神殺し
足音も立てず、そちらへ向かう。
十代も後半の青年と娘が数名、人の枠を逸脱した壮絶な雰囲気に呑まれ、後退りもできずに青ざめていた。
「オマエ達はこれから私と一緒に城に来てもらう」
「な…何…なんで…」
命令口調で宣告され、ちょうど相対する形となった青年が、震える声で訊ねれば、返る答えはこんなもの。
「さっきビアンカに吐きつけた台詞を、ジェラーの前でもう一度言ってもらう」
「……そ、それは…!」
「自分が言ったことを覚えてないなら私が繰り返してあげる―――女王陛下もお気の毒に、人生棒に振った末に、あんな出来損いしか手元に残らないなんて、どれだけ優秀な統治者でも、私生活は哀れの一語に尽きるねぇ―――血族のビアンカに言えたなら、ジェラーにだって直接言えるだろう。もう一度、彼女の前で言ってもらう」
「……………っ!」
それは場の空気に流された軽口であり、深い意味も中身も無い、誰にだって覚えがある浅はかな悪意だ。
しかし一度言及されれば「みんながやっていたから」などという釈明は通用しない類の代物だったと、ここに来てようやく、致命的なまでに手遅れな段階に到達してから、ようやく気付かされた。
極刑に直結した指図だったが、揺るぎ無い黄金の輝きが放つ圧力の前に、質の悪い冗談はやめてくれと、縋る方が愚かだった。
ルルーが無表情に首を傾げる。
「どうしたの、早く歩きなさい」
「…あ、あの…そ、その…」
「歩きなさい」
平坦な催促に、血を抜いたような白い顔で歯をガチガチいわせながら、最早生きた心地もしない卒倒寸前の状態で、相対した青年がすみませんと言った。
それを皮切りに、周囲の皆が言い訳めいた謝罪を譫言のように溢れさせ始めた。
恐怖の最前線で幽鬼のようになった若者らを冷たく見据え、ルルーはついと視線を外した。途端に全員が糸を切られたようにその場にへたばり込んで、纏う気配だけで啜り泣いた。
その様を一瞥し、貌を上げたルルーは、凍り付いている他の全員に再び問いを投げ付けた。
「どんな立場で、どんな権利があれば、ロゼリア=サルバドーレ=フィリの、直系の娘にこんな真似をして許される?」
異国の娘が朗々と紡いだのは、初代女王の真名だった。
民草ではおいそれと口に出すことすら許されない、脈々と口伝されてきた、神々に次ぐ畏敬の対象。
「水神からこの国を賜った、王族の娘をなぶる蛮行が許される?」
少女の弁舌は明朗で、どこまでも正論だった。
ようやく彼等の思考と意識に、事の重大さが心臓が止まるような質量の危機感を伴って忍び寄ってきた。
自国の王女が――例え子供同士であろうと――暴力を振るわれている様を制止もせず見物していたなどと、外部の者達の耳に入ればあっという間に国としての信用を失う。
それ以前にルルーが城の関係者に告発すれば、この場の全員は斬首などという生易しい罰では済まない。異邦人の娘という側面ばかりに気をとられていたが、ビアンカは間違いなく王家の人間。一介の民に過ぎぬ自分達の行いは、糾弾されて然るべき反逆であり犯罪だった。
「…報いを受ける覚悟も無しに、考えなしに、こんな舐めた真似をしたなんて言わせないよ?」
無意識に浮上した弁解は、口にする前に叩き潰された。
フィリにおける王族への不敬罪には、四肢を砕かれ獣の巣窟へ放り込まれ、生きながら皮と内臓を食い破られて正気を破壊された末に悶絶死するという、拷問を兼ねた陰惨な処刑が適応される。
ジェラーの代になってからは、実刑を被るような思想犯や重犯罪者が出なかったために誰もが失念していたが、無論刑罰自体は存続しており、この状況は見本の如き適法の中核だ。
何よりこの振る舞いが水神に知れれば――人種を問わず幼子の加護と健康、慈愛と祝福を担うスーフェンに知られれば――フィリは一瞬で女神の覚えを失うだろう。煌盟巫国の名誉と、これまでの栄光を失うだろう。
その過程に連動し、即座に脳裏に去来したのはある国の末路。かつて同盟国だった、栄華を極め権勢を誇り、他国から羨望と憧憬を浴びた、今はもう歴史の表舞台から消えた国。
「オマエ達も同じか?」
何処か白々とした、低い、低い問い掛け。
周囲の心、そして動揺を汲み取ったように、的確な詰問が春の中で破裂する。
「オマエ達も同じか――――あの《神殺し》共と同類か!」
それは断罪、そして居合わせた者すべての心身を震撼させる、禁忌と同義の、これ以上無い弾劾の言葉だった。
《神殺し》のリドガー。
その名を知らぬ者は、この国には――国どころか――この大陸にはいないだろう。
それほど周知の、記憶に新しい、惨劇の主役となった国名。
天から得た威光と権威の上に胡座をかき、恵みをもたらしたカミガミを蔑ろにした挙げ句、親愛の証である星神姫を貶め、追い詰め、殺した国。
六皇神すべてから見放され、死すら剥奪された上で内部より崩壊し滅び去った、煌盟巫国の成れの果て。
「慢心と暴力の末は破壊と破滅だ。そのすべてを、彼の国がこれ以上無いまでに体現してみせたというのに、そこからオマエ達は何一つ学び取っていないのか?
明日の我が身だと、考えたことが一度たりとも無いのか?
それが驕りだと、不敬だと、何故気付かない?」
間断なく吐き捨てられる問責は鉛のように重く、真実を含んだ鋭い批難だった。
眼を泳がせるばかりの人々に、ルルーは更に眼差しを強めた。
「大体何をもってして他国を蛮族と罵る?オマエ達は、その蛮族の支援無しでは衣食もままならないくせに!雪狼石なんて、ただの石ころじゃないか。生活水準の高い外の国が価値をつけているから値打ちがあるんじゃないか。石ころだと切って捨てて、手を切られたら干からびて終わるのは誰だと思ってるんだ?付け上がるにも程がある!」
どうなんだ、という厳しい追及。
返ってくるのは、死に等しい無音ばかり。
「黙っていないで、何か言え!」
充分蒼白な顔を並べていた面々の肌色は、既に白を通り越して灰色に変わっていた。
しばし、呼吸を握り潰す沈黙が広場を支配する。
「………誰も、何も答えられないのか」
視線を巡らせた末に零れる、嘆息めいた呟きは、心底幻滅しながらも何処か納得しているような、不思議な響きを孕んでいた。
―――やはりか。
やはり、ここも『同じ』か。
「弁解があるのならいくらでも聞いてあげる、オマエ達にそれができるなら、むしろこれまでの見識を改めないとね」
ルルーが傲慢に言い捨てる。突き放すような冷笑が、言外の意図を如実に物語っていた。
誰が正統性など語れよう。
誰の眼にも、非は明らかだ。
そう―――加害者の眼から見てさえ。
不意にそれまで辺りを束縛していた、世界が窒息するような緊張とざわめきが、空気に気配すら残さず陽炎のように消え去った。威嚇的に蠢いていた風も、羽をたたむように消えてなくなる。
この場で起こった事、見聞きした全てが、錯覚か悪い夢であったかのように、跡形もなく、時間を巻き戻したように、何もかも元の形に戻った。
集団催眠から醒めたような感覚と現実の落差についていけず激しく戸惑う輩をよそに、ルルーは一つ首を振ると、夜空のような長い髪を軽く流す。その時には既に眼光に宿った獰猛さも箔落し、いつもと変わらぬハシバミの実が二つ並んでいた。
振り翳していた刃を収めるように緩慢な仕草で両手を腰の後ろに回し、そのままあっさり踵を返した。
相変わらずべそをかいて蹲っているだけの餓鬼連中も、戦き狼狽え怯えるばかりの、図体がでかいだけの餓鬼連中も最早眼中になかった。
ルルーが確かな足取りで向かうのは、それまで一顧だにしなかった、マモノの仔と罵られた少女の元。
俯せに倒れ、眼ばかり大きくした顔を辛うじて持ち上げているビアンカの前にやってくると、両脇に腕を差し入れ、引き摺り起こすようにして立たせた。ビアンカは呆けたような表情で、なすがままにされている。
「大丈夫?」
靴跡だらけになった上着をおざなりに払いながら訊ねたが、感情の糸が切れた銀髪の少女はすぐには答えなかった。こぼれ落ちんばかりに両の眼を見開いて、ただ、からからに乾いた口腔から、異物を吐くように心を絞り出す。
「…………もん」
「は?」
「…わたし、悪くないもん」
掠れた声で呆然と訴えれば、ハシバミの瞳がくるりとこちらを見上げ、眉間に深い皺が刻まれる。
「だから何?」
自明の言葉を繰り返すな。
微かに怒ったような声音で紡がれたのは、気遣いでも、思い遣りでも、優しい肯定でもなく、ぶっきらぼうで嫌々な返事ではあったけれど、その返答は、どういう訳か酷くすんなりと心に落ちた。
ビアンカをあちこち点検したルルーは、腰に手を当てて随分偉そうな態度で質問する。
「で、歩ける?どっか痛い?」
「………顔」
「顔?ああ、ちょっと腫れてる。薬塗った方がいいかも」
「顔…血が出てる…」
「切れてはいないよ」
「うそ…血が出てる…」
頑なに言い張るビアンカに、ルルーが怪訝そうに眉根を寄せる。
「出てないってば」
嘘だと思った。
自分は、頬が切れて血が流れている。
そうでなければ、顎先から滴り落ちる、この熱い雫が何なのか、説明がつかないではないか。