを繰り返し、三度目に酷く転んだ時「もう歩けない」とそのままぐずりはじめたので、埒が開かんと背中を提供してやったのだ。賞賛に値する慈善活動だろう。


泣きべそをかきながらおぶってもらったビアンカは、己の体たらくを非常に情けないと思いはしたものの、それを口にする気力も体力も底をついていたので、大人しく好意に甘んじた。

そうして背中を借りてしまえば、相手の温もりが熱を失いかけた自分の手足にじんわりと伝わり、訳もなく涙腺が緩んで視界が溺れた。

「うっ、うっ、うえぇ……!」

「まー、結構根性見せたじゃん」

ビアンカの膝をばしばし叩いて笑う少女を、お前一体いつから見てたんだと詰ってやりたかったが、箍が外れてしまった今は、とりあえず背中をハンカチ代わりに泣くだけだった。


「さあ、姫様、こちらへ」

「お顔を上げて、立てますか?」

「…うるさい、さわるな…!」


口々に宥めにかかりながら肩に触れる従者の手を身を捩って払い落とし、奥歯を噛み締めながら呻くように拒絶した。

誰に何をどうして欲しいのか、もう自分には判断する力は残っていなかったが、少なくともこんな事ではないと思った。

微々たる、しかし確かな抵抗に、ルルーは眉間の皺を、周囲は困惑を深めたようだ。



「ひ、姫様、しかし…」

「―――ビアンカ!」



狼狽する取り巻きの外から突然響いた声に、ビアンカの心臓が形が分かるほど大きく跳ね上がった。

聞き間違えかと思ったが、ルルーの明るい声があっさりその仮定を一蹴してしまう。

「あ、ジェラー」

ルルーの見つめる先、前合わせのケープを肩に掛けたジェラーが、背後にレムを伴いながら階段を駆け降りてきた。取るものも取らずに飛び出してきたといった、切羽詰まった風情だった。


近寄る足音と息遣いを肌で感じ、きりきりとビアンカの呼吸が締め上げられた。

こんな無様な格好を正面きって祖母に見られたくなかった。思わずしがみつく力を強めたのだが、無情にもルルーが両手を外したために、あっけなく落下、派手に尻餅をついた。

「……いっ!」

臀部を殴った鈍痛に文句を言うより早く、正面に祖母が膝を付き、余り聞いたことがないトーンの声で早口に捲し立ててきた。


「一体何があった?どこに行っていたんだ?ついさっきお前の侍女からお前が見当たらないと言われたが、外に行っていたのか?何をしていたんだ」

「……おばあ様…」


祖母の切迫した口調と面持ちが、己の身を心配している裏返しなのだと解らず、ビアンカはぼんやりと見返すことしかできなかった。大体祖母とは非常に気まずいやり取りを最後に顔を合わせていなかったから、茫然自失の今でなくても、一体どんな表情をすればいいのか見当もつかない。



「お前、何を持っている?」

「…え」



急にそう問われ、今初めて気付いたように、ビアンカは己の胸元に視線を落とした。

ぼろぼろの両手で抱き締めていたもの。

それはあの広場で、自分が不可抗力で駄目にしてしまった緋霊花だった。


ルルーに手を引かれて立ち去る間際、反射のように持ってきてしまった、茎を折られて崩折れた、この国の花。この国の象徴。


「…これ」


震える手で緋霊花を持ち上げ、混乱と心配に揺れる祖母の瞳を真正面から見上げた。

何も言えず、考えられず、しばし黙していたビアンカだったが、不意に腹の底に熱い揺さぶりがかかり、眼窩と喉が再び焼け付いた。

「…ふぇ…」

微かに切れた口の端から落ちる、赤ん坊のような声を合図に、空洞になりかけていた心の中に呼び水のような様々な感情が濁流となって押し寄せ、すべてが決壊した。





「これ…私っ…駄目にしちゃった…!大事な花なのに…!駄目にしちゃったの…!」





先の号泣の比ではない、全身が溺れていくように、あとからあとから涙が溢れて止まらなくなった。

暴力を振るわれたからでも、罵声を浴びせられたからでも、身体が痛むからでもない。ただ、大切な祭りの花を潰してしまったことが祖母に対して申し訳なくて、涙が止まらなかった。



出し抜けな告白に、ジェラーは少なからず狼狽えた。孫娘が泣いている理由が上手く掴めなかったのだ。

こんな、夥しい数用意されている花を、一つ無下にしてしまったくらいで、満身創痍な自身の現状を訴えるより先に懺悔し、泣きじゃくるビアンカの心が分からなかった。

だが、涙を落とす少女を見つめるうちに、頭の中に充満していた灰色の靄が晴れるように、視界が広がった。



―――この子は、もともと゛こういう存在゛なのだ



些細なことに心を痛め、傷付き、それをいつまでも引き摺ってしまう、多感で弱い子供。

ビアンカは、ただそれだけの小さな存在なのだと。

王家の末裔でも自分の孫娘でも蛮族の混血児でもなく、それ以前にそれ以上に、ただの脆弱な、人並み以上に脆い子供なのだと。

そう思い至ったジェラーは、いつの間にか色眼鏡を通してこの娘を見ていたことを突然はっきりと自覚し、殴られたような心地になった。



周囲に控えた他の者達が受けた衝撃は、更に激しいものだった。

目の前にいるのが、敵族の血を引く異形の姫ではなく、ただの無力で弱い、庇護と優しさを必要としている小さな少女であることを、ここに来てようやく、頭ではなく心で感じ取った。



生まれたことを否定され、息をすることを否定され。

自分達は、こんな子供に、一体何を、押し付けていたのか。



誰も何も言えず、停滞した空気が悲鳴を上げんばかりに絞り上げられたが、不意に頭上から思わぬ助け船が入った。

「あのねー、別になんでもないんだよ?」

女王だけでなく、狼狽する者達全員に行き届く声量で、本当に何でもないことのように、腰の後ろで両手を交差させたルルーが、少しだけ得意げな笑みを浮かべて胸を張った。



「雪合戦して、負けそうだったから助太刀したの。私達の勝ち!」

その緋霊花は、巻き添えくっちゃったの。それだけ。




自信すら込められた告白は、説明としては不充分で、明確なことは何一つ述べていないが、周囲の誰にもそれ以上の詮索を許さない透明な気迫が、少女の笑顔には顕然と混在していた。


だが、到底鵜呑みにはできない。言葉通りなら、ルルーだけ無傷なのはおかしかった。

明らかに何かを隠しているが、しかし追及もできず、迷走した無数の視線が、説明を求めるようにビアンカへと集まった。

だが、こちらも―――こちらの方が、周りの疑問符に応えられるような状態ではなかった。


「ううっ、うええええ…っ!」

「ビアンカ…」

「うあああっ!ごめんなさい!ごめんなさいおばあ様!ごめんなさい!」


躊躇いがちに肩を抱いた祖母のケープに遮二無二しがみつき、恥も体裁も置き去りにして、ビアンカは大声で泣きじゃくった。何に、どの部分に対して謝っているのか、なんの涙なのかわからなかったが、謝罪ばかりが喉から溢れて止まらなかった。



息もつけない程激しくむせび泣くビアンカの背を静かに見つめ、ルルーが一歩身を引く。


(…まあ、これでなんとか言い訳も立つでしょう)


あらぬ方角に目を泳がせながら、ほんの少しだけ舌を出し、自分を誤魔化すように内心で独白する。

無論この『雪合戦』という目眩まし、もとい建前としての大嘘が対象なのは、ジェラーを含めた城の関係者に限定されている。



女王の背後に影法師のように佇みながら、口を挟まず、ただ物問いたげにこちらを凝視するこの国の現人神に通用するとは、端から思ってはいない。




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